第2章 第1話
その翌日、小さな緑の館は、ちょっとした騒ぎになっていた。
黄色い花だけを集めた、大きな花束が朝一番に届いたのだ。
侍女たちが居間の壁際にそれを飾っている。
「まぁ、これは誰から?」
「ノアさまからでございます」
「……。そう」
なんだ……って、思っちゃいけないのよね。
彼はとても体面を気にする……、いえ、気にしなければならない人だから、よほど昨日の私の振る舞いが、気に入らなかったのだろう。
じゃないとパーティー会場で、あんなにはしゃぐ必要はなかったし、こんな花束だって、今まで贈られたこともない。
よほどあのプロポーズを受けたことが、気に障ったんだ。
昨日のノアを思い出す。
私は彼を、怒らせてしまった。
「退屈な花ね。これじゃ押し花には向かないわ」
「ですが、見事に咲いております」
「アカデミーへ行く準備をするから、手伝ってちょうだい」
気が重い。
ノアと顔を合わせたら、なんて言われるだろう。
一番に謝る?
お花のお礼は、やっぱり言わなきゃダメ?
「行ってきます」
小さな馬車に乗り込む。
本当はアカデミーだって、あまり行きたくないけれど、他に行く所もない。
私に許されているのは、この広い王宮の片隅にある館から、お城のアカデミーの間を行き来することだけだ。
馬車に揺られるわずかな時間で、気持ちを立て直す。
負けちゃダメ。
泣いていいのは、あの小さな緑の館の、自分の部屋のベッドで一人になった時だけだ。
いつものように、裏口の馬車寄せから城に入った。
豪華な装飾に囲まれた城内をゆっくりと歩く。
ふかふかの赤い絨毯が敷き詰められた石造りの廊下から、扉のない広間に入った。
様々な形のテーブルに、ソファや椅子がいくつも並ぶそこは、誰もが自由に出入りすることが許されている、王宮で唯一の場所だ。
私が腰を下ろすと、早速エミリーがやって来る。
「今朝の新聞、見たわよ~。ほら、持って来ちゃった」
私は扇を広げ、見ていないフリをしながら、それを見る。
「結構大きく載ってたよー」
アーチュウ選手とノアと、私のことが書かれた記事だ。
その様子を絵にしたものも、載せられていた。
そういえば私は、彼のことを何も知らない。
「恥ずかしいから、そんなの見せないでよ」
とか言いながらも、本当は気になって仕方がない。
チラチラとその記事を横目で盗み見る。
「アデルが帰ったあと、ノアは大変だったんだから」
「どうして?」
私は懸命に、記事の文章を目で追っている。
今朝の新聞かな。
うちでちゃんと読んでおけばよかった。
「アデルと出て行ってから、また着替えて再登場したんだけど、もうずっと元気がなかったのよ。ため息ついたりイライラしたり……」
ポールとシモンもやって来る。
「ノアもいつもなら、それなりにパーティーを楽しんでるのにな」
「機嫌悪かったよ。まぁ、他の人たちには、いつも通りに見えたかもしれないけどね」
なんだ。アーチュウ選手は既婚者なのか。
だったら本当に、アレは冗談だったんだ。
そんなことでノアを怒らせて、バカみたい。
「アデルがいるときは、どんな時も大体上機嫌なのにな」
「途中で帰ったからじゃない?」
「帰ったのか、帰したのか……」
ふと気づけば、三人の視線が私に集まっている。
「べ、別に! アーチュウ選手のプロポーズは、冗談だって分かってるわよ。やだ。私があんなプロポーズに、そんな本気になるなんて、あるわけないじゃない」
「アデルは気にならないの?」
「ならない!」
「そっか」
エミリーの手が、私の手に重なった。
「アデルには、好きな人はいないの?」
「好きな人だなんて、作ってどうするの?」
恋だなんて、私には無縁だ。
この広いアカデミーサロンに集まった男女を見渡す。
「いずれみんな、親の決めた相手と結婚するのよ。そんなこと、考えるだけ無駄じゃない。私はそれが早かったから、余計な気を回さなくて済んだけど」
立ち上がる。
恥ずかしい。
生まれて初めての、この先は一生、きっと二度とされることもないプロポーズに、調子に乗った自分が笑われているみたいだ。
「恋愛なんて、くだらないわ。そんなお話しに興味はないの。ごめんなさいね」
逃げるように、バルコニーへ滑り出る。
自分には全く無縁のことに、どうして悩む必要があるの?
この国で誰かに恋をするなんて、そんなことはありえない。
形式的な婚約とはいえ、自分にはもう決まった相手がいる。
その人に嫌われないようにしているだけだ。
だってそうしていなければ、今ここにだって私の居場所はない。
ここから眺めることの出来る景色は、どこまでも広大な王宮の中にある、高い塀に囲まれた庭園で、細部まで決して手を抜くことなく整備されている、作られた場所だ。
不意に、サロンがざわつき始めた。
振り返ると、黒く短い上着に銀の刺繍を凝らした男性がこちらに向かってくる。
「フィルマンさま!」
「やあ。たまには可愛い弟の、婚約者さまの様子でも見に来ようかと思ってね」
くるくると巻いたクセのある黒髪の下の、黒い目がニッと微笑む。
「こんなところにいらっしゃるなんて、珍しいですね。どうされたのですか?」
フィルマンさまは、ノアの一つ上の兄だ。
この国の第二王子。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます