第六章 対質尋問

 昭和24年(1949年)に施行され、刑事訴訟法と共に現代刑事裁判の具体的な手続きを定めた刑事訴訟規則の第124条はこう規定する。


『必要があるときは、証人と他の証人又は被告人と対質させることができる』


 「対質」とは、要するに二名以上の証人に対して一度に質問を行う事ができるという裁判上の制度の事であり、具体的には対立する二人の証人の発言を比較検討したい際などに行われる。例えば弁護側と検察側それぞれの鑑定人の見解が食い違った際などに、比較検討を容易にするために二人の鑑定人を一度に証言させ、どちらが正しいのかを判断するというわけだ。特に二人の証人がいて、双方の主張が対立している時などに行うと効果的であるとされ、どちらの言い分が正しいかは裁判官が判断する事となる。

 あまり聞かない制度ではあるが、有名どころでは名作『白い巨塔』内で行われた医療行為の是非をめぐる民事裁判において対質尋問が行われる描写が描かれている。この小説の場合は民事裁判の事例であるが(具体的には民事訴訟規則第118条に規定)、実は同じような制度は刑事裁判にも存在し、その根拠がこの刑事訴訟規則124条に規定される条文となる。

 もっとも、一見便利に見えるが、実際にこの「対質」が刑事裁判で行われる事はほとんどない。理由としては、そもそもその前の刑事訴訟規則第123条第1項に『証人は、各別にこれを尋問しなければならない』とあって、刑事裁判の証人尋問は基本的に一人ずつ行う事が原則とされている点。また、いざ行うとなっても証人同士が互いを気にして証言しづらくなってしまう(特に証言者の一方が被告人だった場合はこれが顕著)という問題が発生してしまう点。証言者に共犯の疑いがある場合に証言の示し合わせが可能になってしまう点(通常の尋問ではこれが考慮されており、証言前に他の証人の証言を聞く事は刑事訴訟規則第123条第2項の『後に尋問すべき証人が在廷するときは、退廷を命じなければならない』という条文で禁止されている)、二人の証人が同時に出廷するための時間調整が難しい点などの問題点があり、便利な制度でありながらほとんど権利行使される事はないというのが実情である。

 しかし今回、榊原と検察側は真犯人・片寄耕太を追い詰めるための手段として、榊原と片寄による対質を裁判所に要請し、弁護側もこれに同意した(というより、被告人の無罪が立証できるかもしれないのだから弁護側が同意するのは当然である)。そして少なくとも榊原はこの対質において片寄に遠慮するつもりは全くないだろうし、逆に片寄の方も己の罪を逃れるために徹底的に榊原に抵抗するつもりだろう。すなわち、通常の対質で問題となる「証人同士が互いを気にして証言しづらくなる」「証言の示し合わせが発生する」という状況は発生しない。つまり、裁判所としても対質を躊躇する理由は一切存在しなかったという事になるのだ。

 かくして、現代の刑事裁判においては滅多に行われる事のない、証人同士による対質尋問という名の『探偵と真犯人の法廷における対決』が、京都地方裁判所の小法廷を舞台に実現しようとしていた。


 検察側の申請から十分後、裁判所事務官の手で証人席の前に二つの椅子が並ぶように設置され、榊原と片寄は並ぶように腰かけた。榊原はすました表情、片寄は怒りに肩を震わせた表情で、ジッと正面の裁判官を見据えている。予想もしなかった展開に傍聴人たちは誰もが緊張した表情を浮かべており、瑞穂も傍聴席からハラハラしながら榊原を見つめている。榊原から色々教わっているとはいえ法律関係の知識にはまだ疎い瑞穂ではあるが、それでもこの状況が異常である事はこの場の雰囲気から察する事ができた。

 そしてそんな中、いよいよこの前代未聞の裁判劇が幕を上げようとしていた。

「準備はよろしいですか?」

 裁判官の問いかけに検事席の諸橋と弁護人席の秋沼はほぼ同時に頷く。それを見て、裁判官は宣告した。

「では、始めましょう。まず、新たに召喚した証人への人定質問を行います」

 すでに榊原には人定質問を済ませているので、ここでは新たに証人となった片寄に対してのみ人定質問が行われた。

「証人の氏名は?」

「……片寄耕太です」

「生年月日は?」

「平成二年五月十八日」

「職業は?」

「京邦大学理学部二年」

「住所及び本籍地は?」

「住所は京都市右京区××で、本籍地は大阪府大阪市……」

 その後もいくつか人定質問が続き、最後に榊原も行った証人の宣誓が行われ、これで全ての準備は整った。

「それでは検察官、主尋問をお願いします」

「はい」

 裁判官に言われて諸橋が立ち上がる。名目上、対質は証人同士が自由に議論できる場ではなく、あくまで検察側と弁護側による尋問の発展形である。なので、この場においては榊原と片寄が直接議論の応酬を行うのではなく、主尋問を行う検察官……つまり諸橋の質問に答える形で二人の対決の火蓋が切って落とされる事となった。

「さて、先程榊原さんから片寄さんに対する告発があったわけですが、これについて片寄さんはどう思われますか?」

 この問いかけが発せられると同時に、片寄は鬼のような形相でまくしたてた。

「言い掛かりもいいところです! 俺は何もやっていません!」

「榊原さん、片寄さんはこのように言っていますが、何か言う事はありますか?」

 諸橋の質問に、榊原は対称的に静かに答える。

「私の意見は変わりません。私が六月十八日に発見した諸々の証拠は捏造されたものであり、それを行えたのは片寄さんしかありえない。従って片寄さんがこの事件の犯人である。それが私の結論です」

「ふ、ふざけるな! そんな事……」

 片寄は何か反論しようとするが、その前に諸橋の注意が飛んだ。

「証人は勝手に発言をしないように! 余計な事は言わず、こちらの質問にだけ答えてください! 従えないと言うならば退廷という事になり、榊原さんの証言のみが証拠として採用される事になります!」

「グッ……」

 片寄はそう言って言葉を詰まらせる。通常の推理勝負と違って自由に反論できないという点が相当やりづらいらしく、榊原や検察もそれを狙ってこの状況に持ち込んだのは明白だった。もちろん条件は榊原も同じであるが、先述したように元刑事である榊原は刑事時代に担当事件の証言のために法廷に出廷した経験が何度かあるため、片寄に比べるとかなり余裕があるようだった。

「それでは片寄さんにお聞きします。榊原さんはあなたを真犯人として告発しました。その上で、あなたの犯行当日のアリバイをこの場でお聞きしたい」

「アリバイ……だって?」

「この場であなたが榊原さんの告発を否定するには、あなた自身が自分は犯人でないという証拠を明示する必要があります。そのためにはアリバイを確認するのが一番手っ取り早い。それを前提とした上で、あなたの事件当日のアリバイはどうなっているのですか? それさえ認められればその時点で榊原さんの告発は無効となり、この対質尋問も即座に終了する事になりますが」

「そ、それは……」

 片寄が口ごもる。裁判官や秋沼弁護士、それに傍聴人たちは真剣な表情でそんな片寄の態度を見つめていた。日常生活では決して味わう事ができないその張り詰めた空気は、片寄の心をくじくのに充分すぎるものだった。

「……アリバイは、ない」

 片寄は絞り出すようにそう答えた。

「アリバイはない……それで間違いありませんか?」

 片寄は無言のまま苦しそうに頷く。すかさず諸橋は榊原に視線を向けた。

「片寄さんはそう言っていますが、榊原さんから何か言う事はありますか?」

 これに対し、榊原は対称的に落ち着いた様子で切り返す。

「では、私から一つ質問しますが、アリバイがないのはいいとして、事件当日、あなたは具体的にどこで何をしていたのでしょうか?」

「そ、そんなの答える必要は……」

 反射的に片寄はそう叫びかけるが、再度諸橋の鋭い声が飛んだ。

「勝手な発言は控えてください! 私が質問しています!」

「ぐっ……」

「ただ今の榊原さんの質問は検察としても気になるところです。改めて、片寄さんに質問します。事件当日、あなたはどこで何をしていたのですか? 具体的に答えてください」

「それは……」

「なお、最初に宣誓している以上、虚偽の証言は偽証罪が適用されます。また、証言する事によって自身が罪に問われる可能性がある場合を除き、法廷において証人による証言の拒否は認められていません! その辺りの事をよく考えて証言するように!」

 つまりそれは、通常の推理勝負と違い、都合が悪いからといってこの場で黙り込んでやり過ごす事はできないという意味だった。法廷における証言で黙秘権(質問に対して答えなくてもよい権利)が認められているのは冒頭でその告知を受けた被告人のみであり、これを逆に言えば証人にはよほどの事情がない限り黙秘権(正確に言えば証言拒絶権)が認められていないという事でもある。これは要するに、証人は基本的に法廷内での検察官や弁護人の質問に対し必ず何らかの答えを返さなければならないという事だ。証人が好き勝手に証言を拒否できてしまうと裁判そのものが進まなくなってしまうのだからこれは当然である。

 唯一証人が証言を拒否できるのは諸橋が言ったように「証言をする事によって自身もしくは一定範囲の親族(三親等以内の親族もしくは二親等以内の姻族)が何らかの罪に問われる危険性がある場合」であるが、これを実行してしまうと証人もしくはその親族が何らかの罪を犯していると暗に法廷で認める事に繋がってしまう。例えば今の諸橋の質問に対して証言を拒否した場合、「事件当日に片寄が何らかの犯罪を行っており、それがばれると片寄本人が罪に問われてしまうので証言を拒否している」と解釈されてしまうという事だ。黙り込む事で裁判中はやり過ごせたとしてもその後警察が捜査を始めるのは自明であり、今の状況でそれをやるのは片寄にとっては自殺行為に他ならなかった。こう考えると、裁判冒頭で被告人に対して必ず告知される『黙秘権』という権利がどれだけ強力で重要な権利なのかがよくわかるというものである。

