第56話 虚

 モニカが感応力リアクトを全力発揮してから五分が経過していた。

 普段のモニカであれば、そろそろ体力の限界が来る筈の時間だ。

 しかし、今のモニカは違った。胸の内から湧き上がる使命感の所為か、或いは、今この瞬間にも成長しているのか。理由こそ理解らないが、少なくともあと五分は全力で戦えるような気がしていた。


「はあああっ!!」


 気力は十分。

 裂帛の気合と共に禊へと肉薄し、雷を纏ったレイピアを右手に、突く、斬る、払う。その度に稲光が、モニカの胸中を表すかのように荒れ狂う。ばちり、という音と共に弾け、樹々や岩を焦がしてゆく。いつも以上の実力を発揮できているという自負がある。今までで最高のコンディションだと、確信を持って言える。


 しかし、それでも。

 突いても、斬っても、払っても、モニカの剣は届かない。どれだけ渾身の力で斬り掛かっても、いくらフェイントを入れようとも、奇をてらった一手を打ってみても。目の前の少女はゆらゆらと、まるで風が踊るようにモニカの細剣をすり抜けてゆく。

 剣撃の合間に雷を放ってみても、まるで蝿でも追い払うかのように彼女が軽く手を払うだけで、ガラスが割れるような不快な音を響かせながら砕け散ってゆく。

 雷が砕け散るなど、意味の分からない事だとモニカ自身も思っている。しかし彼女には、目の前の現象はそうとしか表現できなかった。


 未だ唯の一撃も入れることが出来ずにあしらわれ続けるモニカだったが、この状況は決してモニカが弱い故に生み出されたものではない。

 自ら声高に主張することは無いが、モニカは自らの対人戦闘技術に自信があった。無論それはモニカの自惚れなどではなく、歴とした根拠あってのことだ。


 モニカはこれまで、軍属の現役感応する者リアクター達と何度も手合わせを行っている。本来であればそれは、未だ学生の身であるモニカが望んだところで叶わない事だ。しかしそれでも機会を与えてもらえたということは、それだけ彼女が期待されているということだろう。


 自分だけが特権を享受していることに負い目が無いわけでは無かったが、モニカとて遠慮しているほど余裕のある立場ではない。彼女の目標はたった7つしか席のない世界の頂点だ。或いは自分が8つ目の席を用意することになったとしても。いずれにせよ、彼女には力が必要だった。

 強くなるために利用できるものがあるならば貪欲に利用するべきだと考えたモニカは、そうして順調に経験を積んでいった。

 初めは負け続きであったその手合わせも、いつしか五分になり、近頃はA級以下の感応する者リアクターに対してならば殆ど負け無しになっていた。S級感応する者リアクターにはまだ勝ち越すことが出来ていないが、手合わせの内容自体は非常に高評価を得ている。何度か勝ったこともある程だ。


 つまり、モニカの対人技術は現役のS級感応する者リアクターからも認められる程のものなのだ。未だ学園生、それも二年生の少女が。当然学園では敵なし、一度だって負けたことは無い。


 そんなモニカの自信は今、ギリギリのラインを揺れていた。

 S級感応する者リアクターとは、殆ど最上位と言っても過言ではない実力の持ち主だ。そんな彼等に認められた自分の技術が、目の前の少女にはまるで届かない。

 それどころか───。


「・・・飽きてきたわね」


「っ!!」


 つい先程まで、どこか狂気に濡れたような瞳で自分を見ていたというのに。そんな禊の一言は、まるで手に入れた玩具が思っていたよりもつまらないものだったかのような、そんな冷たい声だった。


「貴女、対人戦闘に自信があったのでしょう?大方、軍人と試合でもしたのでしょうけれど・・・駄目ね」


「くっ・・・確かに貴女は強い。でもっ!」


「意気込みは十分だけれど、掠りもしない攻撃を五分も続けられては・・・ね。退屈にもなるわよ」


 禊の言葉に、モニカは反論が出来なかった。

 モニカはモニカなりに、今自分に出来る全てを出して戦っている。それは間違いない。しかし同時に、禊の言うこともまた事実であった。直截に言えば、このまま何分、何時間続けたところで、自分の剣が禊に届くとは思えなかった。そう思いながらも、藻掻くように必死に剣を振り続けている。


「対人戦に於いての最良は、初撃で敵を殺してしまうこと。何もさせずに、ただ倒したという結果だけが残ること。そしてそれが叶わなかった時、大切なのは手札の枚数よ。貴女にはそれが足りないわ」


