マリオット《ある男》

 マリオットはいろいろな意味で有名な男であった。足の弱い父親がこの世を去ってからはもっと有名になった。母譲りの甘く整った顔立ちで、羽振りもよく、人のたらし方がいやにうまい。男だろうが女だろうがマリオットの魅力の前に落ちない者はなかった。マリオットの手にかかれば、性別問わずその日の晩に宿屋に入ってそのままベッド・インだ。だから、貞潔を何よりも信条とする者たちは、「あのマリオットにだけは騙されるな」と娘や息子に繰り返し言い聞かせたという。


 そんなマリオットが終生落とせなかった相手がいる。

 それが、天使である。

 マリオットは恋を売り愛を撒くような生活をしていたけれども、実際のところ惚れた相手は一人しかいなかった。画師であった祖父の遺した最晩年作、クヴェルの「天使エンジェル」を見たその瞬間、マリオットのさだめは決まったも同然だった。その巻き毛、その瞳、その肌、その涙に、マリオットは恋した。天使を慰め天使を抱きたいとすら思った。しかしその劣情をひた隠し、マリオットはずいぶん前から家に住んでいる天使をかいがいしく世話した。

 天使の翼はすでに落ち、ハの字型の傷あとが古く残っているのみである。天使は巻き毛を伸ばして、質素なヘアアクセサリーで括り、地面を歩いて生活していた。


「君が好きだよ」

 思い立ってマリオットは口にした。普段男や女を口説き落とす、あまやかな響きで。うまい酒とうまい肴、そして互いの顔を見つめあっているという、これ以上ない状況シチュエーションで。

「天使。君が好きだ」

「うそつき」

 天使はすげなく言い返した。

「きみが好きなのはわたしではない。わたしの肉体だ」

 マリオットは何も言えなかった。マリオットを突き動かすのは天使の容姿、そしてその美をへの性欲、それのみだったからだ。

「……どうしたら信じてくれる?」

「きみが、本当にわたしを好きだと証明してくれるのなら、……クヴェルの階段の続きをつくってくれないか」

「爺さんの?」

「そう。……わたしは、空に帰りたい」


 質素なシャツの隙間から覗く真っ白い肌を見つめて、マリオットは頷いた。

「わかった」

 マリオットは祖父のアトリエに立ち入り、古いのみたがねを持ち出した。そして、途絶した祖父の階段の続きを掘り始める。マリオットの頭にあるのはそれでも、美しい天使の裸体だった。起伏のない少年のような体。それなのに肉付き良く、柔らかそうな肌。あれを組み敷いて、好きにすることだけを考えた。

 いつか天使を抱く。

 その一念のみで、マリオットは掘った。祖父の遺した設計図の通り、一段、また一段、もう一段、さらに、さらに、…………。そうして。

 ついに天使の肌に触れることがないまま、彼はこの世を去ることになる。二十七で階段づくりに着手したマリオットが掘り進めた階段の数は、およそ数千段。マリオットの、天使の肉体への執念がうかがえる。


 マリオットには決まった恋人はいなかったが、多数の息子や娘がいた。それまでのふるまいを考えれば当然のこと……マリオットの息子や娘たちは、死に物狂いで階段を掘り進める父親の背中をどう見ていただろう。

 献身的と思っただろうか。あるいは。



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