空に太陽は昇っているか

綾野智仁

第1話 朗読会

 新学期になって一か月近くたった。期待や不安でざわついていた教室も落ち着きを取り戻しつつある。ただ、高校二年生になってもわたしの学校生活は変わらない。新しい友人ができるというわけでもなく、教室の片隅でひっそりと過ごしている。


 今の環境に対して特に不満があるというわけではない。でも、休み時間や放課後になると、賑やかな声が学校中にあふれて苦手だった。孤独を強調されているようで、どうしても寂しくなってしまう。


 この日も、放課後になるとわたしは図書室で本を読んでいた。誰かに見られているというわけでもないのに、背筋をピンと伸ばして。それは、孤独な学校生活に対するわたしなりの抵抗だった。こうして、『わたしは充実した学校生活を送っているんだ』というちっぽけなプライドを保っている。しかし、平穏な日常は突然、壊された。



「ねえ、夏木なつきさんいる? 夏木なつきあきらさん」



 図書室の入口からわたしを呼ぶ声がする。聞きなれない男子の声にドキリとして顔を上げると、こちらを指さす図書委員の横に背の高い男子が立っていた。



──え? 南雲なぐも君……?



 彼の名前ならわたしでも知っている。バスケットボール部の副キャプテンで生徒会議長。体育祭や生徒総会で見かける南雲なぐもそらはとても華やかで、学年でも目立つ存在だった。彼はわたしの隣までくると、周囲を気にしながら小声で話しかけてきた。



「夏木さん、読書中にごめん」

「い、いえ……別に。何か用ですか?」

「あのさ、ちょっといいかな……外で話さない?」

「え……」



 わたしは戸惑った。けれども脳内では爆速で妄想が膨らんでゆく。



──見ず知らずの女子を放課後呼び出す!? それって、告白するときの王道じゃん!! わたしにもこんな展開があるなんて!! 恋愛小説の神様ありがとう!!



 すべてが『南雲なぐもそらに告白される』という自意識過剰で都合のよい妄想ばかり。正直に言って頭が湧いていた。でも、異性に対して免疫のないわたしは、こんな時どうしたらよいのかわからない。動揺を押し殺すことで精一杯だった。



「わ、わたしも時間があるので……だ、大丈夫ですよ」

「そっか、よかった。じゃあ、外で待ってるね」



 南雲君は優しく微笑みかけて図書室を出て行った。



──ちょ、ちょっと待って!! 心の準備が!! あれ!? 今日って雨だったよね!? 髪、広がっちゃってない!? 縛っておけばよか……あ、早く行かなきゃ!!



 わたしは読みかけの本をカバンにしまって立ち上がる。でも、慌てていたせいで膝を思いきり机にぶつけてしまった。ガンッという漫画みたいな打撲音が図書室と体内に響く。


 『超絶いってぇぇぇ!!!!』と大声で叫びそうになったけれど、グッとこらえた。脳内麻薬でも出ているのか、今は痛みも気にならない。外では南雲空が待っている。わたしは期待に胸を高鳴らせて図書室を出た。しかし……。



「あのさ、夏木さん……俺に朗読を教えてくれないかな?」

「……はい?」

「だから、朗読」

「……」



 わたしは驚いて南雲君を見上げる。すると、彼は少し照れくさそうに話し始めた。



「この前、現国の授業で爆睡しちゃってさぁ~。先生、大いにおこりけり。今度、クラスのみんなの前で朗読することになったんだ」

「はあ……」

「俺、普段は読書とかあんまりしないから、何を読んだらいいのかわからなくて……」

「それでしたら、教科書に載っているのを読めばいいのでは……?」

「それだとなんか、本を読まないヤツみたいでカッコ悪いでしょ? やっぱ朗読するなら、『南雲空、やってんね~』とか言われたいじゃん」


──いや、あなたはもうやらかしてるでしょ。だから、朗読するハメになったんだよ……。



 見事に期待を裏切られたわたしは心の中で冷静にツッコミを入れる。そして、首を傾げた。



「事情はわかりました……でも、どうしてわたしに頼むのですか?」

「夏木さん、駅前の本屋さんで小さい子供たち向けに朗読会をやってるでしょ?」

「な、何で知ってるの!?」



 思わず声が大きくなった。廊下を通りかかった女子たちがわたしと南雲君へチラチラと視線を送ってくる。視線が集まるのは苦手だった。わたしは肩をすくませて両手をギュッと握る。そんなわたしを見て、南雲君の口調が少し慌てたものへと変わった。



「ごめん、詮索するつもりじゃなかったんだ。俺、妹がいて……夏木さんの朗読会に参加しているんだよ。妹を迎えに行ったとき、夏木さんを見かけたんだ」

「そ、そうなんだ。知らなかった……」



 確かに、わたしは駅前の本屋さんで朗読会をしている。店長と父が知り合いというのこともあり、時々、子供向けの『読み聞かせ』をやっていた。でも、それは日陰者のわたしにとっては秘密中の秘密。