 そう考えた時、瑞穂は榊原があえてこのような形で片寄に勝負を仕掛けた理由に気付き、そして背筋が凍りついた。すでに片寄が怪しいと睨んでおり、おそらくは京都府警や検察もその意見に同調していた以上、直ちに斉川に対する起訴を取り下げた上で片寄を逮捕し、改めて片寄を被告人として起訴を行う事もできたはずだ。そうせずに斉川を起訴した状態のままあくまで裁判の証人という形で片寄を追求しにかかったのは、証人の場合は証言を拒否できないという点を利用して片寄を追い詰めるための布石だったのだろう。そこまで考えてこの状況に持ち込んだ榊原の用意周到さに、瑞穂は末恐ろしさ感じていた。

 そして当の片寄もここでようやく榊原の仕掛けた『罠』に気付いたようだったが、こうして『舞台』に出てしまった以上、気付いたところでもはや後の祭りである。榊原の告発に対して反論したいがためにこの対質尋問が実現している以上、今さら勝手に証言台から降りるわけにはいかない。つまり、嫌でも検察官の質問に応えねばならなかった。

 そんなこんなで、しばらく押し黙って必死に何かを考えていた片寄だが、やがて声を震わせながら必死な形相で言葉を紡ぎ出す。

「……あの日は……そう、大学が終わって、そのまま家に帰ったはずです」

「家というのは、あなたが住んでいる京都市内のアパートですね?」

「そうです」

「帰宅した時間は?」

「えっと、あの日は講義が午前中で終わったから、午後一時頃には……」

「随分早いご帰宅ですが、何か理由でも?」

「なぜって、別に理由はありません。その日は家でゆっくりしたいと思って……」

「調べた所、あなたは妹さんと同居しているようですが、その時部屋に妹さんはいなかったのですか?」

「……いなかったはずです。まだ大学に行っていました」

「帰宅後、何か変わった事はありましたか?」

「変わった事、ですか?」

「誰かが部屋を訪ねてきた、もしくは自宅周辺で何か騒ぎがあった、といった事ですが」

「……なかった……はずです。よく覚えていませんが」

 片寄は慎重に発言する。ここまで来れば榊原が検察と手を組んでいるのは明白である。それだけに警戒をするのは当然だった。

「では、帰宅してから具体的に何をしていたのですか?」

「何って……ゼミの課題をしたりテレビでサッカー中継を見たり、あとは飯を食ったり、たまっていた洗濯を片付けたり……」

「随分遅い昼食ですが、具体的には何を食べたのですか?」

「何って……適当に余ってたスパゲティを茹でて食べて、あとは夕飯のために炊飯器でご飯を炊いたり……」

「あなたは帰宅後、自室で炊事洗濯をした。間違いありませんね?」

「あぁ。だから何だって……」

「裁判長!」

 と、突然ここで諸橋が声を張り上げた。

「ただ今の証人の証言について、検察側は虚偽の証言をしている可能性があると判断します!」

「なっ、ど、どういう意味だよ!」

 片寄は必死の形相で叫ぶ。そんな片寄を諸橋はじろりと睨む。

「先に提出した証拠……具体的には前回の公判におけるマンション管理人の金下源蔵氏の証言ですが、この中で彼ははっきりと言っている。『事件発生時、右京区では水道管破裂によって断水騒ぎが起こっていた』と!」

 諸橋その言葉に、片寄は一瞬呆気にとられた後、ふと何かを思い出すような表情を浮かべ、直後、その表情はみるみる悪くなっていった。すかさず諸橋が畳みかける。

「証人! 先程の人定質問によると、あなたの住所は京都市右京区だったはず。もし証人が事件当時本当に自宅にいたというのならば、この断水に気付かないはずがありません。まして、水が必要な炊事洗濯をしたなど、絶対に不可能であるはずです!」

「そ、それは……」

 片寄が絶句する。金下の証言では断水そのものは二時間で終わったとの事なので、おそらく彼が本当に帰宅した時にはすでに断水は直っており、自宅が断水していたという事実を知る事ができなかったのだろう。また厳密に言えば、問題の金下の証言を傍聴席にいた片寄も聞いていたはずだが、事件の本筋とは関係ない証言であった事もあり、いきなりこの場でアリバイを聞かれて当たり障りのない証言をする事に気をとられた片寄は、偽アリバイを考える事に必死でその証言の事をすっかり失念してしまったようであった。

「断水の事を知らなかった時点で、証人が事件当時自宅にいたという証言は明らかに偽りです。すなわち証人……あなたは先程証人としての宣誓をしたにもかかわらず、早くも証言の偽証をした事になります」

 傍聴人たちがざわめき、片寄は焦りのあまりか拳を震わせている。だが、裁判は止まらない。止める事ができない。

「改めてお聞きします。証人は事件当時、どこで何をしていたのですか? 法廷の場で偽証しなければならないほどの事情とは、どのようなものだったのですか?」

「……」

「何度も言うように、被告人と違い、証人には黙秘権は適用されません! それでも黙秘するというのであれば、それは事件当日に証人が何らかの罪を犯したと暗に認める事になります! それでもあなたは黙秘をするつもりですか?」

 諸橋の追及は苛烈を極める。やがて、片寄は振り絞るように言葉を紡いだ。

「……覚えてねぇ」

「何ですって?」

「覚えてねぇって言ったんだ!」

「たった二週間前の、それも友人が亡くなった日に自分が何をしていたかを覚えていないと言うつもりですか!」

「そうだよ! 文句あるか!」

 片寄はやけっぱちのように敬語を崩して叫ぶ。諸橋は呆れたように首を振り、今度は榊原に問いかけた。

「では、榊原さんにお聞きします。御覧の通り、片寄さんは事件当時自分がどこで何をしていたのかを答える事ができません。これについて、榊原さんはどう思われますか?」

 間髪入れずに榊原はその問いに答える。

「先程から述べているように、東山区の現場マンションで被害者を殺害していた可能性が高いと考えます。もちろんレンガを屋上から落とすなどという面倒な方法ではなく、被害者を直接凶器で殴りつけたと考えるのが妥当でしょう。そして事件後、同時刻に偶然レンガを落としてしまったマンション住人の斉川氏が過失致死容疑で逮捕されて起訴されました。斉川氏本人が自分の罪を認めていた事もあって、本来なら後はこのまま判決が出れば彼は罪を逃れられるはずでした。しかし、そこで思わぬ事態が持ち上がってしまった。他でもない、友人の岡部武一君が、本件が過失致死事件であるという結論に疑問を持ち、この私に事件の調査を依頼してしまった事です。被害者の友人という立場上、彼は岡部君が私に依頼する事を止める事はできなかった。しかし、だからと言ってこのまま放置するわけにもいかない。恥ずかしながら私は元々警視庁捜査一課の刑事だった人間で、言ってしまえば犯罪捜査の専門家です。民間の探偵とはいえ、そんな人間がちゃんと事件を調べれば『第三者による殺人』という事件の真実がばれてしまう可能性があると彼は考えたのでしょう」

 そこで一度言葉を切り、榊原はこう続けた。

「そこで、彼は大きな賭けに出る事にした。本件が『殺人』であるという事がばれるのは仕方がないと割り切った上で、それが第三者ではなくすでに逮捕されている『斉川氏の故意』による殺人であると誤認させる事にし、彼の故意を立証するような偽造証拠を現場に仕込んで、その偽造証拠をあえて私に発見させようとしたのです。新しい証拠が見つかっても、発生当初から『過失致死事件』として扱われた本件については警察もそこまで詳しい捜査はしていない事から、『事件直後は警察の捜査不足で発見されなかっただけ』と誤魔化しきれると踏んだのでしょう。しかし、犯行を誤魔化すために仕込んだこの偽造証拠が、逆にこの事件が第三者による殺人である事を示す重要な証拠になってしまった。これが、この事件の真の姿だったと考えられます」

「なるほど」

 諸橋はそう頷くと、今度は片寄に鋭い視線を向けた。

「さて、これまでの榊原証人の話を聞いて、何か言いたい事はありますか?」

 その問いに対し、片寄は待っていましたと言わんばかりに、怒りを押し殺した声で反論を開始した。

「い、言いたい事はたくさんあるぜ。まず、さっきから俺が犯人だっていう前提でどんどん話が進んでいるけどよ。それは今まで法廷に出てきた証拠と矛盾するんじゃねぇのか? 例えば凶器のレンガだけど、これが涼花を殺した凶器だったって事は科学的に証明されていて、しかもその凶器のレンガをそこの被告人が屋上から落とした事は本人が認めているはずだ。そんな状況で、俺がそのレンガで涼花を殺す事なんて絶対できないはず。それでも俺がやったっていうなら、まずはその方法を説明してほしいね」

 確かに、それは片寄の言う通りだった。凶器は斉川が落としたレンガ……この前提が動かせない限り、「犯人はどうやって問題のレンガで被害者を殺害したのか?」という大きな壁が立ちふさがってしまうのである。

 被害者の死因が落下してきたレンガに当たったのではなかった場合、考えられる死因は先程榊原自身も述べたように「犯人が凶器のレンガで被害者を直接殴り殺した」と考えるしかない。さらにもしこれが殺人なら、犯人が凶器となった問題のレンガを入手できるのは、当たり前ながら「斉川が屋上から誤ってレンガを落として以降」でしかありえないのも自明である。

