第3話

「いくらなんでも、酷いだろう。無礼にもほどがある。いくら人気騎手とはいえ、やっていいことと悪いことがあるじゃないか」



「私は気にしてないです」



「だから君が今日、出席するかどうかを確認しに行ったんだ。あの男が君のファンだって聞いたから。まさかこんなことをするなんて……」



 だって、冗談だもの。



たとえ冗談のプロポーズだとしても、私にはきっと二度とされることはない、初めての思い出なのに……。



まだ胸がドキドキしている。



彼のひざまずく姿が、まぶたの裏から離れない。



「その花は捨てないの?」



「せっかくだもの」



「どうして」



「どうしてって……」



 ノアは珍しく、怒っているようだった。



「……。君が、こういう黄色い花が好きだったとは、知らなかった」



「ねぇ、何を怒ってるの?」



「もう帰るのか」



 馬車は目の前だ。



これに乗ってしまえば、私はそのまま、王宮の隅の小さな緑の館へ戻れる。



「帰るわよ。だって、もうここにいる意味はないもの」



 華やかなパーティーなんて、この国の貴族社会に縁のない私には、ストレスでしかない。



「私にプロポーズしてくれた、アーチュウ選手も来るのでしょう? だったら余計に、顔を合わせづらいし」



「どうして? どうしてそんなふうに君が思うんだ」



「だって、単純に恥ずかしいじゃない」



「恥ずかしい? どうして?」



「私にだって、恥じらいくらいあります」



 どんな顔をして、彼と向き合っていいのかなんて分からない。



会ったところで、何の話しをするの? 



