第2話 虎

 それは、ゴールデンウィークが終わって間もなくのことだった。この日も、わたしは放課後になると日課となった朗読会へ向かう。途中、トイレによってリップクリームで唇をなぞり、紐タイを直した。


 朗読会ではわたしも朗読をする。そのとき、南雲君の視線を強く意識していた。本を読むときの姿勢、活舌、声色……少しでも南雲君に『可愛い』と思われたかった。


 南雲君は『カッコよかった』と言ってくれた。だから、今度は『可愛い』と言ってくれるのではないか? 根拠なんてないのに、そう期待してしまう。淡い期待を抱くだけで幸せだった。



──南雲、南雲、南雲……すっかり南雲君に夢中だな……。


 

 わたしは自分に呆れながらトイレを出る。すると、廊下で三人の女子に呼び止められた。三人とも他のクラスで名前も知らない。戸惑っているとスカートの短い二人の女子が進み出てわたしを睨む。



「ねえねえ。夏木さん……だよね?」

「は、はい」

「あのさ、単刀直入に聞くけど、南雲とどういう関係?」

「え……」



 二人は敵意に満ちた眼差しでわたしと南雲君の関係を問いただす。わたしは怯んでしまって上手く言葉が出てこなかった。すると、二人の影からわたしよりも小柄な女子が顔を出した。栗色のショートヘアがよく似合う可愛らしい子だった。



「二人ともやめてよ……夏木さんに悪いよ……」

「だってマキ、おかしいじゃん。コイツ、いつも南雲と二人きりなんだよ。ちゃんと言わなきゃ!!」

「そうだよ。でないと、ウチらがマキについてきた意味ないじゃん……で、アンタさぁ、南雲と何してんの?」


──うるせぇな。お前らにコイツとか言われる筋合いなんてねぇんだよ。まずは名前くらい名乗れ。



 わたしは心の中で毒を吐く。でも、それは臆病な自分を奮い立たせるための虚勢で、本来のわたしに理不尽な問いかけを咎める勇気なんてない。



「わ、わたしは別に……な、何も……朗読、朗読会を……」



 堂々としていたかったのに、極度の緊張と不安で後頭部が熱くなって痛くなる。声も上ずって震えていた。そんな自分が死ぬほど恥ずかしかった。すると、見かねたのか、マキと呼ばれた女子が強引に二人を引き下がらせる。



「だから、やめてって言ってるでしょ……夏木さん、本当にごめんなさい」



 マキは二人の背中を押すようにして去ってゆく。でも、一瞬だけわたしを見た。目を糸のように細めた眼差しはとても鋭く、わたしを値踏みするようで冷たかった。


 多分、マキは南雲君が好きなのだろう。考えてみればわかる。南雲空と二人きり……わたしを羨む女子はきっとたくさんいる。嫉妬されて当然だった。マキだって、恋愛話の延長であの二人にけしかけられたのかもしれない。



──バカじゃん……。



 今の出来事が南雲君に知られれば、きっとあいつらは嫌われる。



──大好きな南雲君にバレないか怯えながら生きろ。



 わたしは自分を慰めるために悪ぶってみせる。でも、どれだけ悪ぶってみても虚しいだけで、膝もまだ震えていた。深呼吸をしながら窓を見ると、ポツリポツリと降りだした雨粒が窓ガラスを叩いていた。



✕  ✕  ✕



 情報処理室に入ると南雲君はもう長机の前に座っていた。椅子に深く寄りかかって山月記を読んでいる。本を読む南雲君はどこか物憂げで、涼しげな目元がとても美しく見えた。マキたちのせいで波立った心も鎮まってゆく。



「南雲君、ごめん。ちょっと用事があって遅れちゃった」

「俺は大丈夫。それより、夏木さんこそ忙しいのにごめん」



 二人とも謝ってばかり。おかしな光景だけど、やっぱり南雲君の声は魔法だった。聞いているだけで心が落ちついてくる。わたしはすべてを黙っていることに決めた。もともと、言うつもりなんてない。でも、南雲君は勘が鋭いのかわたしの顔をジッと見つめてきた。