 だが困った事に、斉川がレンガを落としてから彼が屋上から下を見て現場で血を流して倒れる被害者を発見するまでわずか数秒(下手をすれば二~三秒)程度しかかかっておらず、つまりこれが殺人だったとした場合、犯人はレンガが落下してから斉川が下を覗くまでのわずかな時間で超早業殺人を実行した上でその場から即座に逃亡しなければならなくなってしまうのである。はっきり言って、こんな事は人間業では絶対に不可能だと瑞穂は思った。

 だが、この程度の……瑞穂でさえ簡単に理解できる問題を榊原が放置しているとは思えなかった。案の定、榊原は落ち着いた表情で片寄の反論を聞いている。その態度が気に食わないのか、片寄は榊原の方をチラリと見ながら苛立ったような表情を浮かべた。

 そして、主尋問を行う諸橋も、榊原がこの程度で陥落するような人間ではない事を充分理解しているようだった。榊原の方を見やると、静かに問いかける。

「榊原さん、片寄さんはこのように言っていますが、何か言いたい事はありますか?」

 その質問に、榊原はしっかりとした口調で語り始めた。

「……確かに、屋上から偶然落ちてきたレンガで被害者を殴りつけたというのは時間的に無理がある話です。それについて否定するつもりは私にもありません」

 それを聞いて片寄は勝ち誇ったような顔をする。が、榊原は一切動じる事無くこう続けた。

「しかし、今までの主張を撤回するつもりもありません。一見するとこの二つの主張は矛盾していますが、これを両立させるには発想を逆転する必要がある。すなわち、『被告人が偶然落としたレンガで犯行を行う事が絶対に不可能である』ならば、『そもそも被告人が落としたレンガは凶器ではない』と考えるべきなのです。凶器が落ちたレンガではなかったとすれば、今までの疑問はすべて解決します。その場合、被告人がレンガを落とす前に被害者を殺害しさえすればよいのですからね」

 その言葉に、法廷内が一瞬静まり返った。誰もが、何を言われたのかさっぱりわからなかったのだ。

「……意味わかんねぇよ。涼花を殺したのはあいつが落としたレンガなんだろ!」

 片寄が呻くように叫ぶ。本来、証人が勝手に発言する事はルール違反であるが、裁判官が注意をする前に榊原がすかさず反撃した。

「確かに、法廷記録によれば現場で発見された血痕付きのレンガと被害者の頭部に残された致命傷の傷跡は一致しています。よってこのレンガが被害者の命を奪った直接的な凶器である事は疑いようのない事実といえるでしょう」

「だったら……」

「私が言いたいのは、現場から発見されたレンガは確かに被害者を殺害した凶器ですが、それがイコール被告人が屋上から落としたレンガであるとは限らないという事です。あの日、あの現場には『被告人が屋上から落としたレンガ』と『被害者の命を奪ったレンガ』……すなわち事件に関係する『二つのレンガ』が存在していたのです!」

 その言葉に、法廷はさっきの沈黙とは打って変わって激しいざわめきに包まれた。犯行時、レンガが実際には二つあった……この推理は、事件の構図そのものを大きく変えるものに他ならなかった。

「静粛に! 従わないなら退廷を命じます! 証人、詳しい説明を!」

 裁判官の言葉に、榊原は小さく頭を下げて、改めて自身の推理を語り始めた。

「そうですね、仮に現在法廷に提出されている被害者の命を奪ったレンガを『レンガA』、被告人が屋上から落としてしまったレンガを『レンガB』とする事にしましょう。このレンガはいずれもマンションの倉庫に保管されていた物で、それゆえに材質や成分、形状はほぼ同一であり、見ただけでは区別がつかない代物です。おそらく、犯人も問題のマンションの倉庫からレンガを一つ拝借したのでしょう。あの倉庫は誰でも自由に出入りできるようですし、倉庫内のレンガはそれなりの数がありましたから、さらに一つなくなっていたとしても気付く人間はいないでしょうからね」

 そう前提条件を確認した上で、榊原はいよいよ本格的に事件の推理を語り始める。

「さて、事件当日、真犯人は被害者を殺害するためにあのマンションの敷地内に侵入すると、倉庫からレンガAを一つ拝借し、被害者が帰宅してくるのを待ち伏せしました。そして現場となった通路で、帰宅した被害者を直接レンガAで殴り殺したのです。本来であるならばこの事件はこれだけの非常にシンプルなもので、さして複雑なものではなかった。それがここまで複雑化してしまった最大の要因は、犯人が被害者を殴り殺したまさにその直後に、あろう事か頭上から凶器と同じ形状のレンガBが偶然落下してきた事にあります」

 一度言葉を切って片寄の反応を確認すると、榊原は言葉を続ける。

「このレンガBは、今まで考えられていた事件の構図とは違い、すでに死亡して路上に倒れていた被害者の体には当たっていないと考えます。もし当たっていれば落下した高さから考えるに被害者にそれなりの痕跡がなければおかしいはずですが、解剖記録では被害者には『致命傷になった頭部の傷以外に不審な傷跡等はなかった』との事ですので、ここは素直に『当たらなかった』と解釈すべきでしょう。問題の路面にはレンガが落下した際についたへこみがあったので、おそらく直接路面に落ちてへこみを作ったというところでしょうね。また、この時犯人は被害者を殴り倒した血痕付きのレンガAをまだ手に持ったままだったはずです。その上で、目の前にレンガが落ちてきたのを確認した犯人は、おそらく最初は驚いたでしょうが、すぐに近くの自転車庫の影に身を隠した。当たり前ながらレンガが勝手に落ちるわけがなく、それが落ちてきたとなればマンションの上層階に確実に人がいる事になるからです。あの自転車庫は屋根がついているタイプですのでその中に隠れればマンション上層部から見ても気付かれる事はありませんし、隠れるだけなら数秒あれば可能でしょう。そして犯人が隠れた直後、事態に気付いた被告人が屋上から下を見下ろし、そこで『通路で血を流して倒れる被害者と近くに落ちているレンガ』を見てしまった。この光景を見れば、誰だって『自身が落としたレンガが下を歩いていた被害者に命中してしまった』と勘違いしてしまうはずです」

 今までとは全く違う事件の解釈に誰もが息を飲む。しかし当の片寄だけは、その顔色がみるみる蒼くなっていった。

「正確に言えば、この時転がっているのはレンガBなので血痕は付着していないのですが、あの通路は薄暗く、その状況で高さのある屋上から見てもレンガに血が付着しているかどうかまで把握する事はできないのでばれる事もなかった。そして、死体を確認した被告人は現場に駆け付けるために慌てて顔を引っ込めます。それを見て、自転車庫に隠れていた犯人はこう考えたのです。うまくすれば、全ての罪を今の男……つまり被告人に着せる事ができるかもしれない、と。そこで、犯人は自身が持っていた真の凶器である血痕付きのレンガAを被害者の近くに置き、代わりに今まさに屋上から落ちてきたレンガBを回収して被告人が駆け付ける前にその場を立ち去った。こうすれば、凶器のレンガAは屋上から落ちてきたレンガBと同一のものであると誤認させる事ができ、そのレンガを実際に落とした被告人に全ての罪を着せる事が可能となるのです。何より、当の被告人自身が『自分が落としたレンガで人を死なせてしまった』と勝手に信じ込んでしまっているので、この計略は高確率でうまくいくはずでした。『罪を着せるスケープゴートが、何もしていないのに自分の有罪を心の底から信じ込んでしまっている』……あまりにも異常なこの構図が、当初単純だったはずのこの事件を複雑にし、犯人を守る最大の砦になっていたのです」

 片寄は何も言わない。ただ何かに耐えるように拳を握りしめているだけである。一方、今まで自身の有罪を信じて疑っていなかった被告人・斉川敦夫は、突如浮上した「無罪」の可能性に思考が追い付いていないらしく、ただポカンと目の前で行われている論戦の行方を見つめているだけだった。

「なるほど、なかなか面白い考えです。片寄さんはどう思われますか?」

 諸橋にそう聞かれ、片寄はすっかり青ざめた表情ながらも拳を握りしめながら反論する。

「ふざけんな! そんなの、証拠も何もないただの推測じゃないか! そいつが落としたレンガが凶器のレンガとは違うなんて証拠……そんなものがあるわけがない!」

「……との事ですが、榊原さんの意見は?」

 諸橋の問いかけに、榊原は落ち着いた様子で切り返す。

「証拠ならあると思いますよ」

「どういう事ですか?」

「私の推理が正しければ、今現在この法廷に『凶器』として提出されているレンガは先程の説明でいうレンガAであり、すなわち今まで被告人が屋上から落としたと考えられていたレンガBとは全くの別物です。つまり、実の所この法廷に提出されたレンガを被告人が手にした事は一度もなかった事になります。さて、この法廷には問題のレンガの鑑定記録も提示されていますが、その鑑定記録によれば『被害者の血痕以外に特筆すべき指紋や付着物等は検出されなかった』となっています。事件当時、被告人は軍手をして作業をしていたので指紋が付着していない事に不審点はありません。しかし、それを差し引いたとしてもこの鑑定記録には不自然な点があるのです」

「その不自然な点というのは何でしょうか?」

「言うまでもなく、問題のレンガから『屋上菜園の土の痕跡』が検出されていないという点です」

 榊原は断言するように言ってさらにこう付け加えた。

「事件当日、被告人は屋上菜園での作業中に問題のレンガを持ったわけで、その軍手には作業中に付着した細かい土の粒子が付着しているはず。当然、そんなものでレンガを持てば指紋は付着しなくても土の粒子の付着を防ぐ事はできません。よってもし問題のレンガが本当に屋上から落ちてきたレンガだったとした場合、そこには『軍手に付着していた屋上菜園の土の痕跡』が付着していなければおかしいのです」

