第1章 アグネリア領 襲撃編
第7話 悪神
「よいしょっと」
井戸水が入った桶を両手で持ちながら、三つ編みを揺らし、私は畦道を歩いて行く。
私の名前はエレノア・クロウリー。
王国南西にあるアグネリア領、田舎の村落。そこに住む、ただの村娘だ。
この辺りにあるのは牧草と木と畑ばかりで、目立ったものは特に何もない。
魔物や夜盗の出現もあまりなく、いたって平和な平野地帯と言っても良い場所だろう。
「お姉ちゃん、疲れたー。これ持ってー」
背後を歩いている弟のベンが、水の入った桶を地面に置いて、私にそう声を掛けてきた。
そんな駄々をこねる幼い弟に、私は足を止めて振り返ると、ふぅと大きくため息を吐く。
「もう、男なんだからもうちょっと頑張ってよ。お姉ちゃんもこれ、一個持っていくので精一杯なんだよ?」
「いやだ! 疲れた! もう持ちたくない!」
「あーもう、めんどくさいなぁ。怠け者は罰を受けるんだよ! 月の女神メティス様はいつだって天上から私たちをお見守りしてくださっているんだから!」
「お姉ちゃん‥‥神様なんて、本当にいるの? いるんだったら、何で僕たちはこんなに貧しい生活を送ってるの? もっとお腹いっぱい食べれるようになりたいよぉ‥‥」
「い、いるに決まってるでしょ! もう、我儘言うんだったら、お母さんに言いつけるんだから!」
「だ、駄目だよ! お母さんには言いつけないでよ! ゲンコツは嫌だ‥‥って、あれ?」
「どうしたの? ベン?」
足を止め、私の背後に視線を向ける弟。
背後を振り返り、そんな弟の見ている方向へと視線を向けてみると、そこには、森を抜けて馬に乗ってこちらにやってくる騎士たちの姿があった。
私は慌てて弟の手を引き、道を空けて、端へと寄る。
すると、三名の騎士たちは猛スピードで私たちの横を通り過ぎ――ずに、私たちの前で馬を止めると、馬上の上からこちらに声を掛けて来た。
「女! この先にあるのは、フレースベルの村で合っているか!?」
「は、はいっ! 合っています!」
「よし! 行くぞ、お前ら!」
そう仲間に叫ぶと、彼らは馬を走らせ、畦道を猛スピードで駆け抜けて行った。
その小さくなっていく騎士たちの姿にゴクリと唾を飲み込むと、私は水の入った桶を地面に置く。
そして弟の手を引いて、先ほど騎士が通って行った道をまっすぐと走って行った。
「た、大変だ、アグネリア男爵家の騎士が税の徴収に来たんだ! は、早く、みんなに教えないと!」
「お姉ちゃん、頑張って走ってもお馬さんに勝てるわけないよー?」
「うるさい、ベン! 早く行くよ!」
そう怒声を放った後、私は水の入った桶を放って置いて、弟と共に村へ向かって行った。
「――――では、今節の税の徴収を始める! フレースベルの長老よ、前に出て我らに規定の額の税を納めよ!」
村に戻ると、騎士たちが村中の人々を広場に集め、さっそく税の徴収を始めていた。
私は弟を連れて、群衆の端に立っている母親の元へと歩いて行く。
「お母さん!」
「あぁ‥‥エレノア、ベン、お帰り」
母は私とベンの肩を優しく叩くと、静かに息を吐いた。
そして、一呼吸置くと、私に真剣な眼差しを向けてくる。
「良いかい、エレノア。今すぐ村の外にある牧草地帯にお逃げ。あそこなら馬では追って来れないはずだ」
「え、お母さん‥‥?」
「村中のお金をかき集めたけれど‥‥恐らく、私たちは今節の税を納めることができないと思う。あのアグネリア男爵のことだ。税を徴収できないのなら若い村娘を差し出せと、そう言ってくるに違いないよ。そうなったら、あんたは間違いなく、男爵家の奴隷として御屋敷に連れて行かれることになるだろう。そんなことになる前に、さぁ、早くお逃げ!」
「む、無理だよ! 私の姿はさっき聖騎士たちに見られてるもん! 私が村に居ないことを知ったら、アグネリア家の騎士がこの村で何をするか分からないよ‥‥!!」