「……夏木さん、何かあった?」

「いや、何もないよ」

「そう? いつもより元気がないように見える」

「そんなことないよ」

「……それならいいけど」

「それより、遅れちゃったから早く始めない? ほら、本を出してください」



 わたしは話題を逸らすように明るく振舞う。すると、南雲君は怪訝な表情をしながらも山月記のページをパラパラとめくる。そして、視線を落としながらこう言った。



「今日は最初に夏木さんの朗読を聞いていいかな?」

「わたしの?」

「うん。漢詩の部分を聴きたいんだ」

「いいけど、急にどうしたの?」



 南雲君はもう山月記を上手に朗読できる。あらためてわたしの朗読を聴く必要性なんてない。不思議に思っていると南雲君はかすかに前へ身を乗り出した。



「俺はまだ漢詩を感情的に読むことができなくて……夏木さんの朗読を参考にしたい」

「参考にしてくれるのは嬉しいけど……」



 わたしは頬が熱くなるのを感じながらカバンから山月記を取り出す。これは朗読会のために新しく買ったものだった。



「漢詩のところでいいの?」

「うん。お願いします、先生」

「ちょっと、ふざけないでよ……」



 少しだけふくれてみせるが、本音は真逆だった。大好きな朗読で南雲君に頼られる……これほど嬉しいことはない。わたしは舞い上がる気持ちを押さえて朗読を始めた。



たまたま狂疾きょうしつって殊類とる。

 災患さいかん相仍あいよってのがるべからず。

 今日こんにち爪牙そうがたれえて敵せん。

 当時、声跡せいせき共に相高し。

 我、異物と蓬茅ほうぼうの下。

 君、すでように乗りて気勢ごうなり。

 の夕べ渓山明月けいざんめいげつに対し、

 長嘯ちょうしょうさずしてこうす」



 漢詩の朗読はわたしも苦手だった。感情的に読むことが難しい。読み終えるとホッとして南雲君を見る。いつもだったらすぐに感想を言ってくれるのに、南雲君は黙ったままだった。わたしはどこか重苦しい空気が流れている気がして無理に笑顔をつくる。



「なんか緊張して上手く読めなかったなぁ~」

「……いや、そんなことないよ」



 南雲君はやっと答えてくれた。安心していると彼は静かに口の端を上げる。赤い唇がいつもより鮮やかに見えたのは気のせいだろうか。



「山月記って、自意識過剰な青年が心をんで虎になる話だよね? 『誰でも心の中に猛獣を飼っている』っていう……」

「そうなるかな……」

「じゃあ、俺や夏木さんの心にも虎がいるわけだ……」

「え……?」



 言葉の意味を理解できずにいると南雲君はゆっくりと立ち上がった。そして、長机に両手をついてわたしに顔を近づける。その顔を見てゾッとした。あまりにも無表情だったからだ。能面のような顔を見て、わたしは初めて南雲君を『怖い』と思った。それに、豹変したのは表情だけじゃない。



「夏木さん、簡単に俺と二人きりになるなんて、無防備すぎ。朗読をしている間、俺がどこを見ていたかわかる?」

「……」



 答えようのない嫌な質問だった。『怖い』という感情に『気持ち悪い』という感情が追加される。すぐに情報処理室を出て行きたかったけれど、立ち上がった南雲君がとても大きく見えて、竦んでしまった。南雲君は動けないわたしを見ながら面白そうに続ける。



「俺、ずっと夏木さんの髪、目、唇、首筋を見てた。読むたびに動く唇とか、文字を追いかける視線とか……」

「……」


──何でそんなことを言うの?



 心が悲鳴を上げる。何故、今日に限って南雲君の雰囲気が急変したのだろう。必死になって理由を探してみるが思い当たらない。南雲君を見ているだけで呼吸が止まりそうになった。冷汗も止まらない。



──も、もしかして……。



 ふと、脳裏にマキたちの姿がよぎった。



──もしかして、マキたちは南雲君の危険性をわたしに教えようとしてた? でも、どうして? いや、でも……全部がわたしの妄想だったら……?



 頭がグチャグチャして考えがまとまらない。ただわかっていることは、あれほど夢中になっていた南雲君が、今は恐怖の対象でしかないということ。



「心の中に虎を飼っているなら……その虎を飼いならすのも、解き放つのも本人次第ってことでしょ?」



 乾いた声と同時に南雲君はついに長机を越えてこちら側へとやってきた。外は土砂降りになっている。せわしない雨音が耳にこびりついて離れなかった。

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