 その指摘に、瑞穂は思わずアッと声を上げそうになった。

「にもかかわらず、本法廷に提出されたレンガには土の痕跡が全く付着していない。何度も言うように、これは問題のレンガが屋上から落下したものだったと考えた場合、明らかに矛盾する話です。では、この矛盾を解消する可能性は存在するのか? 存在する可能性はただ一つ。すなわち、本法廷に提出されたレンガが、実は軍手をした被告人が持ったことのない未知のレンガだった場合だけです。少なくともこの土の矛盾で、このレンガを被告人が一度も持ったことがない事は充分に立証できると考えます」

 具体的な物的矛盾の指摘に、法廷のざわめきが大きくなる。

「なお、これでもなお証拠が不十分だとするなら、同じく本法廷に提出された証拠の中にある『被告人がマンション内へレンガを持ち込む映像』を詳細に分析してみる事をお勧めします。少なくともこの映像に映っているレンガは先程の例で言うところの『レンガB』であり、今までの推理が正しければ、この映像に映っているレンガと現在法廷に提出されている凶器のレンガは似ているようで実は全くの別物です。ならば、鑑識で画像を詳細に分析し、映像内で被告人が持つレンガとこの場にある凶器のレンガの実物を比べれば、パッと見ただけではわからない違いが浮き彫りになる可能性は充分にあり得ると考えます」

 と、ここで片寄が何か言う前に諸橋が声を張り上げた。

「裁判長! この証言の件についてですが、検察からこの場で追加の証拠申請を行いたいと考えます! すなわち、問題のビデオ映像に移されていたレンガと現在法廷に提出されている甲1号証とを比較した鑑識による鑑定結果の報告書であります!」

 どうやら、すでに榊原の推理を受けて検察は問題の映像の再鑑定を行っていたらしい。裁判官は弁護席の秋沼の方を見て尋ねる。

「弁護側、ただ今の検察側の申請について何か意見はありますか?」

「ございません」

 秋沼は一言そう言った。反対する気はないという事である。それを受けて、諸橋は一際大きく声を張り上げ、証拠の概要を説明する。

「甲27号証! 甲1号証の再鑑定報告書! すなわち、映像に移されているレンガの側面に甲1号証として提出済みのレンガには見られない筋状の傷跡が存在する事を立証する証拠であります!」

 その発言に傍聴席の誰もが驚きの表情を浮かべた。当たり前だが、事件後のレンガに新しい傷がつくならまだしも、事件前にはあった傷が事件後に消滅する事など絶対にあり得ない。この鑑定結果はすなわち、榊原の推理が正しい事……すなわち、事件前に斉川が持っていたレンガが現場で発見されたレンガとは別の物である事を示す決定的な証拠と言えるものだった。

「弁護側、この証拠に同意しますか?」

 裁判官の問いかけに対する秋沼の答えは聞かなくともわかるものだった。この期に及んで、明らかに被告人の無罪を立証する可能性がある証拠を弁護側が不同意するはずがない。

「弁護側は本証拠について同意いたします。本証拠に対する鑑定員への証人尋問も必要ありません」

「よろしい。それでは、ただ今検察側から提出された証拠を正式に受理します」

 片寄が何もできないでいる中、あれよあれよという間に片寄に不利な鑑定記録が目の前で正式な証拠として認められてしまった。目の前で行われている事象に当の片寄は全く対応できていないようで、愕然とした表情を浮かべるばかりである。それは、明らかに通常の推理勝負とは違う流れだった。

「何だよ……何なんだよ、これは!」

 片寄は悲鳴のような絶叫を上げた。が、片寄にとって悪夢としか思えないこの裁判はまだ終わらない。

「さて……検察側としては、これで事件当時、現場に二つのレンガがあった事は証明されたと考えます。また、その場合検察側としては遺憾な事ながら、被害者の死は被告人の過失によるものではなく、事件当時現場にいた第三者による『殺人』であると判断する他ありません。誠に残念ですが、ね」

 『遺憾ながら』『残念』などと言いながら、諸橋の表情に悔しそうなものは見えない。すでにその視線は、目の前で怯える新たな標的の方へと向いていた。その顔には『よくも騙してくれたな』と言わんばかりに静かな怒りさえ浮かんでいる。

「その上で、榊原さんはその『第三者』が片寄さんであると先程から指摘しています。これまでの審理の中で、その可能性を示す状況証拠もいくつか提出されました。しかし、まだ彼が犯人である事を示す決定的な証拠は示されていません。彼の犯行を立証する証拠……それは存在すると思いますか?」

 その言葉に、片寄はすがるような視線を榊原に向ける。そんなものは存在しない。必死にそう思いながら最後の望みを託す片寄に対し、しかし榊原は無情だった。

「決定的な証拠として真っ先に考えられるのは、犯人が現場から持ち去った『レンガB』の存在です。しかし、おそらくこれはすでに処分されてしまっているでしょう。とっておく理由もありませんし、捨てたところで怪しまれませんから」

 ですが、と榊原は続ける。

「先述した通り、犯人は罪を被告人に着せるために数々の偽造工作を行っています。この偽造工作は犯人以外にやる意味がなく、また犯人でない限りどのような証拠を偽造すればよいのかわからないはずなので、偽装工作を行った人物イコール犯人と考えて問題ないでしょう。つまり、偽造工作を行った人間が誰なのかを特定できれば、必然的にその人物が犯人だと立証できる事になる」

 そこで一度言葉を切って榊原はさらに言葉を続けた。

「その上で、問題の偽造証拠は、私が依頼を受けて神里探偵に現地調査を依頼した六月十一日にはまだ存在せず、私が実地調査を行った六月十八日には存在した。となれば、偽装工作はその間に行われたと考えるのが妥当です。ならば、その期間のマンション入口の防犯カメラに、偽造工作のためにマンションに出入りする犯人の姿が必ず映っているはずです!」

 その瞬間、片寄の顔色がこれまでで一番蒼くなった。

「事件当日の防犯カメラの映像はチェックされているでしょうが、それ以降の防犯カメラのチェックなど誰もするはずがない。また犯人からしても偽造工作がばれる事は想定していないでしょうし、そもそも公共物である防犯カメラに一学生が何か細工すること自体不可能です。そして、今まで何度も議論されているように、あのマンションに出入りするには嫌でもあの出入口を使うしかない。ほぼ確実にその姿が映っているはずです」

「ま、待ってくれ!」

 と、そこで片寄が叫び声を上げた。

「仮に……仮にカメラに俺が映っていたとしても、それが即俺が犯人だという事にはならないはずだ!」

 その言葉は、カメラを確認するまでもなく、事件後に片寄があのマンションに出入りしたと認めるものに他ならなかった。そして、その言葉を検察官の諸橋が見逃すはずがない。

「榊原さんの言うように、問題の期間にマンションに行った事は認めるのですか?」

「そ、それは……認める、けどよ……」

「一体いつ!?」

「……」

「答えなくても防犯カメラを確認すれば簡単にわかる話です。答えてください!」

「……六月十七日の夜に……」

 ついに、片寄は事件後にマンションを訪れた事をちゃんとした証言として認めざるを得なくなった。

「で、でも、それは別に偽造工作をするためじゃない!」

「では、何のためにあのマンションを訪れたのですか! あのマンションには被害者以外にあなたの知り合いはいないはずです!」

 諸橋の激しい追及に、片寄は悲鳴のような声を上げながらも答えた。

「りょ、涼花の部屋にだよ!」

「被害者の部屋?」

「あいつの部屋の前に慰霊のための花を供えに行ったんだ! 別に何もやましい事はしていない!」

 そう言われれば確かに、被害者の部屋の前にはいくつか花束が置かれていた。だが、それに対して今度は榊原が静かに反論した。

「おかしな話ですね。そもそもあなたたちがした私への依頼は、東京で行われた被害者の葬儀のついでだったはず。すでに東京にまで行って本人の葬儀に出席しているのに、さらに被害者の部屋の前に花束を置きに行ったと言うつもりなのですか?」

「わ、悪いかよ! 別にそういう事があったっていいじゃねぇか!」

「では、なぜ夜に行ったんですか? 行くのなら昼間でもよかったはず」

「は、恥ずかしかったからだよ!」

 もはや受け答え自体かなり苦しくなっているのは自明である。しかし、筋は通っているので証言自体を崩すまでには至らない。だが、榊原は動じなかった。

「裁判長、この件についての証言、及び私から片寄さんへの直接的な質問をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「……わかりました。異例ですが許可します」

 裁判官の許可を得て一礼すると、榊原は改めて直接片寄を追い詰めにかかった。

「君は被害者の部屋の前に花束を供えるためにあのマンションに行った。間違いありませんね?」

「あ、あぁ、そうだよ」

 さっきから散々上げ足を取られ続けているだけに片寄も慎重だ。

「結構。では、その花束を調べてみるというのはどうでしょうか」

「……は?」

「私の推理が正しければ、君があのマンションに行ったのは私に発見させるための偽造証拠を仕掛けるためです。当然、この作業においてはマンション内に自分の指紋を残すわけにはいかない。というよりも、できるなら自分がマンションに行った事自体を隠し通したかったというのが本音でしょう」

 だとすれば、と榊原は続けた。

「君はその作業に手袋なりの指紋対策をしていたはず。となれば、君が供えたと言っている問題の花束には、君の指紋は付着していないはずです!」

「あ……」

 片寄は絶句した。

「今は六月。本来なら手袋をするような季節ではありません。にもかかわらず、君が供えたと言っている花束から指紋が検出されなかったとすれば……一体どういう理由があるのでしょうかね?」

