愛してるという言葉は
彼女と結婚して、息子の
「教えてくれてありがとね。君」
「いぬ!」
「そうだよー。わんわんだよー」
「わんわん!」
「あははっ。可愛いー。この子、名前なんて言うんですか? 男の子? 女の子?」
女性が顔上げる。目が合った瞬間、表情が固まった。女性の正体は高校の時の同級生の
「……その子、あんたの子?」
「う、うん。俺の息子。一歳。名前は湊」
「ふぅん。……なんか、昔のあんたにそっくりだね」
「え? 昔の俺のことなんて知らないでしょ」
「知らない。けど、アルバムで見たことはある」
「あぁ、なるほど。そういや見せたね」
彼女は家に遊びに来たこともあったため、親も彼女のことを知っている。実家からは離れているから、偶然会うなんてことは無いと思うが——
「おかー!」
湊が信号待ちをしている女性を指差して叫ぶ。女性と目が合う。母ではないが、母以上に今会いたくない人だった。彼女は信号が変わると駆け寄ってきてベビーカーから湊を抱き上げる。
「か、海、なんでここに」
「起きたら居なかったから。で、誰? 浮気?」
「そ、そんなわけないでしょ。たまたま会った……その……元カノ」
「ふぅん」
「……あんたの奥さん?」
「まぁ……うん。妻」
「……ふぅん」
空気が重い。今すぐ息子を連れて帰りたいが、当の息子は妻に高い高いされてはしゃいでいる。
「……あれがあたしとのデートをすっぽかすくらい好きだった人?」
「……うん」
「……ふぅん。男かと思った」
「あはは……中身もカッコいい人だよ」
「あっそ」
「……さ、湊。お父さんは置いて帰ろうか」
「ちょ、ちょっと!?」
「……なに」
帰ろうとする妻を引き止めると、不機嫌そうに振り返る。まさか妬いているのだろうか。絶対妬かないと思ったのに。
「俺も帰るよ」
「積もる話があるんじゃない? 良いよ。僕に気を使わなくて」
「気を使ってなんかないよ。彼女との関係はとっくに終わってる。今日は本当に、たまたま会っただけ」
「……彼女の方は未練たらたらって感じだけど」
鼻で笑いながら妻が言った視線の先に居た夏芽は、俺と目が合うと目を逸らす。あの時別れを切り出したのは彼女の方からだった。俺があっさり承諾すると、どこか寂しそうな顔をしていたのを覚えている。別れたくないと言って欲しかったのだろう。分かってはいたが、言えなかった。最初から好きじゃなかったから。ただ、敵わない恋心を誤魔化したかっただけ。彼女を傷つけたことに罪悪感がなかったわけではない。なかったどころか、その罪悪感は今も拭えない。
「麗音」
ふと、妻が俺を呼んだ。振り返るより先に、彼女の腕が俺の身体を強引に回す。そして彼女はそのまま俺の腰をぐいっと引き寄せ——
「んっ……!?」
唇を奪った。逃さないと言わんばかりに腰と頭をがっちりと抑え込んで。咄嗟にベビーカーの方に視線を向けると、ベビーカーごと後ろを向いていた。「おかー?」と、ベビーカーから妻を探しているような声が聞こえてくる。妻は唇を離すと、彼女は俺の顔を隠すように胸に抱いて言った。「こいつ、もう僕のだから。諦めてよ。お嬢さん」と、どこか煽るような口調で。「っ……」と、夏芽の声にならない声が聞こえて、足音が遠ざかっていく。
「……お嬢さんって。同い年なんだけど」
「うるさい。帰るよ。湊、ごめんね。お待たせ」
「おとー?」
「お父さんもいるよ。ちゃんと。ほら麗音、なにしてんの。帰るよ」
あんなことしておきながら平然としている彼女に悔しさを覚えながら、ベビーカーを押して歩く彼女の隣に並んで歩く。
「……海」
「なに」
「……好きだよ」
「知ってる。……彼女と付き合ってた頃も、その好きを捨てられなかったんでしょ」
「うん。……彼女には酷いことをした」
「好きでもないのに、好きな人を忘れるために付き合うとか、クズだね」
「君に言われたくない」
「僕はこう見えて、今まで好きな人以外と付き合ったことはないよ。遊びは遊びでちゃんと割り切ってる。君みたいに中途半端な優しさを振り撒いて余計な期待させる方がタチ悪いと思うけど」
ベビーカーを押しながら、彼女は俺の方を見ずに言う。不謹慎だが、妬いているのだと思うと少し嬉しくなってしまう。すると彼女は「どうせ妬いてくれて嬉しいとか思ってんだろ」と俺の方を見ないまま鼻で笑った。
「あ……ごめん」
「否定しないのかよ」
彼女は呆れるように深いため息を吐いた。会話はそこで終了し、気まずい空気のまま家に到着する。
「……麗音、部屋で待ってて。湊寝かしつけたら行く」
「……うん」
言われた通り部屋に行く。どう仲直りをしたら良いかと考えながら待っていると、彼女が部屋に入ってきた。とりあえず謝ろうとしたが、彼女が手に持っているものが視界に入ると謝罪の言葉が引っ込んだ。
「……なにそれ」
「可愛いでしょ」
彼女が持っていたのはリード付きの首輪と、刑事ドラマでしか見たことがないような手錠。「君に似合うかなって思って買ったんだ」と笑うが、目は笑っていない。思わず後ずさるが、後ろの壁にぶつかってしまう。そのまま彼女は俺と距離を詰め、俺の首に首輪をはめると、リードを握って「思った通り。似合ってる」と笑う。しかし、やはり目は笑っていない。
「こ、こんな首輪なんてつけなくても、俺はどこにも行かな——ちょ、ちょ、待っ」
カシャンと音がしたかと思えば、左手に手錠がかかっていた。そのまま右手にもかけられ、両腕を拘束されてしまう。
「分かってるよ。どこにも行かないことくらい。ただ単に、誰にでも優しすぎる君が気に入らないだけ」
そういうと彼女はベッドに脚を組んで座り、頬杖をついて言う。「おすわり」と。ベッドの前に正座すると、今度は「お手」と手を差し出す。差し出された彼女の手に両手を乗せる。すると彼女は呆れるようにため息を吐いて「おいで」と手招きをした。ベッドの上に上がると、彼女は脚を伸ばして膝をトントンと叩いた。恐る恐るそこに頭を乗せると、頭を撫でられる。
「……本当は、不安なのは君の方なんでしょ。だから、嫉妬されてホッとしたんだろ」
彼女の言う通りだ。言い返せずに目を逸らすと、彼女は囁くように言う。「愛してるよ。ちゃんと」と。
首輪と手錠をつけられた状態で膝枕されながら言われてもと苦笑いしてしまうが、いつだったか、彼女はこう言っていた。『愛してるという言葉はいざというときにしか使わない』と。彼女は俺の頭を膝から下ろすと、俺の隣に寝転んで俺の頭を抱きながら、その特別な言葉を、何度も俺に囁いた。心配しなくても僕は君を手放したりしないと言い聞かせるように何度も、何度も。
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