「それは・・・どういう意味ですか」


「貴女は選択肢を自ら削ってしまっているのよ。あの人に通じたこの技は使える。あの人に通じなかったから、これは要らない。そうして選別し、残ったのが今貴女の持っている剣技。そしてそれ以外のものが、頭の中に選択肢として浮かんでこない。軍人とばかり試合をしていた弊害とも言えるけれど、勿体ないわね。一見使い道のなさそうな技術でも、持っていると存外役に立つことがあるのよ?」


 モニカには、禊の言葉に心当たりが無いわけではなかった。事実、似たようなことを試合の後に言われた事があった。『もっと選択肢を増やせ、決めきれなかった後のことを考えろ』と。


「ひとつ、面白いものを見せて上げるわ」


 そういった禊が、地面に落ちた小石を拾う。

 まだ戦闘が終わったわけではないというのに、しかしモニカはそんな禊の動きから目を離すことが出来なかった。

 ゆっくりとした動作で、禊が小石を上空へと投げる。それに釣られるように、モニカの視線も上空の石を追いかけた。

 瞬間、ぱちんという大きな音がモニカの耳に届いた。恐らくは禊が手を叩いたのだろう。びくり、と肩を震わせたモニカが音の出処へと目線を戻したとき、そこには禊の姿が無かった。


「・・・え?」


 有り得ない。

 モニカが禊から目を話したのはほんの一瞬だった。それどころか、注視こそしていなかったものの、視界の端には確かに禊が映っていた筈だ。それが、禊が手を叩いた途端、まるで煙のように消えてしまった。


 失敗した。そうモニカは歯噛みした。

 手札がどうだのという話をしていたことを考えれば、恐らく彼女は何か高速で移動する手段を持っていたのだろう。モニカは戦闘中に敵の言葉を真に受け、目を離してしまったことを後悔していた。


「くっ・・・一体何処に・・・」


 とはいえ、いくら高速で移動したとしても、今の一瞬ではそう遠くまでは行けない筈だ。そう考えたモニカは周囲を見回した。しかし禊の姿は見当たらない。もしや、と思い見上げた上空にも、その姿は無かった。


 モニカは知るよしも無かったが、それは傍から見れば異様な光景であった。会場で観戦していた者達も、今カメラの前で起こっているのが一体何なのか、まるで理解が出来なかった。音声も届いているとはいえ、流石に会話までは会場までは届かない。故に、突如慌てたように周囲を見回し始めたモニカと、その目の前でただ佇んでいるだけの禊の姿は、ただただ異様でしかなかった。


「ふふ。不思議でしょう?声は聞こえるのに、私の姿が何処にも見当たらない。ちなみにだけれど、私は今貴女の眼の前にいるのよ?」


 唐突に耳へ届いた禊の声に、モニカが再度肩を震わせた。

 声のする方へとすぐさま視線を向けるも、しかし禊の姿はそこにはなかった。


「盲点って、聞いたことがあるかしら?」


 モニカは禊の言葉に答えられない。

 それどころではなかった。声はすぐ近くから聞こえるというのに、その姿が全く見えない。そんな状況で、冷静で居られるはずもなかった。


「簡単に言えば、人間の眼には全く見えていない箇所が左右に一つずつあるのよ。それが盲点。普段は周囲の景色や直前の映像を元に脳が補完してくれているから気づかないだけ。視えていないのに、視えていることにしてくれている。結論から言えば、私は貴女の盲点に入ったのよ。だから貴女は私が見えない」


 何を言っているのだろうか?

 盲点?そのくらい私だって知っている。私の盲点を突いた?しかしそれは、人によって見えない場所も距離も、大きさも違う。そもそも今私は周囲を見渡した筈だ。見えない筈がない。


「人間の脳はとても優秀よ。けれど同時に、とても融通が利かない。一度『無い』と判断したものを、脳はなかなか認識してくれない。理解るかしら?今の貴女の眼には、ちゃんと私が映っているのよ。けれど私を一度『居ない』と判断してしまった脳が、視覚から送られてきた情報を認識してくれない。私はそこに居ないと、そう思い込んでしまっている」


「そんな馬鹿なこと、ある筈が・・・」


「例えば、こんな話は聞いたことがあるかしら?『眼鏡を失くしたと思って必死に探したら、実はずっと眼鏡をかけていた』。或いは、『ペンが無いと思って机の上を必死に探したけれど、実はずっと右手に持っていた』。今の貴女は、それらをもっと酷くした状態よ。ふふっ、思い込みって怖いわよね?」


 言っている意味は理解出来る。

 しかし、俄には信じられない話だった。


「瞳孔の動きや開き。視線の動きや、無意識のうちに避けてしまっている目線。そういった小さな情報を集めることで、相手の盲点の大凡の場所は理解るわ。そして貴女は小石に気を取られ、次に私が手を鳴らした場所を注視した。視線をそこへ誘導され、固定された。そうすればあとは、割り出した貴女の盲点に入り込むだけよ」