「それは……」

 何かを言おうとして片寄は口ごもる。どうやらこの様子では、「花束を供える時だけ手袋を脱ぐ」などという小細工はしていなかったようだ。というより、本来なら密かにマンションを訪れていた事さえ隠さなければならなかったはずなので、わかっていても残せなかったというのが正解だろう。しかし、マンションに行った事がばれた今となっては、逆に指紋がないという事実が彼にとって不利に働いていた。

「まぁ、それこそ問題の防犯カメラの映像をちゃんと調べれば一発ですがね。おそらく、その映像に映っている君は手袋なりをしているはずですから。さて……六月の熱帯夜にもかかわらず、君が手袋をして夜のマンションに侵入した理由を説明してもらいましょうか。もし、それに対する納得できる答えが出せなかったとすれば……その時点で、君が偽造工作のためにマンションを訪れた事が立証できると考えます。それ以外に、手袋という自分の痕跡が残らないような細工をして深夜のマンションに密かに侵入する理由が存在しないからです!」

「……」

「そして、先程も言ったように、君が証拠偽造をした事が立証できれば、レンガの入れ替わりが先程提出された甲27号証によって立証されている現状、君が被害者を殺害した決定的な証拠になると考えます。何度も言うように、それ以外に君が証拠偽造をする動機が存在しないからです。さて……まだ反論しますか!」

 だが、ここまで追い詰められても片寄はしぶとかった。もはや恥も外聞もなく、必死な形相でわめきたてるように絶叫する。

「だったら……だったら聞かせてくれよ! 俺が何で涼花を殺さなきゃならないんだ! 俺が涼花を殺す……その動機は何なんだよ!」

 法廷という特殊な状況下において、片寄も文字通り命懸けだった。だが、そんな片寄の反論を榊原は容赦なくねじ伏せにかかる。

「動機は半年ほど前、被害者の家田涼花さんのバイト先近くで発生した事件だと考えます」

 榊原のその言葉に、片寄は目に見えて顔を引きつらせる。

「な、何を言って……」

「依頼の時に君たち自身が言った事です。半年前の昨年十二月、家田さんはアルバイト先からの帰宅中に人通りのない道でひったくりの被害に遭っている女性を発見しこれを救助しています。君たちはこのひったくり犯の正体こそが被告人の斉川敦夫で、同じマンションに住んでいて面が割れていると考えた斉川氏が口封じのために家田さんを事故に見せかけて殺害したと推測していましたが、調査の結果、事件当時斉川氏にはアリバイがあり、この推理自体は的外れであると考えます」

 被告人席では思わぬ言い掛かりに斉川が一瞬血相を変えていたが、すぐに榊原に犯行の可能性を否定され、ホッとしたように椅子に座り直していた。

「では、このひったくりの一件は今回の事件と何の関係もないのか? 私はそうは思いません。私と神里探偵の二人がかりで彼女の事を徹底的に調べましたが、このひったくりの一件以外で被害者が殺害されるような動機は一切確認できませんでした。犯行形態はかなり計画的で、突発的な犯行の可能性はまずありえません。しかし、アリバイの一件から斉川敦夫が犯人であるとも思えない。ならば、こう考えるしかありません。被害者が殺害された動機は君たちが依頼の際に主張したようにひったくりを目撃した事だったが、その時に彼女が見たひったくり犯の正体は斉川敦夫ではなく、今回の事件の真犯人もしくはその関係者だった。そして、その事実こそが片寄耕太が今回の事件を引き起こした直接的な動機になったと考えるのですが、違いますか?」

「ふ、ふざけるなっ!」

 直後、片寄は絶叫した。が、即座に裁判官の鋭い声が飛ぶ。

「静粛に! 証人は勝手な発言をしないように!」

 一喝されてひるむ片寄を尻目に、今度は諸橋が榊原に問いかける。

「確認のためにお聞きしますが、榊原さん、あなたは片寄氏こそが問題のひったくり犯だと主張するつもりなのですか?」

 だが、意外にもその問いに対して榊原は首を振った。

「いえ、こう言っておいてなんですが、片寄本人がひったくり犯だとは考えにくいと思います。少なくとも被害者がひったくりに遭遇した半年前の事件においては、彼本人にはアリバイがあるようですからね」

 確かにそれはそうだった。岡部から聞いた話では、半年前の事件の際、片寄はアパートの自室で岡部と一緒にゲームをしていたはずだ。本当かどうかはこの後ちゃんと調べる必要はあるだろうが、岡部が嘘をつく理由もないため、この証言は事実と考えてもよさそうであった。しかし、榊原はそれでもなおこの推理を突き詰めるつもりのようである。

「ポイントは、このひったくり犯が半年前に犯行を集中させ、問題の十二月の事件を最後に、突然犯行をやめている点です。つまりその期間、ひったくり犯には犯行ができない何らかの事情が存在した事になります。さて、そこであなたにお聞きしたいのですがね」

 そして、榊原は衝撃的な言葉を口にする。

「先程検察官からも少し言及がありましたが、あなたには今年の春に京都市内の大学に入学した妹がいますね? 名前は確か、片寄美樹かたよせみきさんでしたか」

「なっ!」

 その瞬間、片寄の顔色が明らかに変わり、反射的に榊原に食って掛かった。

「そ、それが何なんだよ!」

「いえ、今年の春に入学した、という事は年末から年度末にかけては受験シーズン真っ只中だったわけです。センター試験が一月で、二月からは二次試験も始まる。最後まで長引けば三月上旬まで伸びるでしょう。当然……その間は、受験以外の事に手がつかなくなるでしょうね」

 片寄の表情がみるみる絶望に染まっていく。それがある意味、この質問に対する答えそのものだった。

「今の確認はどのような意味でしょうか?」

 おそらくすでにわかっているのだろうが、あえて諸橋が榊原に問いかける。それに対して榊原は片寄を見据えながら答えた。

「確かにアリバイの観点から片寄耕太がひったくり犯である可能性は限りなく低い。しかし、彼自身はひったくり犯でなくとも、彼の妹がひったくり犯である可能性は捨てきれないと考えます!」

 それは、あまりにも予想外過ぎる発言だった。榊原は、当時高校三年生だった少女が、バイクを使った連続ひったくり事件の犯人だと主張しているのである。

「確認します。あなたは、片寄氏の妹の美樹さんが半年前の連続ひったくり事件の犯人だと主張するつもりなのですか?」

「その通りです」

「しかし、それはあくまであなたの推測に過ぎません。その可能性が正しい事を証明する証拠はありますか?」

「あるわけが……あるわけがない……そんなもの……あるわけが……」

 隣で片寄がブツブツ呟くが、榊原はそんな片寄を無視するように答えた。

「確かに現段階では私の推測です。しかし、この可能性はすでにこの裁判の前の時点で警察にも伝えてあり、警察もすでに本格的な捜査を始めています。もしこの推理が正しいなら、そもそも当時高校生だった彼女にそこまでしっかりした証拠隠滅ができるとは思えず、おそらく片寄耕太が妹の犯行に気付いている事からも、実際に何らかの証拠が存在する事は明白でした。例えばひったくりで盗まれたバッグ類や、犯行に使用されたバイクなどですね。そして、すでに警察はいくつかの証拠の回収に成功しているようです」

 ここで榊原の言葉に続けて、諸橋がこう告げた。

「起訴前の事件の証拠であるため本法廷に直接提出するつもりはありませんが、捜査協力を要請した大阪府警からの情報によると、大阪市内にある片寄美樹の実家近くの雑木林から、草木で隠された赤いバイクが発見されたそうです。バイクの所々から指紋が検出されており、関係各所で押収した片寄美樹の指紋と一致したという結果も出ています。それを受けて、近日中に片寄家への家宅捜索が行われるはずです」

 どうやらすでにある程度の捜査が行われ、この件については具体的な証拠も出始めているらしい。榊原はさらにこう続ける。

「私の調べによれば、片寄美樹が片寄耕太と今のアパートで同居するようになってから、本件被害者の家田涼花さんと直接会う機会が何度かあったそうです。となれば、その中でひったくりの目撃者である家田さんが片寄美樹の正体に気付いた可能性がある。直接関係ないとはいえ、身内が連続ひったくり事件の犯人だとわかれば、その家族の受けるダメージもかなりのものになるはずです。おそらく片寄耕太は何らかの事情で妹がひったくり犯だと気付き、そして家田涼花さんが気付く前にその事実を隠す必要性に迫られた。例え、その命を奪う事になったとしても、です。こう考えれば、片寄耕太にも立派な動機が存在する事になるはずです」

「ま、待て! 待ってくれ!」

 ここまで暴かれながらも、片寄は唾をまき散らかしながらなおも必死の反論を試みる。

「あんたの推理が正しかったとしてもだ! 何で、俺なんだよ! あんたに事件の調査を依頼したのは俺だけじゃねぇ! 一緒に依頼した岡部の奴が犯人の可能性だってあるじゃないか! 涼花の恋人だった岡部にも動機があるかもしれないし、俺一人が疑われるのは割に合わないぜ! その辺り、どうなってるんだよ!」

「なっ……」

 後ろの傍聴席で当の岡部本人が絶句する声が聞こえた。が、誰かが反応する前に榊原が鋭く反論した。

「その可能性はあり得ません」

「どうして!」

「なぜなら、犯人は問題の証拠の捏造を、私に依頼した後で行っているからです。確かに依頼人は君たち二人でしたが、依頼時に聞いた話では元々私に依頼する予定はなく、被害者の葬儀でたまたま私の事を聞いた岡部君が依頼する事を決め、君はそれに従ったという流れだったはずです。つまり、依頼をするかどうかの主導権を握っていたのは岡部君の方だった。となれば、もし岡部君が犯人だったとすれば、リスクを避けるためにも私に依頼をする前に問題の捏造工作をしたはずです!」

