海と麗音の話

三郎

君への願いはただ一つ

「海は女の子なんだから、ぼくじゃなくてわたしっていうのよ」


「やだ。ぼくはぼくだもん」


「良いんじゃない? 可愛いし。ねー。海」


「ねー」


「はー……空、あんたほんと妹に甘いわね。この子が変な子に育ったらどうすんのよ」


「えー? 良いじゃん別に変な子でも。俺だって、周りから変人扱いされてるけど、母さん達なにも言わないじゃん」


 僕は昔から、親から変わり者扱いされていた。しかし、好奇心旺盛で勉強が好きな七つ年上の兄も同じく周りからは変わり者扱いされていたが、父も母も普通になれとは言わず、むしろそんな兄を誇らしげに自慢していた。両親はいつも兄を褒めていたが、僕は逆に、あまり両親から褒められた記憶が無い。『女の子なんだから』と否定された記憶なら、山ほどあるけれど。だけど兄だけは、いつも言ってくれた。『海はそのままで良いんだよ』と。

 十七歳の秋。僕は学校を辞めて家出をした。死のうとしたところを通りすがりの古市ふるいち幸治こうじというバーテンダーの男性に止められ、彼の店で働くことになった。働く前にそのことを兄に報告すると、兄は一人で店までやってきた。流石に叱られ連れ戻されるかと思ったが、兄の第一声は「良かった。無事で」だった。


「……こんな時でも怒らないんだね。兄貴は」


「なに。俺に叱られたくて家出したの?」


「……違う。ただ、もう、生きるの嫌になったから。死のうかなって思って」


 正直に話すと、兄は少し間を置いて「そっか」の一言。そしてまたしばらく間を置いて「生きてて良かった」と、震える声で続けた。


「散々言葉を選んでそれだけ?」


「……他に何を言えば良いの」


「……死ぬなんて馬鹿なこと言わないでって、説教しないの」


「……母さんや父さんならそうしただろうね。けど……俺には、出来ない。もちろん、死んでほしかったわけじゃないよ。海は俺にとって、たった一人の妹だから。古市さん……でしたっけ。妹を止めてくれて、ありがとうございました」


 そう言って古市さんに頭を下げた兄は泣いていた。兄が泣いたところを見たのは、後にも先にもこの時だけだった。


「いやいや。俺は何も。ただ、電車が止まると困るからここで死ぬのはやめてくれって説得しただけですよ。生きることを選んだのは……って、あれ? 今、って言った?」


「あ? 今更気づいたのかよ」


「えぇー!? 男の子だと思った! ごめんね!?」


「別に。間違えられるのは慣れてる。……あと、女扱いされるの嫌いだから。女だって知ったからって、気を使わなくて良いよ」


「分かったけど……あー……俺、未成年の女の子を誘拐したヤバいやつじゃん……」


「男でも誘拐には変わりなくない?」


「それもそうか……って、誘拐じゃないから! 俺は! 若者の自殺未遂を防いだだけ!」


「頼んでない」


「でも、結果的にもうちょっと生きようかなって思えたでしょ?」


「……約束の一ヵ月が経ったら、死ぬの手伝ってね」


「えっ。それはちょっと……。海くん、自殺幇助って知ってる? 自殺のお手伝いもね、罪に問われるんだよ。警察に捕まっちゃうんだよ」


「誘拐で捕まるのとどっちがマシ?」


「おぉう……どっちにせよ犯罪者コース……もしかして俺、詰んでる?」


「こんなの助ける方が悪い」


「俺は助けたつもりはないよ。ただ、人生の先輩としてアドバイスをしただけ。それを聞き入れてもう少しだけ生きることを決めたのは君自身だ」


「……はぁ。あんたと話してると調子狂う」


「なははー。俺の勝ち」


「なんの勝負だよ」


 後から聞いた話だが、この時古市さんのその飄々とした態度を見た兄は、この人なら妹を任せても大丈夫だと思ったらしい。むしろ、彼の側に置いた方が良いと判断したのだろう。


「海、母さん達には俺から伝えておく。だから、帰りたくなったら、帰っておいで」


「……帰りたくなることなんてないよ」


「それならそれで構わない。けど……母さん達も、海のこと愛してないわけじゃない。それだけは、分かってほしい」


「はっ。愛を言い訳に理想像を押し付けてくるなら、無関心の方がまだマシだよ」


「海……」


「……反抗期真っ最中。若いねえ」


「うるせぇなおっさん」


「失礼な。俺はまだ二十代だぞ」


「えっ。俺とあんまり変わらないんですね……」


「えっ。なにその反応。俺そんな老けてる!?」


「……雰囲気が四、五十代おっさんなんだよなぁ」


「しょっくがーん」


 項垂れつつ、スッとポケットから小さなフィギュアとガムを取り出す古市さん。そのフィギュアとガムがが何を意味するのか分からなかったが、兄が「をかけてるってことですか?」と苦笑いすると、嬉しそうに「正解」と兄を指差した。