──な、南雲君に見られていた……。



 その事実に手が震えて奥歯もカタカタと鳴る。後ろめたいことをしていたわけでもないのに、わたしは後悔と恥ずかしさで胸が一杯になった。すると、ふいに南雲君の声が耳元へ届いた。



「夏木さんの朗読がとても上手だったから思わず聞き入っちゃって……これだけ上手く読めたらどれだけ楽しいだろう……って素直に感心したんだ。妹や子供たちもすごく喜んでたし……夏木さん、カッコよかったよ」

「え……」



 わたしは言葉の意味がすぐに理解できず、思わず尋ね返してしまった。



「そ、それってどういう意味……?」

「どうって……そのままだよ。もう一回言う?」

「い、いえ。結構です!!」

「あはは、夏木さんて面白い人だね。俺は朗読が下手だから、『上手い人に教えてもらおう』って考えたんだ。夏木さんさえよかったら、俺に朗読を教えてよ」



 南雲君は爽やかな笑みを浮かべている。彼の笑顔を見ていると思考が麻痺してくるのがわかった。


 別に、誰かに褒められたくて『読み聞かせ』をやっていたわけではない。それでも、南雲君の言葉は『孤独でもかまわない』とかたくなだったわたしの心を溶かしてゆく。さりげない称賛がこれほどまでに耳に心地よく、甘美だとは知らなかった。自然と、わたしは彼の申し出を快諾していた。口元がニヤついていないか心配しながら……。



「教えるのはかまわないけど……何を読むの?」

「それは……まだ決めてない」

「え? だって今、『教えて』って」

「そうなんだけど……夏木さんが選んでよ。『南雲空、やってんね~』的なカッコイイ本」


──む、無茶言わないでよ……。



 わたしは呆れながらも南雲君に似合うであろう本を考えた。すると、すぐに一冊の本が思い浮かぶ。それは直感的なもので、『南雲君が読んだらカッコイイだろうな』と思える作品だった。



「ちょっと待ってて」



 わたしは図書室へ戻って一冊の本を借りてきた。南雲君はわたしの手元を見ながら不思議そうに目を細めた。



「それは? さんがっき?」

「違うよ、山月記さんげつきって読むの。中島敦先生の作品だよ。ウチの高校の教科書には載ってないから……」

「へぇ~どんな話なの?」

「それは自分で読んでみて欲しいな……まぁ、簡単に言うと自意識過剰で虎になった青年が旧友と再会する話」

「虎!? 虎が出てくんの!? しかもしゃべんの?」

「え? ソコ? ま、まぁしゃべるけど……」

「そっかぁ、しゃべる虎かぁ……これを読むとみんなにすごいって思われるかな?」

「それはわからないけど……素晴らしい作品には違いないよ」

「夏木さんがそう言うなら、それで!! じゃあ、俺は部活があるから行くよ」



 朗読する作品が決まると南雲君は部活へ向かおうとする。



──ちょっと待ってよ。この本はどうするの? 朗読するのはあなたでしょうに……。



 どこまで身勝手なんだろうと思いながら、わたしは遠ざかる彼に今後のことを尋ねた。



「ねえ、いつ、どこで練習するの? 図書室だと朗読はできないよ」

「ああ、それなら情報処理室を使おうと思っているんだ。自習ってことで先生の許可を取ろうと思う。夏木さんの都合がつくなら、明日の放課後、情報処理室で待ってる」



 南雲君はそう言い残して体育館の方へと去ってゆく。わたしは嵐が過ぎ去ってホッとする小動物のようにため息をついた。でも……南雲君の『待ってる』という言葉が妙に耳に残っている。あの南雲空に頼みごとをされたのだから、悪い気はしない。わたしの自尊心はくすぐられた。


 次の日からわたしと南雲空の朗読会が始まった。時間は授業終わりから南雲君が部活に行くまでの30分。情報処理室で二人きりの朗読会。たった30分だけど、すぐにかけがえのない時間となった。


 わたしは特別なことを教えていない。反復練習と抑揚の大切さを伝えただけで、南雲君は見る間に上達した。余裕のできたわたしたちは練習の合間に雑談もするようになった。


 学校のちょっとした話題で笑い合い、好きなゲームの話で盛り上がる……南雲君との朗読会は、どこかくすんでいたわたしの毎日を色鮮やかなものへと変えてくれた。それこそ、雨雲を背にして太陽を見上げているような気持ちだった。



──ああ、わたしはこんな風に誰かとおしゃべりをしたかったんだ。南雲君といるだけで、日々の景色がこんなにも違って見える……。



 二人きりの教室。汗をかいた缶ジュースと窓際のカーテンをなでる風。そして、南雲君の優しげな瞳と少し低い声。どれもが新鮮で、いつの間にかわたしは『二人きりの朗読会』に夢中になっていた。気づけば、『孤独な学校生活』も遠くに消え去っている。



──わたしは楽しいけど……南雲君はわたしといて楽しいのかな?



 そんな不安を感じながらも、『明日は何を話そう……』と期待している自分がいる。このときのわたしは南雲君と過ごすことに夢中で、本来の目的を忘れていた。何の疑いもなく、『南雲空のいる世界』が当たり前に続くと思いこんでいた。

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