クヴェル《ある男》

 クヴェルは画師えしであった。しかも売れない画師だった。そのくせ描きたいものに対する偏りの著しいことこの上なく、自分が「美しい」と思ったしか描きたがらない。評価もされぬまま、自己満足ばかり重ねて金の足しにもならない絵ばかり描いている夫を見放した妻は、新しい恋人を連れて出ていってしまった。残されたのは、片足を引きずっている年頃の息子のみであった。

 そんなクヴェルの前に、天使が降り立ったのは、クヴェルが齢四十を回った頃合いだ。

 天使には性別がなかった。どちらも持ち合わせていると言えたし、どちらも持っていないともいえた。しかも、とびきり美しかった。未だ性的に熟れぬみずみずしさと、ある種の美の成熟を兼ね備えた天使に、クヴェルは骨抜きにされてしまった。くるくるとした金色の巻き毛といい、朝露に濡れた若葉のような緑色の瞳といい、彫像がそのまま動き出したかのような白い肌といい。美しい天使は、クヴェルの画師としての心を掻き立ててやまなかった。

 クヴェルはすぐさま天使をモデルに絵を描きはじめた。が、上手くいかない。こんなことは、クヴェルの人生のなかで初めてだった。絵の中の天使は、本物の天使に及びもつかない。天使の美しさを表現するすべを、クヴェルは持っていなかったのだ。クヴェルは、燃えた。


「君を描きたい、描かせてほしい。一生をかかっても描き遂げたい」

 

 クヴェルは粘り強く天使を描こうとした。時には自分の美学を捨てて、息子と天使を養うために働き、絵を売った。天使に精いっぱいのもてなしをした。しかし天使はしばしば涙を流してこう告げた。

「空へ帰りたい」

 天使の翼は萎えていた。クヴェルの息子の片足がそうであるように、天使の翼はもげ落ちる寸前まで腐ってしまっていた。天使は自分を天使たらしめるしるしを失いつつあった。

「もうわたしは空を飛ぶことができません。でも空に帰りたい」

 帰りたい、帰りたい、帰りたい。

 そうやって体を丸め、涙を流し、腐臭のする翼をぶら下げている天使を見て、クヴェルは哀れに思った。そして、天まで続く橄欖かんらん岩の石柱を眺めては、天使がいたという天上の世界に思いを馳せた。そしてふと、ひらめいた。


「あの石柱に階段を彫り込んでいったら、いずれは空にたどり着くのではないだろうか」


 橄欖岩がいつからあるのかをクヴェルは知らない。気づいたらそこに在り、気づいたら定着していたある種「風景」のようなものだった。そこに何かを彫り込むということは、並大抵のことではない。しかし、クヴェルに思いつく空への手段などそれしかなかったのだ。

 現に、住民たちは反対した。天に続くこのあらたかな石柱に階段など彫り込んでみろ、ばちがあたる。ふざけるな、画師は絵だけ描いていろ。

 いしつぶてのごとく降り注ぐ怒号を背に、クヴェルは最初の一段を切り出した。絵筆を捨て、のみたがねを握る。頭にあるのは、「空へ帰りたい」と泣きじゃくる美しい横顔だけだった。

 片足を引きずっている息子は、そんな父の老いた姿を、じいっと見つめていた。じいっと。




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