猫のような人
湊も一歳になり、だいぶ歩けるようになってきた。ということで、初めて公園に連れて行くことに。近所の公園に行こうと思ったが、『そこの公園、おむつ替えスペースが女子トイレにしかないと思う』と妻から情報を得た。男だって育児をしないわけではない。男性専用のベビールームを作れとまでは言わないが、少しは育児をする父親のことも考えてほしいと心の中で文句を言いながら、男性も利用出来るベビールームや多目的トイレが近くにある公園を探す。あるにはあるが、徒歩圏内にはないようだ。
わざわざ車で行くのもなぁと思いながら調べていると、近所の公園の授乳室は女性専用だが、すぐ近くのショッピングモールには男性も入れるベビールームがあるようだ。
「……ちょっと離れてるけど……仕方ないか。いざとなったら走ろう。な、湊」
「だ!」
「よし、とりあえず、行く前にオムツ変えておこうなー」
というわけで、結局、最初に行こうとしていた近所の公園に行くことに。おむつを替えてからベビーカーに乗せて、歩くこと数分。子供達が元気にはしゃぐ声が聞こえてくる。はしゃぐ子供の中には男の子も女の子も居るが、付き添いの大人はほぼ女性だ。こんな平日の朝に父親一人と子供の組み合わせは珍しいのか、母親達だけではなく、子供達からも視線を感じる。居た堪れないと思っていると、一人の少女が近づいてきて言った。「おじさん、このこのパパ?」と。しゃがんで目線を合わせて「そうだよ」というと「ママはいないの?」と聞いてきた。慌てて母親と思われる女性が止めにきたが「お家に居るよ」と正直に答える。女性は意外そうな顔をした。
「うちは妻の収入で生活してまして。俺が専業主夫なんですよ。婦人の婦じゃなくて、夫の方の」
「あ、そ、そうなんですね。すみません、てっきりシングルかと……」
「いえいえ。にしても……やっぱり、女性ばっかりですね……」
「そうですね。平日はいつもこんな感じです。土日は割とパパさんも居ますけど」
「ですよねぇ……おむつ替える場所も女子トイレにしかないですし……」
「ああ……大変そうですね」
「ねぇねぇ、あかちゃん、おなまえなんていうの?」
「おなま」
「お名前な。鈴木湊です。一歳です」
ベビーカーに座る湊の指を一本立ててやると、湊も俺の方を見てから女の子の方を向き直し「いっしゃいれす」と舌足らずな声で真似をした。「君は?」と少女に聞き返すと、彼女は「ほしのるみ、さんさいです! ママのなまえはれいやです!」と母親の名前と合わせて元気よく名乗って、指を四本立てた。母親が苦笑いしながら彼女の指を一本折りたたんで三本に直す。
「おじさんのおなまえは?」
「俺? 俺は鈴木麗音です」
「れおん?」
「変わった名前ですね」
「よく言われます。母が白百合歌劇団のファンでして」
「あぁ! もしかして、
「あ。はい。もしかして
「はい。ファンです。私の名前も団員の方から取ってるんです」
「れいや……あぁ、
「ふふ。はい。ちょっと恐れ多いですけど」
「大スターですもんねぇ。俺も恐れ多いです」
「ねぇねぇれおんさん、この子、みなとくん? みなとちゃん?」
「男の子だよ」
「ちんちんついてる?」
「こ、こら!
