フェルダン《ある男》

 フェルダン・ステアビルドが生まれたときから、天使はそこにいた。先祖の描いた美しい肖像画、曽祖父が着手して途中になっている橄欖かんらん岩の階段があった。父は仕事の合間に階段を掘り、母は家を支えるために名家の掃除婦として働いていた。三兄弟の末っ子に生まれたフェルダン・ステアビルドは、天使の聞かせる物語を聞いて育った。それは売られている本であることもあったし、天使が自ら作ったおとぎ話であるときもあった。ごくたまに、天使は自分のことを語った。フェルダンは幼いながらも、それが天使自身の話であることを聡く見抜いていた。


――昔々あるところに、生意気な天使がおりました。生意気な天使は、神様にいたずらしたり、女神さまのドレープドレスを捲ったりしていました。天使は自分の美しさが、大抵のものごとを許すに値する、特別なものだとしっていたからです……。


 フェルダン・ステアビルドの中で、美しいと言えばこの天使だった。兄と姉がどう思っていたかは知らないが、フェルダンの心を占めるのは、こうやって物語を諳んじる天使の声音ににじむさみしさだった。


――けれど天使は、とうとう神様を怒らせてしまいました。たった一つしかない運命の木の実を、天使がむしゃむしゃと食べてしまったからです。神様はこう仰いました。「お前は死なず、老いず、その美しいまま地上の塵になってしまえ。翼は落ち、地面に足を着けて汚れて生きるがいい」

 天使は、そうやって地上に落ちてきました。落ちた後で、大変悲しくなりました……空が恋しい。あの青い空が恋しい。仲間と遊び、鳥と戯れたあの時間が恋しい。天使は後悔しました。今も、後悔しています。


 フェルダンはそのくだりになると必ず、天使の膝の上に載せられたまま、天使の腕をぎゅうと抱きしめた。力いっぱい抱きしめた。それで天使の抱えているさみしさが薄れていけばいいと思ったからだ。幼子の無垢なやさしさには、天使も優しかった。

「フェルダンは、やさしいね。いい子だね」

 天使はそのたびに、フェルダンの小さなつむじにキスをした。フェルダンはそうやって育ったから――フェルダンが年頃になっても、どれほど仲良しの女の子がかわいらしくとも、必ず天使のあの美しい笑顔が蘇ってきて、を何回も逃した。そうしてから、フェルダンはようやく気付いた。


 天使のことを愛している。


 フェルダンは告げた。十六歳になった夜のことである。

「気づいたら、きみのことばかり考えてる」

 天使は忙しい母の代わりに皿を洗っていた。その手が一瞬だけ止まったのを、フェルダンは見逃さなかった。


「……気のせい」「じゃない」


 天使の言葉に被せるように、フェルダンは言い募った。「気のせいじゃないことくらい、きみだってわかってるだろ!」

 フェルダンは感づいていた。兄や姉以上に、自分を何か特別に大事にしている天使のまなざしやしぐさのことを。そして、天使の抱えている寂しさが、何か別のものに代わっていることすら――、


 天使は緑の目に涙をためて振り向いた。泡だらけの手から水が滴った。

「だって、二度と空に帰れなくなる!」


 フェルダンは目を見開いた。あの天使が、「空に帰りたい」以外の理由で泣くなんて、思ってもいなかったからだ。

「神様は仰った。お前は人間になるのだ。人間の異物として生きていくのだ。お前はいずれ人間を愛するようになる。人間と。そして人間のように死ぬ、と」

「……そんな」

「空に帰りたい」

 天使は手をわななかせ、しゃがみ込んだ。

「空に帰りたいのに……きみがいとしい。わたしはきみという人間を愛して……」

「…………、」

「愛してしまったんだと思う……気を付けていたのに。あんなに気を付けていたのに」

 フェルダンは何も言えずに、ゆっくりと美しい天使を抱きすくめた。天使は泣きじゃくった。フェルダンより小さな体は、小刻みに震え、空気を求めて喘いだ。

「どうしよう、どうしよう……どうしよう」

「いいよ。空に帰ろう、安心して。」


 フェルダンは天使の耳もとで囁いた。


「             」




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