「分かるか」


「お兄さんには通じたよ。まだまだだな少年」


「……はぁ……」


「……ふふ」


「んだよ兄貴」


「いや……とりあえず今日は帰るよ。あ、待って。寝泊まりはどうするの? もしかして、古市さんの家に転がり込むつもり?」


「俺は別に良いよ。というか、最初からそのつもりだ——あー……でもそっか、君、女の子なんだっけ」


「大丈夫だよ。僕、女にしか興味ないから」


「いや、逆逆。君が俺を警戒しなさいよ。君が男に興味なくても、俺が女に興味あるかもしれないでしょ?」


「……突っ込まないんだ」


「え? 何が?」


「女にしか興味ないってところ」


「え? なに? 冗談だったの? 俺普通にそういう人なんだって思ったけど」


「……そういう人だよ。そういう人だけど、世間はそれを認めてくれない。だから、死んでも良いやって思った」


「なるほどねぇ……」


「……もしかして、古市さんもそうなんですか?」


 兄が問う。すると古市さんは寂しそうに笑い、首を横に振った。


「いや。俺は……どっちでもない。恋ってやつが、いまいちよく分からないんだよね。好きだから独占したいとか、セックスしたいとか、そういうの、何一つ分かんない」


「……ふぅん。なら、僕がおっさんの家に居候しても大丈夫だね」


「……信じるの?」


「このタイミングでそんな嘘を吐く必要性を感じない」


「……家に上がらせる罠かもよ。誘い込んで、酷いことするかもよ」


「それならそれで別にどうでも良い。どうせ僕はあの時死ぬつもりだったんだから」


「……分かった。君が良いなら、うちにおいで。元々拾ったのは俺だしね。お兄さんも、それで良いかな」


「……はい。古市さんなら大丈夫だと、信じてます。妹のこと、よろしくお願いします」


 こうして僕は、古市さんの元で働きながら居候することになった。兄は毎日のように店に来たが、両親が来ることはなかった。兄曰く、気まずくてどういう顔をして会えばいいのか分からないとのことだった。

 古市さんとの契約は一ヵ月だったが、延長してそのまま働くことを決めた。それを聞いた兄はホッとしていた。




 それから数年後。親友二人が亡くなって少し経った頃、兄はどこか気まずそうに言った。「俺、結婚するんだ」と。式の招待状もくれたが、僕は行かなかった。行きたかったが、行けなかった。

 それから一年が経つ頃には、子供が生まれた。その子供と初めて対面したのは、自分に子供が出来てからだった。その時、兄嫁とも初めて会った。夫は兄の結婚式に参加しており、初対面ではなかったようだが、僕の夫として挨拶をするのはそれが初めてだった。


「初めまして。和奏わかなです。こっちは息子の和希かずきです」


「海です。初めまして」


「夫の麗音です。お久しぶりです」


「……今まで一度も挨拶に行けなくてすみませんでした」


「そんなの全然構わないよ。事情は空さんから聞いてる。落ち着いたらこっちから会いに行こうって話してたけど、そっちから会いに来てくれて良かった」


 兄嫁の穏やかな雰囲気は、どことなく兄に似ていた。


「私ね、一人っ子なんだ。だから、妹と弟ができてうれしい。これからよろしくね。海くん、麗音くん。子育てて何か困ったことがあったら、いつでも頼ってね。と言っても、私達もまだまだ新米だから、あんまり力になれないかもしれないけど……とにかく、一緒に頑張ろうね」


「……はい」


 それから数ヶ月して息子が産まれると、和奏さんは自分の息子を連れてやってきた。出産祝いと言って持ってきてくれたのは赤ちゃん用のバスローブ。


「これ、うちの子も使ってるやつなんだけどね、すっごい吸水性が良いんだ」


「ありがとうございます」


「うん。どういたしまして。お義母さん達も連れて来た方がいいかなーとは思ったけど……なんか余計なこと言いそうだから置いてきちゃった。まぁ、一緒に来なくても勝手に来るでしょ」


 彼女は穏やかな人だったが、義理の両親——つまり、僕の両親に対しては遠慮しない人だった。そのため、最初は両親——特に母との仲は微妙だったが、今はその影もない。当時と比べると二人ともかなり丸くなったから。


「まだ産まれたこと教えてないよ」


「えっ、そうなの!? うわぁー……またネチネチ言われるかな……」


「……しょうがないから知らせてやるか。あー、もしもし? うん。産まれた。なんで教えてくれなかったのって……あんたと話す気力とか残ってなかったから。うるせぇな。ちゃんと知らせただろ。今。和奏さん? 来てるよ。なんでって……僕の中の優先順位は両親より兄が先だから。は? 逆になんで一番に知らせてもらえると思ってんの。自惚れんなクソババア」