 その言葉に片寄はハッとする。

「君にとって、岡部君が私への依頼を主張したのは想定外の出来事だったはずです。だからこそ、問題の捏造工作は私に依頼がなされた後に行わざるを得なかった。しかし、もし捏造を行ったのが岡部君だった場合、依頼を主導している立場である以上、依頼前に捏造をする事は可能だったはずです。というより、何か仕込みをしようとしているならば普通は絶対にそうするはず。依頼後に探偵がどう動くかなどあの時点では全く予想ができないので、当日のうちに調べると言われてしまったら捏造も何もできなくなってしまうわけで、単なる過失で処理されようとしている事件に余計な探偵を引き込んで殺人だとばれるリスクを増やしただけで終わってしまうわけですからね」

「……」

「つまり、証拠の捏造が依頼後に行われている時点で、岡部君が犯人である可能性は限りなく低い。よって、もう一人の依頼人であり、なおかつ岡部君の主導する依頼に付き従っているに過ぎなかった君が犯人だとする他ないという事です!」

「ぐ……あ……」

 片寄は呻き声を上げた。後ろの方で岡部がホッとした様子で息を吐いているのが見える。だが、片寄はここまで追い詰められながらなおも反論を続ける。

「だったら……だったらそう、その張り紙だの盗聴器だのは、あんたが捏造したんだ!」

 それはまさに、己の人生を賭けた命懸けの反論だった。しかし、彼の命懸けの反論を受けても、榊原という男はひるまない。

「私が証拠を捏造、ですか」

「そ、そうだよ! 実際に証拠を見つけたあんたならできたはずだ! それで俺をはめようと……」

「なぜ私がそんな事をしなければならないのですか? 自分とは一切関係ない事件のためわざわざ捏造証拠を作り、それでいながらその証拠が捏造されたものである事を自分からこの法廷で暴露し、その上で『犯人』の斉川さんを無罪にして、何の関係もないはずの君に罪を着せる行為に何のメリットがあると?」

「そ、それは……」

「この証拠捏造を行うメリットがあるのは事件の犯人だけです。君の理論に従うなら、今回の事件の真犯人は私という事になってしまいますが、それが無茶苦茶な理論だという事はさすがに理解できるはずです。一応言っておきますが、私には事件があった六月四日午後三時頃に東京にいたという完璧なアリバイがあります。それは調べてもらえればわかりますし、そもそも君たちに依頼されるまで何の関係もなかったはずの被害者を殺害する動機がどこにもありません。さすがの君も、この状況で私が殺人犯だなどという馬鹿げた主張する事はできないはずです!」

 片寄は黙って唇を噛み締める。榊原の言うように、片寄も『榊原が殺人犯だ』などという無茶苦茶な主張をする事は不可能であると悟っているようだった。だが、ここで諦めるわけにはいかないのだろう。口を震わせながらなおも反論を試みる。

「た、例えば、どう見ても有罪な人間を無罪にして名声を得たかった……」

「割に合いませんし、ばれたら身の破滅につながるリスクを負うなんて馬鹿げています。そもそも私は別に名声がほしいとは思いません。単に面倒臭いだけですからね」

「なっ……」

「大体、私が証拠を捏造したと簡単に言いますが、一体どうやって捏造するというのですか? 盗聴器と受信機はともかく、張り紙については被告人の部屋のインクが使われている。私に被告人の部屋に入る術など存在しません」

「そ、それを言うなら俺も同じだ! それにそんなの、ポストの合鍵を使って入りゃいいだけの話じゃねぇか!」

 その瞬間、榊原は不敵に笑って不意に黙り込む。法廷にも唐突な沈黙が支配し、片寄もその異常な空気に、自分が何かまずい発言をしてしまった事を悟ったようだった。そして案の定、榊原はそのミスを逃さなかった。

「……なぜ知っているんですか?」

「は?」

「なぜ知っているかと聞いているんです。なぜ君は、被告人の部屋の合い鍵がポストに入っている事を知っているんですか!」

「え……あ……アァァァァッ!」

 片寄が絶叫した。どうやら、自分が法廷の真ん中でとんでもない事を叫んでしまったことをようやく自覚したようだった。

「確かに、君たちの依頼を受けて私が調べた限り、被告人の部屋の合い鍵はドア横のポストの中に入っていました。問題は、仕事上の理由でその場所を知る事になった私と違い、どうして君がそれを知っていたのかです」

「そ、それは……」

「元の起訴状の内容が正しいにせよ私の推理が正しいにせよ、事件発生まで君と被告人の斉川敦夫氏の間に何の関係もなかった事はすでに証明済みです。つまり、君が事件発生前の段階で被告人の鍵の場所を知っていたという可能性はゼロに近い。そもそも全く繋がりのない人間だったわけですからこれは当然です。となると……君は事件発生後、被告人のポストに合い鍵がある事をどういう理由なのか実際に確認した事になる」

「……」

 片寄はもはや顔面蒼白になっている。が、榊原は追及の手を緩めない。

「被告人のポストの合い鍵の存在を知るには、当然ながら実際にポストを覗いてみるしか方法はありません。つまり、君は実際に事件後に被告人の部屋の前に行った事になります。そして、それがいつなのかは簡単に証明できる。何度も言うように、あのマンションに入るには防犯カメラが設置された入口を通るしかないからです!」

「……」

「君は先程、六月十七日の夜にあのマンションを訪れたと証言している。そして防犯カメラの映像を調べれば、君が事件発生から今日までの間にあのマンションに入ったのが『六月十七日の一回』だけだという事はすぐにわかります。となれば、君が言う所の『被害者の部屋の前に花を供えに行った』時に、どういうわけか君は被告人の部屋の前に行き、ポストの中を覗き込んで合い鍵の存在を把握した事になるのです! では、改めて聞きましょう。君の言うように被害者の部屋に花を供えに行ったとして、なぜそんな事をする必要があったのですか!」

「そ、それは……」

 片寄は答えられない。拳を握りしめて体を震えさせているだけである。そんな片寄を、榊原は容赦なく糾弾する。

「その答えは一つ。被告人の部屋に侵入し、被告人の部屋にあるプリンターで例の張り紙を印刷するためだったとしか考えられません! 恐らく、あらかじめ印刷しておいた紙をあの部屋のプリンターでコピーし、コピーした方を例の張り紙として利用したといったところでしょうか。そうすればパソコンに記録を残す事なく、あの部屋のプリンターのインクを使用した張り紙を作る事ができます。今の今まで保留にしていましたが、あの張り紙に使用されたインクが被告人の部屋のプリンターのインクの成分と一致したのはそれが原因です」

「……」

「そして、この推理が正しいとするなら、どれだけ注意しても被告人の部屋に君の痕跡が残っているはずです。指紋はさすがに注意していたとしても、毛髪や靴下の繊維などが残されている可能性は非常に高い。そもそも君からすれば、すべてが暴かれて被告人の部屋を裁判開始後に調べられるとは想定していないはずですから、その辺の痕跡の後始末が杜撰になっている可能性もあります。また、逆に私はあの部屋に入った事は一度もありませんので、私の痕跡は一切発見されないはずです。それが立証されさえすれば、少なくともあの部屋に侵入して証拠偽造を行ったのが私ではなく君だという事は確実となり、すなわち証拠捏造を行った君が犯人である事が証明される事になります!」

「まぁ……それ以前の話として勝手に人の家に入っているわけですから、住居不法侵入罪になると思われますがね。被告人、申し訳ありませんが証拠が出そろい次第、この件について被害届の提出をお願いします。住居不法侵入罪は親告罪ですので、被害者本人の告発が必要になりますから」

 諸橋がそんな事を言う。よりによって検察官からそんな事を言われた斉川は目を丸くしつつ、素直に頷きを返す。いずれにせよ、これでほとんど勝負が決まったも同然だった。

 だが……それでも片寄は、必死に頭を回転させながら罪を逃れようとする。

「……わ、わかったよ……認める……俺がやったって認める……」

 その言葉に傍聴席のざわめきが大きくなるが、諸橋は厳しい表情のまま追究した。

「何を認めるというのですか?」

「そこの探偵に見つけさせるために捏造した証拠をマンションに設置した事をだよ! だけど、俺がやったのはそれだけだ! 証拠の偽造はやったが、殺人は断じてやっていない!」

 思わぬ反論に、ざわめきがどよめきに代わる。

「では、なぜそんな事をしたのですか? 先程から榊原さんが言っているように、自身の殺人の罪を被告人に着せる事以外で、そんな事をする理由など思いつかないのですが?」

「さ、斉川の奴が過失致死なんかで微罪になるのが我慢できなかったんだ! 涼花の命を奪った奴だからもっと重い罪で裁かれるべきだと思って、だから罪を重くするためにそいつが殺人をしたような証拠を設置したんだ!」

「他人を死なせた被告人を殺人犯に陥れるためだけに、自らの身を犠牲にしてまで証拠偽造という犯罪に手を染めたと本気で主張するつもりですか?」

「そ、そうだよ! そんな事をしたって、おかしくはねぇよな!」

「しかし、レンガの入れ替えがすでに証明されている以上、実際に被害者を殴り殺した人間がいるのも事実ですが?」

「それこそ俺じゃねぇ! 斉川が犯人じゃねぇっていうのはそうなのかもしれないが、だったら俺の知らない第三者が犯人だ!」

 片寄は綱渡りとも言える反論を展開する。ここまで追い詰められて証拠偽造は認めざるを得なくなったものの、殺人の罪だけは逃れようというつもりらしい。しかし、榊原の追及は片寄を逃がす事はない。