「あ、あはは……元気ですね」
「す、すみません……本当に……」
「いえいえ」
「おとー、ありぇ」
「お。どれ?」
湊が指差した先にはブランコ。立ち漕ぎする子供を見て目で追っている。流石に1人で乗せるのはまだ心配なので、その隣の、座面が籠状になっているブランコに乗せてやる。「これ、ちがうの」と不満そうに首を振っていたが、少し揺らしてやると一変して楽しそうに笑いだした。止めると俺の方を見て「もっと!」と足をバタバタさせる。どうやらお気に召したらしい。流美ちゃんは他の友達のところに行ってしまったが、しばらくすると戻ってきて「かくれんぼする?」と湊を誘ってくれた。
「湊、るみおねえちゃんが遊ぼうって」
「あしょぶ!」
「よし。じゃあブランコ降りようなー」
ブランコから降りて、流美ちゃん達とかくれんぼをすることに。
「さて湊。どこに隠れようか」
「ん!」
湊が指差した土管の中に湊と一緒に隠れる。「もーいいかい」と聞こえてきた鬼役の子の声に「もう良いよ」と返事をすると、湊も「もーいいよ」と真似をして土管を出て行こうとする。ルールをよく理解していないようだ。
「いい? 湊、今から鬼さんが探しに来るから、みーつけたって言われるまで、ここに隠れてるんだよ」
連れ戻してルールを説明してやると、湊はこくりと頷き、縮こまって頭を押さえた。隠れているつもりなのだろうか。可愛い。
「みーつけた」
「うわっ、もう見つかっちゃ——って、海!?」
土管の外から覗いたのは鬼役の子ではなく妻だった。湊は嬉しそうに駆け寄ろうとしたが、ハッとして俺の隣に戻ってきてまた縮こまった。妻はその隣に膝を抱えて座り、抱えた膝に頭を乗せて湊の頭を撫でる。
「かくれんぼしてんの? 懐かしいな。学校でかくれんぼしてた時さ、見つからなくて泣いてたよな君」
「チャイムが鳴った瞬間に木の上から降ってきた時はびっくりしたよ。木の上は卑怯じゃない?」
縮こまる湊の隣で思い出話をしていると「おじさん、こえまるぎこえー」と子供の声。振り返ると「みなとくんとみなとくんパパみーつけた」と鬼役の子が俺を指差す。
「まるきこえー」
顔を上げ、不満そうに俺を睨む湊。「丸聞こえー」と悪戯っ子のように笑う妻。
「そのひと、おじさんのともだち?」
「ん。あぁ、この人は湊のお母さんだよ」
「おかあさん!?」
鬼役の子の驚いた声が土管の外まで響く。それを聞いて気になったのか、隠れていたはずの子供達が集まってくる。そして何故か母親達まで集まってきた。
「えっ、さっきのカッコいいお兄さん、あの子の母親!?」
「嘘! 女性なの!?」
「あんなにカッコいいのに!?」
「うちの夫よりカッコいいんだけど」
「しかも夫を養ってるんだよねあの人……」
「うちの夫と交換してほしい」
自分を見てざわざわする母親達に向かって、妻は笑顔で手を振る。母親達はどこか照れ臭そうにはにかみながら頭を下げた。笑顔を振り撒きながら妻は「流石に人妻には手出さないから安心して良いよ」とぼそっと呟く。
「既婚者は後が面倒だからなぁ」
「そういう問題じゃないから。倫理的な問題だから」
「あははー」
「全く君は……」
湊を連れて彼女と共に土管を出る。仕切り直してかくれんぼの続きを始める俺たちには目もくれず、母親達はすっかり妻に夢中になっている。なんだか転校初日の転校生みたいだ。
「湊、次はどこに隠れようか」
「うー……あ!」
湊が隠れ場所に選んだのはベビーカーだった。流石に一緒には隠れられない。ベビーカーに乗せてブランケットをかけて、妻にベビーカーごと託してアスレチックの下に隠れる。
「へぇ。バーテンダーですか」
「はい」
「子育てしながらの夜勤、大変じゃないですか?」
「まぁ、そうですね。夫が常にこの子を見てくれていなかったら続けられてませんね。……夫には本当に、感謝してもしきれないです」
狭いアスレチック下のスペースで縮こまりながら、妻と母親達の会話に耳を傾ける。俺がすぐ近くに隠れていることは知っているくせに、平然と惚気ている。普段は俺に冷たいくせに。