 両親のことは嫌いだった。特に母。愛されていなかったわけではないことは理解していたが、だからといって僕は二人を愛することは出来なかった。どうしても。それでも、感謝が無いわけではなかった。だから息子のことも一応知らせた。

 両親はその日の夕方、兄に連れられてやってきた。ケーキに見立ててラッピングされたおむつを持って。おむつケーキというものらしい。


「可愛いでしょう? お母さんが手作りしたのよ」


 ぽけらしげな母。それに対して和奏さんが「うわぁー。衛生面が心配ですねー」と苦笑いしながらぼそっと嫌味を言っていたが、母には聞こえていないようだった。僕も同じことを思ったが、言ったところで逆ギレされるだけなので黙って受け取った。ちなみに、和奏さんの時はスーパーで買ったおむつをそのまま渡してきたらしい。雑な扱いをしてやったつもりなのだろうが、正直その方が嬉しい。


「この子の名前は?」


みなと


「湊くーん。私がママよー」


「おいクソババア。息子に間違ったこと教えんなよ」


「海ちゃん、子供の前で喧嘩しないの。お義母さんも、そういう冗談はやめてください」


「……ふん。で? 海、本当の母親はどこに居るの?」


 母がそう言った瞬間、夫と兄夫婦の笑顔が消える。流石に父も「その言い方はないだろ」と母を咎める。父とも仲がいいわけではなかったが、母よりはマシだった。


「別に、母さんがそうやって嫌味言うことくらい分かってたし、嫌味じゃなくて本気でそう思ってたとしてもどうでも良いよ。僕は今更何言われたって、なんとも思わないから。けどね、母さん、この子には酷いこと言わないであげてよ。この子はあんたの嫌味に慣れてないから。慣れさせたくもない。この子に意地悪するなら、二度と会わせない。父さんも。母さんのことちゃんと見といてよ。連帯責任だからね」


「……分かった。……帰るぞ」


「まだ来たばかりじゃない」


「用はすんだろ」


「……分かったわよ」


 兄夫婦に連れられて、両親はすぐに帰っていく。すると入れ替わるように、夫の両親がやってきた。二人の第一声は「おめでとう」ではなく「お疲れ様、海ちゃん」という僕に対する労いの言葉だった。


「はいこれ。出産祝い」


 夫の両親が持ってきてくれたのはレトルトのスープ。


「これね、レンジで簡単に出来るし、野菜もいっぱい摂れるし、これ一つで結構お腹いっぱいになるんだよ。育児してると疲れて料理する気力もなくなっちゃうからね。ちょっとでも楽出来るように」


「……ありがとうございます」


 自分の両親との対応の差に、思わず涙が溢れそうになる。夫の両親がこの人達で良かったと、心からそう思った。こんな暖かい家庭で育てられたから、夫は穏やかで優しい人に育ったのだろう。僕と同じ親から育った兄は捻くれ者の僕と違って真っ当な人間だから、個性もあるのだろうけど。


「大変だろうけど、全部頑張らなくて良いからね。料理とか家事とか、手を抜けるところは抜いて、その分、この子にたくさん愛情を注いであげて。私はそうやって子育てしてきたから」


「俺は育児はほとんど母さんに任せっきりだったからあまり力になれないかもしれんが……何かあったらいつでもうちに来て良いからね」


「むしろ来てほしいんでしょ。おじいちゃん」


「……おじいちゃんって言うな」


「この子から見たらおじいちゃんじゃない」


「まぁ、そうだけど……」


「ふふふ。もうちょっと居たいけど……海ちゃんもまだお疲れだろうし、もう帰るね。ゆっくり休んでね。海ちゃん」


「はい。……ありがとうございました」


 義両親が病室から出ていく。我慢していた涙が溢れて止まらなくなる。すると、夫がスッとティッシュを差し出してくれた。そして僕の頭を抱き寄せて囁いた。「愛してる」と。


「……うん。知ってる」


「うん」


「……ありがとう。僕を愛してくれて」


「これからも愛し続けるよ。一生ね」


「湊のことも、同じくらい愛してあげて」


「言われなくても。湊のことも愛してる。君と同じくらい大事な家族だから」


「……うん。ありがとう」


 母も決して、僕を愛さなかったわけではない。それは理解している。普通に生きてくれという願いが愛故のものであると理解している。理解しているからこそ、鬱陶しかった。

 この子には自由に生きてほしい。普通という多数決で決められた概念に縛られずに、自由に。そう願いながら、腕の中で眠る我が子を抱きしめた。

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