第3話 檻
「ねえ、夏木さんは好きな人とかって……いる?」
南雲君はわたしの耳元へ顔をよせてくる。あまりにも距離が近い。低い声が耳をくすぐると、わたしはさらに肩を
「な、なんで、そんなことを聞くの? それに、さっきから怖いよ」
「怖い? 俺が?」
「うん、怖い。わたしを怖がらせて、面白がっているのならすごく腹が立つ」
本音だった。わたしは膝の上で両手を握りしめる。強く拒絶できず、この距離を許した自分が情けない。何より、南雲君に裏切られたようでとても悲しかった。わたしを喜ばせるだけ喜ばせておいて、急に崖から突き落とす……そんな行為に思えてしまう。朗読会を心待ちにしていた自分がバカみたいだった。
「ごめん、怖がらせるつもりなんてなかった」
「どうして、こんなことをするの……?」
どうしても声が震えてしまう。すると、南雲君は隣の椅子に腰をかけた。少し椅子を引いて、わたしとの距離を適度に保つ。
「事実を伝えないと卑怯だと思ったから」
いつもの優しい声。わたしは恐る恐る顔を上げた。南雲君は長机に片肘をついて伏し目がちにしている。視線の先には
「事実? 卑怯って……何が?」
「それは……」
南雲君はちらりとわたしを見て続けた。
「朗読をしている夏木さんはあまりにも綺麗だから、つい動作を目で追ってしまう。
でも、夏木さんはそんな俺に気づかないで、いつも楽しそうにしているから……不純な気持ちになるたびに罪悪感で胸がいっぱいになるんだ。だから、正直に言った」
『綺麗』という単語の意味がわからない。いや、わかってる。南雲君に言われると心が敏感に高鳴ってしまう。あれだけ『怖い』『気持ち悪い』と思っていたのに、今度は『嬉しい』という感情が沸き起こる。わたしは乱気流のように乱れる心を悟られまいとして、推しの顔を思い浮かべて冷静さを取り戻した。
「でも、あんな言い方しなくても……」
「あんな言い方?」
「『無防備すぎる』とか、『トラを解き放つ』とか……怖いじゃん」
「だって、そう思ったから。夏木さんは俺以外の男とも二人きりになるのかな? って考えたらなんだかイラついて。少しからかいたくなった。ごめん……」
──ガキかよ。
好きな女の子を虐める男の子。そんな幼い図式を想像してみると、呆れながらもあまり怒る気になれなかった。素直に謝る南雲君を見ていると可愛いとさえ思える。わたしも少し意地悪をしてみたくなった。
「とりあえずわかったけど、笑えない。怒ったから……」
わたしは南雲君の目をまっすぐに見つめる。口元を少しほころばせるのは、言葉とは逆に『もう怒っていないよ』というサイン。いつもの南雲君なら、すぐに気づいて機嫌をとってくれる。案の定、南雲君は申し訳なさそうに微笑み返してくれた。
「本当にごめん。彼女でもないのにからかっちゃダメだよね……あ、彼女でもダメか」
照れ隠しのつもりかもしれないけれど、茶化すような口調が心を抉った。『彼女でもないのに』という言葉が心に思いきり引っかかり、頭の中で何度もリピートされる。
──そうだよね。虎だって襲う獲物くらい選ぶよね。わたしこそ変な妄想ばかりしてゴメン。
わたしは強がりで思いこみが激しい。心のどこかで、『そこら辺の彼氏彼女より、わたしと南雲君の方が強い絆で結ばれている』と自己満足に
「もう、脅かさないでね」
「わかった」
「本当かなぁ」
わたしは精一杯の笑顔をつくって余裕をみせる。南雲君は涼やかな目元を細めて頷いてくれた。悔しいけど、こんな時ですら彼を美しいと思った。
──わたしこそ、南雲君を見てばっかり……。
少し後ろめたい気持ちでいると南雲君は椅子に寄りかかりながら天井を仰いだ。
「そういえば、朗読する日が来週の金曜日に決まった」
「え!? そ、そうなんだ……頑張って……ね」
『山月記』を読む日が決まる……それは、朗読会の終わりを意味していた。遠からずわたしは南雲君と離れ離れになり、いつもの日常へと戻る。覚悟していたことだけれど、やっぱり寂しかった。
「朗読、上手くいくといいね。応援してるよ」
「……」
南雲君は静かに頷くだけで何も言わない。沈黙が苦手なわたしは、両手の指先を絡めながら情報処理室の壁かけ時計を見上げる。30分以上たっていることに気がついて慌てた。
「南雲君、部活に遅れるよ!!」
「……部活なら大丈夫」
「でも、けっこう時間がたったよ。みんなに迷惑を……」
「いいんだ。もう……」
南雲君は短く答えると、小さくため息を
──南雲君はわたしに話したいことがあるんじゃ……。
いつもの思いこみかもしれないけれど、わたしはそれとなく尋ねてみることにした。
「南雲君、何か話したいことでもあるの?」
「え?」
「なんとなくだけど、そんな気がして」
南雲君は意外そうな顔をしたかと思うと、考えこむように
「ありがとう、夏木さん。確かに、夏木さんに聞いて欲しい話がある。でも、話を聞いたら、俺のことを嫌いになるよ」
「どうして?」
「どこまでも醜い人間の、どうしようもない話だから」
南雲君は眉根を寄せて苦しそうに告げる。彼の目が『話を聞いて欲しい』と懇願しているようで放っておけなかった。
「いいよ。かまわないから聞かせて」
「ありがとう。夏木さんは優しいね……」
南雲君は言葉を選びながらポツリ、ポツリと語り始める。それは、彼の心の奥深くに閉じこめられていた虎が檻を破る話だった。
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