「……そういうのは直接言ってよ」
目が合うと彼女は、わざわざ言わなくても伝わってるだろう? と言わんばかりにふっと笑った。確かに充分伝わってるけども。
「あんな素敵な旦那さん、どこで捕まえたんです?」
「彼とは元々幼馴染でして」
「えっ、もしかして、初恋?」
「彼の方はそうらしいですけど、僕は全然。彼とこうなるなんて想像もしなかったですよ」
「旦那さんの粘り勝ちですか」
「ええ。もうほんとに……ほんっとにしつこくて」
そう語る彼女の声は優しい。どんな顔で語っているかなんて、見なくてもわかる。熱くなる顔を膝に埋める。なんなんだ。どうせ家帰ったらそっけなくなるくせに。
「あれだけ良い人だと、不満なところとか無さそうですよね」
「いや、むしろ良い人すぎて刺激が足りないとか……」
「そうですね……刺激は……あんまり無いですね」
こっちはありまくりなんだが。
「でも、確かに恋愛するなら刺激は欲しくなるでしょうけど、結婚して家族として一緒に暮らすなら必要ないと思います。家族になるために必要なのは恋愛ではなく愛だけだと思うので」
「……ふ、深い……」
感心しているママさん達だが、俺からしたら浮気性の彼女が言うと言い訳にしか聞こえない。結婚してからは一度してないし、俺に対する恋心が一切ないというわけでもないことは分かってはいるが。
「人たらしめ……」
「ひとたわし?」
「はっ……」
声のした方を見ると、鬼役の子が立っていた。「おじさん、ひとりごとおおいね」と呆れるように言われ、恥ずかしくなる。
「あれ、みなとくんは? いっしょじゃないの?」
「あー。湊は別の場所に隠れてるよ」
「なんですとー!? おわったとおもったのにー!」
どうやら見つかっていないのはあと湊だけらしい。ベビーカーに隠れているという発想はなかなか出てこないようで、ベビーカーの方には近づこうともしない。それにしても、やけに静かだ。鬼に気付かれないように、ベビーカーにかかっているブランケットをそっとめくる。やはり。爆睡している。
「おじさんー! みなとくんどこー! いないよー!」
「ふっふっふ。少年よ。降参するかね?」
「ぐぬぬ……あれ? まさか……」
ベビーカーから覗く小さい足に気づいた鬼役の子が、そっとブランケットをめぐる。「あー! いたー!」と叫んだが、寝ていることにすぐに気づいたようでハッとして「みなとくん、みーつけた」と小声で湊を指指す。
「もー。あそんでるのにねるなよぉ……」
「じゆうじんだ」
「でもなんか、かわいいね」
「こうなったらしばらくは起きないし、帰るか」
「そうだね。みんな、今日はこの子と遊んでくれてありがとね」
「またあそぼうねー」
「ばいばーい」
子供達に手を振り、母親達に頭を下げてベビーカーを押して妻と一緒に家に向かう。
「見事に母親しかいなかったな」
「平日だしねえ……けど、良かったぁ。思ったより受け入れてもらえて」
「君はママさんよりパパさんから警戒されそう」
「俺は浮気なんてしないよ。君と違って」
「そりゃ、君はしないだろうね。けど、人たらしだからなぁ君は」
「君に言われたくな「麗音」
彼女は不意に立ち止まり、静かに俺の名前を呼ぶ。思わず足を止めると、彼女は手を差し出して「お手」と一言。
「……」
「おーて」
「……わん」
素直に差し出された手に手を乗せる。すると彼女は満足そうにふっと笑って、その手をそのまま持ち上げ、口付けた。そして目を合わせて「愛してる」と微笑んだ後、踵を返して何事もなかったかのようにベビーカーを押しながら歩いていく。本当に、自分勝手な人だ。きっと俺はこの先もこうやって、彼女の手のひらで転がされながら生きていくのだろうなと、幸せで満ちたため息を吐いた。
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