「犯人はどうやって現場を立ち去ったんでしょうかね?」

「は……はぁ?」

「最初から被害者を殺害する事が目的だったとすれば、犯人はすぐに現場を立ち去るために何らかの乗り物を使ったはずです。となると、おそらく使用したのは自転車。バイクの線もないとは言いませんが、事件直後、被告人はそんな音を聞いていないのでその線はないでしょう。そして、犯人が被害者を直接殴りつけていたとすれば、今までは問題にならなかったある証拠が急浮上してくる事になります」

「ある証拠とは何でしょうか?」

 諸橋の合いの手に、榊原はあっさり答える。

「言うまでもなく返り血です。そして、犯人は犯行後に返り血が付いた衣服や靴を身に着けたまま自転車に乗って現場を立ち去った事になる。となれば……犯人の自転車……特にハンドルやペダル、サドルなどの部分に、被害者の血痕が付着している可能性がある!」

「あ……」

 片寄が呻き声を上げた。

「持ち去ったレンガや血の付いた服などは処分できたとしても、自転車を処分する事は簡単にはできません。そして、君は自転車を持っていたはずです。先週、実際に乗っているところを見ましたから」

「そ、それは……」

「今すぐ、彼の自転車を調べる事を提案します。そこから被害者の血痕が出れば、その時点で事件当時彼が現場にいた事が証明されます。それはすなわち、彼が今回の事件の犯人であるという決定的な証拠になるはずです」

「……」

「それともう一つ。さすがに現場近くの防犯カメラの位置などは把握していたとは思いますが、現場から君の自宅までの全ての防犯カメラに映らずに移動できたとは到底思えません。つまり、事件当日の東山区の現場と右京区の自宅の間にある防犯カメラのいずれかに、自転車に乗っている君の姿が映っていると考えられます。そして恐らく、その自転車のかごの部分には、現場から持ち去ったレンガが映っているはずです!」

「っ!」

「レンガを持ち去る事は想定外だったはずですから、袋などをあらかじめ用意していたとは思えません。となれば、かごの中にむき出しで入れるしかない。そしてその映像が見つかれば、君が現場からレンガを持ち去ったという決定的な証拠になるはずです」

 と、ここで諸橋が発言する。

「裁判長。報告が遅れましたが、証人の推理を受け、すでに警察は問題の区間の防犯カメラ映像の確認を行っています。その結果、事件当日、現場から数キロの場所にあるコンビニの防犯カメラが、片寄氏と思しき人物が自転車に乗っている姿を映し出していました。その自転車のかごに確かにレンガらしきものが映っていた事と、画像解析の結果、そのレンガに甲1号証の映像に映っていたレンガ……つまりレンガBに存在したものと同一の筋状の傷が確認できた事はご報告いたします」

 どうやら、防犯カメラの件については、すでに証拠は挙がっているようである。事がここに至れば、裁判所も片寄の自転車の押収を拒否する事はないだろう。もはや詰みに近い状況なのは明白であった。

「これ以外にも、君に絞って調べればまだまだ証拠は出てくるはずです。さぁ、どうですか! これでもまだ、君は反論するつもりですか!」

 榊原の鋭い一声が法廷に響き渡る。その瞬間だった。

「ち、違う! 俺じゃ……俺じゃねぇ! こんなの間違ってる! こんな……こんな負け方なんて認められない! 俺の計画は……こんな事で……ふざけんな!」

 片寄のもはや悲痛ともいうべき叫びが響く。が、榊原と諸橋はあくまでも冷静だった。

「計画? 計画とは何の事ですか?」

 諸橋の指摘に、片寄はハッとして口をふさぐ。

「い、いや、それは……ちょっとした言い間違いで……こんな発言、何の証拠にも……」

 だが、諸橋は首を振った。

「残念ですが、普通の取り調べならともかく、法廷内でなされた証言は有利不利問わず全て正式な証拠……つまり物的証拠と同等の証拠として採用されます。そこが取り調べなどにおける自白などとは大きく違う点でしてね。この場においては、通常の取り調べなどでは決定的な証拠となりえない『失言』も、立派な決定的証拠になってしまうという事なんですよ」

「なっ……」

「例えば推理小説などでよくある『犯人でしか知りえない事を失言させる』という追い詰め方は、実際にはその発言を補強する物的証拠を補充捜査で発見しなければ正式な証拠にならず、その発言だけを証拠に犯人を有罪にする事はできません。しかし、その発言をしたのが法廷なら話は別です。なぜなら、法廷内でなされた発言は全てが正式な証拠として採用されるため、さっき言った物的証拠による補強なしでも単独で証拠採用ができるからです」

 片寄の顔が大きく引きつる。法廷という場において証言される言葉の『重さ』を改めて実感したという風であり、そこには最初から最後までこの法廷という舞台に振り回され続けた哀れな「犯罪者」の姿があった。

「だから改めて聞いています。先程口走った『計画』とは何なのか? こうして裁判所書記官が議事録を残している以上、もはや単なる言い間違いでは済まないんですよ!」

 それが事実上のとどめだった。

「何だよ……何だよ、それ!」

 わめく片寄の隣で、榊原は涼しい表情のまま片寄を見つめている。こうなってしまえば、榊原が片寄をこのような特殊な場で追い詰めにかかった理由など自明である。ものの見事に榊原の挑発に乗り、そしてまんまと『法廷での対決』という罠にかかった片寄には、最初から勝ち目などなかったのだ。

「ふざけんな……ふざけんなぁっ! 畜生! 畜生がぁぁぁぁぁぁっ!」

 ついに、片寄は頭を抱えてその場に崩れ落ちながら絶叫した。諸橋、榊原、秋沼、そして斉川が冷たい目でそんな片寄を見下ろす。そしてそれが、この異常すぎる『決闘』がついに終わりを告げた事を示す、まぎれもない合図となったのだった……。


 ……十分後、片寄は再び証人席に座らされ、すっかりうなだれた様子で時折涙ぐみながらボソボソと証言をしていた。

「何で……何でこんな事に……こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかったのに……」

 そんな片寄に対し、榊原は冷静な表情のまま無言で前を見据えていた。事ここに至れば、榊原は全てを諸橋に任せるつもりのようである。諸橋も心得ているのか、厳しい表情で片寄に質問をしていた。

「証人は本件被害者・家田涼花さんを殺害し、被告人・斉川敦夫に全ての罪を着せようとした。間違いありませんか?」

 主尋問では基本的に誘導尋問が許されないゆえにあくまで確認の意味を込めた質問だったが、こうなってしまってはもはや否定する事などできない。片寄は力なくその質問に頷いていた。

「あぁ……そうだよ……」

「先程、榊原さんが犯行の推理をしましたが、実際にあなたの口から説明してもらえますか? 今この場で、詳細に!」

 証言が即証拠になる法廷内で自白する……それがどれだけ致命的な事になるのかを片寄もいい加減に理解していたが、敗者である片寄に、もはや抵抗する余地など存在していなかった。

「……全部、そいつの言った通りだよ。あの日、マンションに帰ってきた涼花を待ち伏せしてレンガで殴りつけて……そしたら上から別のレンガが降ってきて……咄嗟に自転車庫の影に隠れたら屋上から男が顔を出していて……反射的に、上手くやればその男に罪をかぶせられると思ったんだ……」

「その男というのは誰ですか?」

「……そこの被告人席に座っている男だよ」

「その時、落下してきたレンガは被害者に命中しなかったのですね?」

 もし片寄がこの点を否定しても「被害者に残された外傷は一ヶ所だけ」という記録から否定できるのだが、幸いそれを主張するまでもなく、片寄は諸橋の質問に頷きを返した。

「あぁ、間違いないよ……」

「それでその後は?」

「男が顔を引っ込めたのを確認して、俺が持っていた凶器のレンガと落ちてきたレンガを入れ替えた。そうすれば本人も自分が落としたレンガで涼花を殺したと思うはずだから、これで俺は罪を逃れられると思った」

「確認ですが、そのレンガ落下の一件がなかった場合、本来あなたは被害者を殺害後にどのような行動をするつもりだったのですか? そのまま逃げればさすがに自分が疑われるかもしれないという事くらいわかっていたはずですが」

 確かにそれは気になる話だった。この問いに対し、片寄は思わぬ事を言い始める。

「……涼花の隣の部屋に住んでいる赤野とかいう奴に罪を着せるつもりだった。そう思って、大学で事前に指紋が付いたあいつの腕時計を盗んだりしておいたのに、全部無駄になった」

 その言葉に瑞穂はハッとする。確かに、一週間前に話を聞いた時に、赤野も「腕時計をなくした」というような事を言っていたはずだ。どうやらその腕時計は片寄が事前に盗んでいたらしい。事がこうなった以上、知らぬは本人ばかりである。何にせよ、聞いている限りどうやら本来の計画はかなりお粗末なものだったようだ。そこにレンガの落下という偶然が重なった結果ここまで難解な事件になってしまっただけで、その本質は、こう言っては何だが「普通の犯罪」に他ならないものだった。

「その盗んだ赤野氏の腕時計は今どこに?」

「……入れ替えたレンガと一緒に、夜中に鴨川に捨てた」

「鴨川のどの辺りですか?」

 片寄はその場所を口にする。雨による増水ですでに流されている可能性はあるが、後で警察による川ざらいが行われるのは明らかだった。

「動機は例のひったくりにあなたの妹が関与している事がばれたと思ったからですか?」

「……あぁ、そうだよ」

「つまり、あなたは自身が半年前に多発したひったくり犯が自身の妹だと認めるわけですね?」

 今度は一種の誘導尋問に近い形の質問だが、弁護側は異議を唱えない。本法廷において、秋沼は斉川の弁護人ではあるが片寄の弁護人ではないので当然である。斉川に有利なこの発言に、異議を唱えようはずがないのだ。果たして、もう反論しようがないと判断したのか片寄はコクリと頷いた。