「今は大人しく言うことを聞きなさい! お姉ちゃんが男爵の御屋敷でどうなったのか‥‥知らないわけじゃないだろう!?」
「‥‥‥‥ッ!!」
私は目元を手で擦りながら、村の裏手にある牧草地帯へと向かって足を踏み出す。
だが、それと同時に、広場から聞こえてきた怒鳴り声が私の耳の中へと入ってきた。
「おい、長老! 金貨が三枚足りぬではないか! 今節の徴収は、金貨十五枚だったはずだが!?」
「も、申し訳ございません、聖騎士様。何分、私らの村の産物は畑から取れる野菜のみでして‥‥野菜を売りさばいても、一か月に金貨十五枚は、とても難しく‥‥」
「言い訳をするな、下郎!! 聖王国の財務大臣であられるアグネリア男爵閣下の命令を守れぬとは、許されぬ行いだぞ!! 貴様、男爵家に反意があるのか!?」
「そ、そのようなことは、けっして!! あと一か月!! あと一か月待ってくだされば、必ず!!」
「まったく‥‥この村は、過去三年間税の徴収が遅れたことは無かったのだがな‥‥。まぁ、これも良い機会だ。かの御方に歯向かえばどうなるかを、貴様の身体をもってして、村の連中に教えてやることにしよう」
「ま、待っ――――」
聖騎士の男は腰の鞘から剣を引き抜くと、容赦なく老人を斬り付け―――肩から腹部に掛けて斜めに両断していったのだった。
私はその光景に思わず足を止め、思わず唖然とした表情でその場に立ち尽くしてしまった。
「おじいちゃん‥‥おじいちゃーんっ!!!!!」
長老の孫は、動かなくなった祖父に駆け寄ると、膝を付き、彼の死体の前で泣き叫び始める。
そんな子供の姿をうるさく思ったのか、聖騎士はチッと舌打ちを放った。
「喧しいガキだ! おい、さっさとこいつの口を塞げ! でなければこの子供も斬り殺すぞ!!」
「も、申し訳ございません!」
長老の娘は慌てて子供を抱きあげると、息子をあやし始める。
しかし、子供は一向に泣き止む気配を見せない。
その光景に苛立った様子を見せた騎士は、剣を抜いたまま、親子の前へとゆっくりと近付いて行く。
そして、手に持った剣を上段に構えると‥‥そのまま母親と子供を頭部から両断していったのだった。
ザシュと辺りに血が巻き散らされ、物言わぬ骸となり、地面に横たわる親子の亡骸。
その残虐な行いに、村の誰もが何も言うことができず。
周囲を見渡すと、皆、呆然として立ち尽くしてしまっていた。
「フン。口を塞げと言ったのに言うことを聞かぬからだ。言葉の分からん愚物はいらん」
そう言って剣に付着した血をヒュンと振って振り払うと、鞘に剣を納め、騎士は高らかに村中へ声を轟かせる。
「神の代弁者である我ら聖騎士の言うことを聞けねば、貴様らはその場で死罪だ! 分かったな、愚民ども!」
そして、大きく息を吐くと、騎士は再び開口する。
「さて、それでは税の代わりになるものを納めてもらうとしようか。アグネリア男爵閣下は、十代の若い少女を御所望だ。この村に娘がいるのなら、大人しく差し出すと良い。それで今節の不足した分の税はチャラにしてやろう」
そう宣言すると、騎士の男はニヤリと、いやらしい笑みを浮かべるのだった。
「ゼェゼェ‥‥」
高く伸びた牧草に隠れながら、地面を思いっきり蹴り上げ、私は全力で草原を駆け抜ける。
だが、背後からは常に騎士たちが追ってくる足音が聞こえてきていた。
私はその音に恐怖で顔を引き攣らせながら、痛む足を懸命に動かし、視界の悪い草原の中を駆け抜けて行く。
私が逃げた後、お母さんとベンはどうなったんだろうか。
村のみんなは、無事だろうか。
もし、私が逃げたことで、誰かが死んでいたりしたら――――。
「あっ」
そんな、最悪な出来事を想像して、集中力が途切れてしまったからだろうか。
私は足元にあった小石に躓き、転倒してしまった。
