第4話

「頬に髪がかかってるよ」



「もう1曲踊りたいな。ねぇ、ダメ?」



 挨拶に訪れる方たちが現れるたびに、腰に回した手で体を引き寄せ、頬に触れ、額と髪とこめかみにキスをする。



「僕の大事なアデルだからね、これからもよろしく頼むよ」



 延々と続くこの状況に、さすがの私も笑顔が引きつってきた。



こっそり抗議の視線をぶつけても、今日のノアには全く効果がない。



「あ、あそこに君の好きなケーキがある。持って来てあげるよ」



 ようやく体が離れた。



ノアは皿の上のケーキをフォークで切り分けると、それを私に差し出す。



「はい。あーん」



 なんだかもう色々、恥ずかしいを通りこして諦めた。



周囲はもうとっくに見飽きたようで、気にしてもいないみたいだ。



仕方なく口を開けたら、そこにケーキがねじ込まれる。



チョコレートの甘さが口いっぱいに広がった。



「これ食べたら、帰るからね」



「どうしたのアデル。もう疲れたのかい? なんならそこのテラスに座って、お茶にしようか」



 まだケーキを食べさせようとするノアに、私はグッと頬を寄せた。



「か、え、る、か、ら!」



「あぁ、分かったよ。つれないなぁ~」



 そう言いながらも、やっぱりフォークに突き刺したケーキを差し出す。



こうなったらもう、ヤケクソだ。



私は誰もが見ている前で、平然とそれを平らげた。



「まぁ、おいしい。私にはもう、十分すぎますわ」



「まだまだだよ、アデル。せっかくの機会なんだ。君はめったにこういうところには顔を出さないじゃないか。もっと楽しんで行こうよ」



「ですが、私のような者は、ここでは場違いですので……」



 そんなこと、この毎年開かれてる馬術大会にしたって、私の参加をノアが許可出さないだけじゃない。



まぁ、私もあんまり出たくないから、そこは助かってるけど!



「またそんなことを言う。本当に君はしょうがないな」



 だけど今日はもう、これ以上我慢出来ない。



私はノアの腕に自ら腕を絡めると、彼を引っ張りあくまでさりげなく、入ってきた扉に近寄る。



控えの役に合図を出した。



「アデルさま、ご退出にございます」



 その言葉に、会場にいる全員が振り返り、拍手が起こった。



私たちは並んで挨拶をすると、ようやく扉が開かれる。



そこを通り抜け、再び閉じられた瞬間、私は彼からパッと離れた。



「ねぇ、これでもう大丈夫? アーチュウ選手や、オスカー卿の迷惑にはならない?」



 何となく、ノアと体を密着させていた部分のドレスを整える。



自分で蒔いたタネとはいえ、ノアも酷い。やりすぎ。



「……。うん。上出来だよ、アデル」



「そう。ならよかった」



 彼からの言葉に、ほっと胸をなで下ろす。



ノアとは、いつもやっていることとはいえ、今日は妙に恥ずかしい。



ヘンじゃなかった? ちゃんと出来てた? 



正装したアーチュウ選手から受けた、キスを思い出す。



その手をぎゅっと自分の胸に抱き寄せた。



ノアはそんな私をじっと見ている。



「ねぇアデル。僕にもう、こんなことをさせないでくれ」



 さっきまではしゃいでいた彼が、一変してその声のトーンを落としている。



「わ、悪かったわ。ごめんなさい」



 やっぱり怒ってるんだ。



私の対応が気にくわなかったのね。



彼の機嫌を損ねてはいけない。



慌ててその手を後ろに隠した。



「もう、あんなことされても、軽々しく受け取ったりなんかしない。次からはちゃんと、キッパリ断るね」



 それでもまだ、ノアは沈んだままだ。



「ご、ごめんなさい」



「……。アデルは、今日は楽しかった?」



「え? なにが?」



「今日の……、おでかけは」



「え、えぇ。それなりに、楽しかったよ」



 また顔が赤くなる。



今日の私は、本当におかしくなったみたいだ。



表情に出してはいけないのに、ノアの前なのに、あの花はまだしおれずに咲いているかしら。



「アデル」



 ノアが近づく。



頬に伸ばされた手に、私はハッとして触れられる前に顔を上げた。



「ごめんなさい。ノアにはノアの立場があって、そうしなきゃいけないって、分かってるの。ごめんなさい。私が変なことしたから……」



 だけどあの花は、どうしても受け取っておきたかったの。



「……。いや、そんなことは、どうだっていいんだ。今日は僕が……」



「ノ、ノアだって! べ、別にやりたくてこんなことをやってるワケじゃないし。これも全て誰かのため、ううん。私の立場を守るためなのよね。い、いつも気にかけてくれて、あ、ありがとう」