「そんなこと、人間に、出来るはずが、ありません・・・ッ」


「ふふっ。どう?不思議な感覚でしょう?とても気持ちが悪い筈よ」


 モニカの思考は、既に意味を為していなかった。

 様々な感情や考えが頭の中に浮かび、形を為さないそれがぐるぐると周り続けている。まるで高熱を出して寝込んでいるときのような、最悪の気分だった。

 口元に手をやり、こみ上げる吐き気に耐え続けるモニカ。そんな彼女のもとへと、ゆっくりと禊が歩み寄る。


「ばぁ」


「ひッ!!!」


 禊の声が耳元で聞こえた瞬間、モニカの目の前には、まるで悪戯を成功させた子供のような顔をした禊が立っていた。目を見開いたモニカが瞬発し、大げさに飛び退って禊から距離を取る。もはやモニカには、目の前の少女が先程までのそれとは全く違うモノに見えていた。心臓の音が妙に煩く、絶えずモニカの耳を叩いていた。


「────ぷはっ!!はぁッ!はぁッ!」


「ふふふっ。お帰り。今のが『うつろ』という技術よ。満足してもらえたかしら?」


 ここに来て、モニカの自信などというものはすっかり何処かへ消えてしまっていた。これが技術だと、そう言うのか。到底人間業とは思えないこれが、私に必要なものだとでもいうのか。そんなモニカの疑問は声にならず、ただ禊をじっと睨みつける事しか出来なかった。


「それなりに難しい技術の割に、『虚』は境界鬼テルミナリアには通用しないわ。人間とは作りも在り方も異なる存在だもの。人間に使ったところで、解除方法を知っていれば何の役にも立たない代物よ。総じて悪戯か、ちょっとした手品のようなものね。けれど今、貴女はこんなにも動揺している。息を切らせて、言葉も出ない程に。私の言いたいこと、伝わっているかしら?」


「・・・無駄な技術は無い、ということですか?」


「そういうことよ。ちゃんと伝わっているみたいで何よりね」


 モニカは思い知らされていた。自らの目指す、その頂きの高さを。

 モニカは決して舞い上がっていた訳では無い。増長していたわけでもない。自ら天才だと吹聴して周った訳でもない。むしろ自分はまだまだだと、上には上がいると自らに言い聞かせてここまでやって来た。


 しかしこれは。

 目の前のこの少女は。


 十分に理解しているつもりだった、七人の『化け物』。しかし天枷禊という少女は、その『化け物』の中でも異質であると、モニカは身をもって体験した。

 今体験したこれは感応する者リアクターとしての力ではない。『災禍の緋』としてではなく『天枷禊』としての、その人間離れした技術によるものだ。他の六人が同じことを出来るかと言えば、恐らく不可能だ。


 そんなたった一つの、しかし馬鹿げた技術を見せられただけで、モニカはすっかり憔悴し、精神的にも、肉体的にも、傍から見ても一目で分かる程に大きく消耗していた。


 そんな時、禊のイヤホンへと通信が届いた。

 戦慄し、息も絶え絶えに膝をつくモニカを尻目に、まるで世間話でもするかのような気楽さで誰かと話を始める禊。


「───ええ。理解ったわ。こちらも終わったところよ。あとは任せるわ」


 通信を終えた禊はゆっくりと振り返り、モニカへと向き直る。


「どうやらこちらの迷惑な姉妹と愉快なお仲間達が、そちらの本陣に攻撃を始めたそうよ。そういうわけだから、貴女にもここで離脱リタイアしてもらうわ」


 事実上の勝利宣言。モニカからすれば敗北が決定した瞬間だ。

 もはやモニカには、立つ気力すら残っていなかった。


「・・・一つだけ、聞かせてもらっても?」


「何かしら?時間もないし、手短にお願いするわ」


「・・・私は、いつか貴女の元まで辿り着けるでしょうか」


「・・・知らないわ、そんなこと。けれどまぁ、そうね───」


 モニカの額に、禊がそっと指を添える。


「───諦めない限り、無駄な事なんて無いんじゃないかしら?」


 その言葉を聞いた瞬間、モニカの意識は急速に沈んでいった。

 薄れゆく意識の中、モニカの頭の中では繰り返し、反芻するようにその禊の声が響いていた。


(───高いなぁ)




 殲滅戦決勝、日本対アメリカ。

 この試合は、日本チームによるアメリカ本陣の制圧によって幕を閉じた。

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