「なぜ妹さんはひったくりをしたんですか?」

「……はっきりした事は俺にもわからない。受験直前でストレスがたまっていたからだとは思うけど、本当の所は本人に聞いてみないと何とも言えない。ただ、動機は何であれ、事実として美樹の奴がひったくりをしていたという事だけは確かだった」

「あなたはそれにいつ気付いたんですか?」

 当然とも言える疑問に、片寄は疲れたように答える。

「……三ヶ月前、春休みで実家に帰った時、用事で偶然妹の部屋に入った事があった。たまたまあいつはいなかったけど……その時に、部屋の中からひったくられた鞄とかを見つけちまった。正直、どうしたらいいのかわからなくなって絶望したよ」

「彼女はあなたが気付いた事を知っていましたか?」

 片寄は力なく首を振る。

「知らないと思う。知ったらあいつがどんな行動に出るかわからなかったから俺も何も言わなかった。幸い、美樹の奴もさすがに受験本番中は犯行を自重していたし、四月に大学に入学した後は同じ部屋に住む俺がさりげなく監視していたから、新たな犯行に手を染める事はなかった」

 だが、と片寄は続けた。

「美樹が俺のアパートに住むようになって、部屋にやって来た涼花があいつと話すようになるうちに、涼花は十二月のひったくり事件の犯人をどこかで見た事があると言うようになった。当然だよな。見た覚えがあるも何も、当のひったくり本人と仲良く話していたんだからな! 妹も妹で、涼花が自分の犯行の目撃者だと気付いていなかったから無防備に彼女と話していた。俺だってその危険があるのはわかっていたが、だからと言っていきなり涼花に俺の部屋に来るなと言うわけにもいかなくて……もう、どうしたらいいのかわからなかったんだよ! なんで俺がこんな目に遭わねぇといけないんだ!」

 片寄は再び頭を抱えて絶叫する。だが、この場に片寄の味方は誰一人いない。それがわかったのか、片寄は疲れ果てた口調で証言を続けた。

「このままだと、涼花はいつか俺の妹がひったくり犯だという事に思い至ってしまう。あいつがひったくりしているなんてばれたら、あいつどころか身内の俺たちもただじゃすまない。女子高生がバイクに乗ってひったくりだなんて、匿名だったとしてもマスコミは間違いなくセンセーショナルに報道する。そうなったら俺だって就職が厳しくなるのは確実だし、将来の夢も確実に絶たれる。だから……俺はひったくり犯が妹だとばれる前に、それを防ぐ必要があった。あいつを守るためというだけじゃなくて、俺の将来を守るためにもだ」

「それであの日、あなたは口封じ目的で、ひったくりの目撃者である家田涼花さんを殺害したという事ですか?」

「あぁ、そういう事だ」

 片寄は虚ろな声で諸橋の指摘を肯定する。そして事件は起こり、その後は片寄の思惑通り斉川が過失致死容疑で逮捕され、このままいけば斉川が有罪判決を受ける事で罪を逃れる事ができるはずだった。

「ですが、事はそう簡単にはいかなかった。被害者の恋人だった岡部さんはこの事件が事故だとは納得しておらず、あろう事か事件の一週間後に榊原さんに事件の調査を依頼してしまった。そうですね?」

「そうだよ。反対したら怪しまれるだけだから、表向き賛成するしかなかった。ただ、話を聞いたら依頼する相手は警視庁捜査一課の元刑事だっていうし、そんな専門家にちゃんと調べられたらまずいと思った。岡部の奴、余計な事をしやがって!」

 片寄の悪態に対し、岡部は傍聴席で呆然とした顔をしている。自身の恋人を理不尽すぎる理由で殺した相手ではあるが、それ以上に予想外過ぎる真相に頭が追い付いていないというのが実情のようだった。

「その後は?」

「何とか誤魔化すしかなかった。それで色々考えて、殺人だとばれる事が避けられないんだったら、いっそこの探偵の調査を利用して斉川の罪を補強して誤魔化すしかない思った。それで京都に帰った後、斉川が殺人をしたように見える証拠を用意してあのマンションに仕込んだ」

「それが、今回の法廷で提出された張り紙と盗聴器だったわけですか?」

「あぁ……。さすがに準備に手間取って、仕掛けたのは裁判前日になっちまったがな。それでも、雨の事さえ覚えていれば、こんな間抜けな事にはならなかったはずなのに……」

 とはいえ、雨の事を覚えていたとしても、捏造証拠を設置しないという選択肢はなかっただろう。元々事件自体は非常に単純な構図なので、設置しなかったら設置しなかったで、その場合は榊原に全てを暴かれて斉川が無罪になり、遅かれ早かれ真相が暴かれるという結末で終わっていたはずだ。つまり岡部が榊原に依頼をした時点で、片寄の命運は尽きたも同然だったのである。

「なぁ……最後に一つ、聞かせてくれよ。後生の頼みだ……」

 と、不意に片寄が力なくそんな事を言う。諸橋がチラリと裁判官の方を見ると、裁判官は許可するというように頷いた。それを受けて、諸橋が片寄に告げる。

「いいでしょう。一つだけ質問を許可します。何ですか?」

「……探偵さん。あんた、いつから俺が怪しいと思っていたんだ? あんたが仕込んだ仕掛けは、俺があんたに依頼した時に怪しいと思わないとできないもののはずだ。つまり、あんたは俺が怪しいと、依頼をした時点で気付いていた事になる。何で……何で俺が怪しいと思ったんだ?」

 それは、榊原に対する質問だった。確かに、依頼の時点で片寄が怪しいと思わなければ、神里探偵を使った今回の仕込みは不可能であるはずである。それに対する榊原の答えはこうだった。

「先に言っておきますが……あの時点では、君が間違いなく犯人だと思っていたわけではありません。私はそこまで万能ではない」

「じゃあ……」

「ですが、岡部君はともかく、君が依頼に乗り気でないのは雰囲気でわかりましたからね。乗り気でないという事は、具体的な内容はわからなくとも、何か探偵に依頼をしたくない理由が存在するはず。その理由にも色々なケースがあるのですが、その理由の中で最悪のパターンは『依頼人自身が犯人』というケースで、もしその最悪のケースが事実なら、そいつは自身の罪を逃れるために必ず何かを仕掛けてくるはずです。そんな事を考えて話を聞いていたら、君は私への依頼に乗り気ではなかったにもかかわらず、どういうわけか私がいつ調査に取り掛かるかを気にするような質問を発した。切羽詰まっている依頼人ならともかく、依頼自体に乗り気でない依頼人がそんな質問をするのは少し珍しい事でしてね。そこで試しに『すぐにでも始められる』と鎌をかけたら、なぜか君は少し緊張したかのように体をこわばらせる仕草を見せ、直後に『一週間後の公判開始日に合わせて』と訂正したら、今度はあからさまに緊張が緩んだように見えました。この反応を見て私は、私が調査を始めるまでの一週間の間に君が事件に関連した『何かをする』つもりなのだと判断した。そして、その『何か』が『依頼人が私に何かを仕込む』という最悪のケースだった場合の事を考えて、念のための保険をかけておいただけです」

 つまり、榊原として依頼時の片寄の反応からあくまで最悪のケースを想定して動いたに過ぎず、その備えに片寄が勝手に引っかかったという事らしい。

「もちろん、普段は依頼人に対してここまでの事はしないんですがね。ただ、こう言っては何ですが、探偵業をしていると信用できない依頼人というのも一定数いるものでしてね。この保険が外れたとしても、その時は単に私の考え過ぎですむ話。ですが、逆にもし当たれば……その時は私の悪い予想が当たったというだけの話です」

「そんな……」

「言ったでしょう。私は一度受けた依頼はどんな事があっても真相を解き明かすと。そのために少しでも怪しい部分があれば、二重三重の保険くらいはかけるという事です。まして、私を利用して何か悪事を成し遂げようとするなど、絶対に許すはずがないでしょう。私自身の信用にもかかわりますし、何より……それは探偵の信念に対する真っ向からの挑戦ですからね」

 そして、最後に榊原はとどめの一言を突き付ける。

「探偵をあまり舐めない事です。我々はそんなに甘い存在じゃありませんよ」

 その言葉に、片寄は完膚なきまでに打ちのめされたように、嗚咽を漏らし続けたのだった……。


 そしてその数分後、駆けつけた三条たち京都府警の刑事たちに片寄が緊急逮捕され、証人がすべて退いた法廷で、傍聴人たちが見守る中、検察官が宣告を行っていた。

「裁判長、検察側としては極めて遺憾ではありますが、これまでの証拠調べ手続きにおいて起訴内容に対する重大な疑義が生じたため、この時点を持って被告人・斉川敦夫氏に対する本事案についての起訴の取り下げを申請したいと思います。なお、片寄耕太については、今後取り調べ手続きを行った上で、改めて本事案についての起訴判断を行うつもりであります」

 建前上「起訴判断」とは言っているが、これだけ証拠がそろっているとなれば、検察が片寄の起訴に踏み切る事は確実である。とはいえ、それはこの斉川敦夫の法廷とは別の話であり、今はこの裁判に蹴りをつける必要があった。

「弁護人、いかがでしょうか?」

「こちらとしては、異論はありません」

「よろしい。それでは検察側の要請を受け入れ、この時点で本事案についての審理を一度打ち切り、次回判決公判で本件についての正式な判断を下したいと考えます。検察側、弁護側、共によろしいですね?」

「しかるべく」

「異議はございません」

「では、本日はこれにて閉廷!」

 裁判官はそう宣言すると、その場を立ち上がって退廷する。この宣言により、逆転に次ぐ逆転が重なったこの法廷はようやく幕を閉じたのだった……。

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