 ノアの手が私のこめかみにそっと触れ、赤茶色の髪をかき上げた。



そんな彼に、慌ててにっこりと最上級の笑顔を向ける。



これが私に出来る精一杯の償いだ。



「私、ちゃんとあなたの望むような、婚約者やれてた?」



「うん。バッチリ。とても上手だったよ」



「ホントに? 平気?」



「うん。いつもありがとう。僕も助かってるよ」



 もう帰らないと。



二人きりになることを、極力禁止されている。



これ以上遅くなっては、私もノアも叱られてしまう。



だけどそれ以上に、今は彼と二人きりでいることが気まずい。



「じゃあ、もう行くね」



「気をつけて」



「ノアはこれからまた、パーティー会場に戻るんでしょう?」



「僕も、そうしなきゃならないからね」



「そっか」



 迎えの馬車まで、彼は見送ってくれた。



「じゃあね」



 互いに手を振って別れる。



ようやく一人になった馬車の中で、私の胸はまだドキドキしていた。



ノアが今日はちょっと怖くて、変だったこと。



アーチュウ選手から渡された花が、とても可憐で美しかったこと。



 オスカー卿のお城を出て、王宮へ向かう帰路へつく。



この馬車に乗っている間だけは、私の時間だ。



遠く広がる草原に見える馬場に、つい目がいってしまう。



だけどそれもすぐ建物に遮られ、見えなくなってしまった。



夢から覚めたみたいだ。



さっきまであれほど賑やかだった馬場に、今はもう誰もいない。



空っぽだ。



車窓の風景は、賑やかな街並みから静かな王宮の庭へと変わる。



館に着いた私を待っていたのは、セリーヌだった。



「アデルさま! 何という失態をしでかしたのですか!」



「なぁに? ノアのこと?」



 馬車を降りるなり、やっぱり叱られる。



「ノアさまのこともそう! 騎手のこともそうです!」



「いいじゃないの。もう冗談ってことに、なってるんだもの」



 私は他の侍女たちに手伝ってもらいながら、服を着替える。



「そもそも、あなたはこの国の人間ではないのですよ」



「えぇ、分かってるわ」



 また始まった。



ここへ来た10歳の時から、延々と聞かされているセリーヌのお説教だ。



「あなたの役目は、この国の貴族たちに決して負けない知識と教養を身につけ、自分たちの誇りと尊厳を守ることです。それが何ですか? 婚約者のいる身でありながら、他の男性からのプロポーズを受けるなど!」



 ようやくコルセットが外れた。



あまりの出来事に、今日はずっと緊張していたのかもしれない。



すぐさまソファに寝転がる。



「大丈夫よ。ノアとはつかず離れず、上手くやってるわ」



「……。後々、辛い思いをするのは、他でもないあなたなのですよ、アデルさま。お気を強く、しっかりと持ち、流されてはいけません。決して気を許してはダメなんです」



「そうね、ありがとうセリーヌ。あなたにはいつも感謝しているわ」



 私が両腕を広げると、彼女は諦めたようにため息をついてから、ハグに応えた。



私は彼女の、年老いた小さな体を抱きしめる。



私がここでなんとか留まっていられるのも、セリーヌがいてくれたおかげだ。



「ね、いただいたお花はどこ?」



 人知れず、野に咲いていた黄色い花は、小さなガラス瓶に生けられていた。



「押し花にしてもいいかしら。素敵なお花ですもの。見たことのない花だわ」



「野草の花ですからね。この王宮では、決して咲かない花です」



「すぐに抜かれて捨てられるから? 花の咲く前に?」



「そうでしょうね」



「ね、やっぱり押し花にしましょう。しおりがいいわ。いいでしょう? セリーヌ」



「……。お好きになさってください」



 侍女たちが、重しとなる本を集めてくれた。



紙の上に、丁寧にその花びらを広げる。



「私のことを、好きだって言ってくれた、初めての方から頂いたお花なのよ」



「……。それは、よろしゅうございましたね」



 何重にも重ねた紙の上から、本を重ねてゆく。



「この重しの下で、きれいな花として残るのね」



「放っておいてはいけません。それなりのお世話が必要です」



「それは任せて。そういうの、実は結構得意なの」



 お茶が運ばれてくる。



私は花の上に積み重なった重しを見ながら、静かに微笑んだ。

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