「キャッ!!」
前のめりに転び、地面に顔を擦り付けてしまう。
転倒の痛みに苦悶の表情を浮かべながらも、逃げるために、即座に立ち上がろうと足に力を込める。
膝に手を当てて起き上がると、いつの間にか目の前には―――長老を殺したあの騎士の男が立っていた。
彼はゴミでも見るかのような冷たい目で私を見下ろし、口を開く。
「何故、逃げる?」
「‥‥うぐっ!!」
厚底ブーツでみぞおちを思いっきり蹴られ、私は肺の中にあった空気を全て外へと吐き出してしまう。
膝を付きケホッケホッと咳き込む私の髪を掴むと、騎士はハッと嘲笑の声を溢した。
「良いか? お前たち下民は上級国民に搾取されるために存在しているのだ。ここら一帯にある牧草は、牛や馬が食べるためにあるものだろう? それと同じで、お前らはただ収穫されるために生かされているにすぎないのだ。野菜や牧草が捕食者に抵抗するか? しないだろう? 故に、下民である貴様らも同様に抵抗をするな。大人しく捕食者に食われろ、愚物めが」
「お、大人しく、捕食者に‥‥食べられる‥‥?」
「そうだ。お前が脱走なんてしなければ、お前の母親も弟も死なずに済んだものを‥‥本当に馬鹿な女だな、貴様は」
そう言って男は私の髪を引っ張りながら、村に向かって歩き始めた。
ブチブチと髪が抜ける音がして、私は苦痛に顔を歪める。
「痛い痛い痛い! やめて! 離してよぉ‥‥!!!!」
「黙れ。大人しくついてこい、女」
――――結局、彼の言う通りに、弱者は強者に搾取される運命でしかないというのか。
信じる者こそだけが救われると、この国の神様はそう教えるが、そんなのは噓っぱちだ。
毎朝神に祈りを捧げていた敬虔な信者であった長老は、神の代弁者とされる聖騎士の手によって、先ほど簡単に殺されてしまったのだから。
この残酷な世界に神様なんてものはいない。
だって‥‥だって、私を助けてくれないんだもの。
実在しない神に祈り、日々の平穏を乞うだなんて、そんな滑稽なこと、何でみんなしているんだろう。
少なくとも、この国の宗教―――メティス教の神様が、人でなしということは理解したよ。
「‥‥‥‥もう、どうでもいい‥‥誰でも良いから‥‥誰でも良いから、こんな酷い世界、壊してよ‥‥もうたくさんだよ、こんな世界」
そんな私の独り言を無視して、男は高く聳える牧草に向かって、大きく声を張り上げる。
「おーい、ここにいたぞ!! 手を貸せお前ら!!」
しかし、彼のその声に反応する者はいなかった。
仲間の応答がないことに、騎士は不思議そうに首を傾げると、再度口を開く。
「おい! 何を無視している!! 早くこっちに来――――」
「ククククッ、大人しく捕食者に食われろ、か。だったら貴様ら聖騎士も、この俺の憎悪の炎を滾らせる糧となると良い」
「‥‥は?」
唖然としたその声に、どうしたのだろうと前へ視線を向けると、騎士の背中から、一本の剣が突き刺さっていた。
その剣はゆっくりと上へと上がって行くと、男の身体を真っ二つに割り、辺りに血しぶきの雨を降り注がせていく。
そしてその後、臓物が地面にボタボタと落ちていき――――地獄のような世界が辺りに広がって行った。
「‥‥‥‥‥‥ぇ?」
私は、男の身体を斬り裂いて現れた漆黒の騎士に目を丸くさせる。
血の雨の中、三日月を背景に威風堂々と立っている彼のその姿は、私の目にはまるで神様かのように映っていた。
「神様、ですか‥‥?」
その問いかけに、漆黒の騎士はククククッと不気味な嗤い声を上げる。
そして、静かに口を開いた。
「この俺が、神になど見えるか?」
普通だったら恐怖するその言葉に、私は何故か手を組み、恍惚とした笑みを浮かべてしまっていた。
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