戸惑いの気持ちを裏に隠して、澄ました顔して社交辞令を並び立てるなんて、これ以上やるのは、ホント無理。



「じゃ。さようなら」



 馬車へ乗り込もうとした私の腕を、ノアはもう一度強く掴んだ。



「やっぱりダメだ。このまま君が帰ってしまったら、彼が批判を受けることになる」



「どうしてよ。私とあなたがOKなら、それで問題ないじゃない」



「ぼ、僕に……じゃなくて、オスカー卿に恥をかかせた!」



「そんなことないって。誰も誤解なんてしないわ」



「ダメだよ。これは君が考えているよりも、もっとずっと大変なことなんだ」



 彼は強引に私の手を引くと、オスカー卿の城内に向かって歩き始めた。



「ちょ、どこに行くの!」



「君と一緒にパーティーに出席する。そうじゃないと、僕の気が済まない」



 廊下を突き進む。



庭を挟んだ回廊の向こうに、パーティー会場が見えた。



出席している女性たちはみんな、華やかなドレスに身を包んでいる。



「待って。私は野外用のドレスよ。ノアは乗馬服のままでいいかもしれないけど、このドレスで出席するわけにはいかないわ」



「着替えなんて、ここに持ってきてないだろう?」



「当然よ」



「なら、そのままでいい」



 扉の前まで来た。



会場は目の前だ。



これが開けば、もうノアと口げんかなんて出来ない。



それを知っているノアは、グッと私を引き寄せる。



「ほら。これは……。大切なお仕事だから。アデル。みんなの前だ。ちゃんと婚約者をやってくれ」



「……。これは、アーチュウ選手と、オスカー卿のためなのね」



「そうだ。すぐに終わらせる。だから少しの間だけでいい。僕に付き合ってくれ」



 その彼の言葉に、私は自分自身に魔法をかける。



「分かった。ノアがそう言うなら、そうする」



 扉が開いた。



予定外の私の登場に、会場全体がどよめく。



ノアは優雅な笑みを浮かべ、手を差し伸べる。



私たちは微笑みあい、互いの手を重ねた。



「さぁ、アデル。足元に気をつけて」



 ノアのエスコートで、階段を下りる。



その注目を、私たちは一身に浴びていた。



彼は耳元でささやく。



「せっかくの君の登場なんだ。思う存分、見せつけたい」



 広間の中央に連れ出すと、すぐに彼は私にひざまずく。



左手を胸に当て、右手を差し出した。



プロポーズの仕草だ。



周囲からドッと笑いが巻き起こる。



私はノアのその手に、自分の手を重ねた。



音楽が始まる。



それに合わせて、私たちはくるくると踊り出す。



「あぁ、よかった。アデルは僕からのプロポーズを受けてくれたんだね」



「当然ですわ、ノアさま。どうして私があなたからの申し込みを、断ることがあるのでしょう」



 ノアの唇が、私のこめかみにキスをした。



腰に回した手を、さらに引き寄せる。



「よかった。君に断られたら、どうしようかと思った」



 くるくると回るダンスホール。



みんながこっちを見ている。



会場にいたアーチュウ選手と目が合い、思わす視線をそらす。



「ここにいる誰よりも、君を愛しているよ。アデル」



 もう1曲、さらにもう1曲。



ノアはダンスの間中、ぴったりと体を寄せ、甘い言葉をささやき、絶え間なくキスをする。



「僕にとって、君がこの世で一番だ」



 会場には、エミリーもポールもシモンも、リディもコリンヌも他のアカデミーのみんなもいるのに……。



「ねぇ、ちょっとやりすぎ」



「しょうがないじゃないか。僕にこんなことをさせているのは、プロポーズを受けた君なんだから」



 そう言って、また頬にキスをする。



「どうしたのアデル。今日はなんでそんなに恥ずかしいの? いつだってこうしてるじゃないか」



 意地悪なそのセリフに、こっそり肘打ちを入れた。



「ウッ!」



 ノアの顔は痛みに一瞬歪んだけど、私はプイと横を向いて知らんぷりだ。



そんなこと、気にしてあげないんだから。



結局そのまま3曲を踊り、ようやくダンスが終わる。



「もう疲れたわ」



 帰りたい。



花をくれたアーチュウ選手の日に焼けた精悍な姿が、どうしても気にかかる。



つい目が彼を探してしまう。



ノアはしっかりと私をエスコートしたまま、皿に積まれたイチゴを手に取った。



「はい。どこ見てんの。こっち向いて。あーん」



「ちょっと!」



 周囲には分からないよう、ノアの胸を押しのける。



いつでもどこでも、私たちは注目されてるってこと、本気で忘れてない?



「ほら、早く。アデルはイチゴ好きでしょ」



「好きだけど、これは違う!」



「違わないよ。君は僕の手からは、食べられないっていうの」



 彼の顔は寂しそうにうつむく。



さっきの仕返しだ。



その表情に、仕方なく口をあけた。



ノアはイチゴを食べさせると、もぐもぐとほおばる私を見つめ、満足そうににっこりとうなずいた。



「ね、僕にも食べさせて」



 は? 冗談じゃない。



周りがみんな、クスクスと笑っているのが分からないの?



「早くしてくれないと、僕がまた食べさせるよ」



 そう言って私を抱き寄せ、またイチゴを手に取る。



「ま、待って待って! 分かったから……」



 と、アーチュウ選手が近づいてきた。



さっきまでの乗馬服から一転、華やかなパーティー用の衣装に着替えている。



「これはこれは、聞きしにまさる仲のよさでございますね。先ほどは大変失礼をいたしました」



「いえ、いいのですよ。僕のアデルが可愛すぎるのがいけない」



 ノアはアーチュウ選手に、にっこりと微笑んだ。



「僕の婚約者が、黄色い花を好きだったなんて、知らなかったよ。君のおかげでそれを知れて、感謝している」



「きょ、恐縮です」



「これから僕は毎日、彼女に黄色い花束を贈ることにしたよ」



「まぁ、それこそ冗談が過ぎますわ。ノアさま」



「はは。ほら、仲直りの印に、アデルの手にキスを」



 ノアに促され、彼は片膝をついた。



私は言われるまま手を差し出す。



アーチュウ選手はそこへそっと唇を寄せた。



その感触にまた胸がざわめく。



きっと今の私は、普段ではありえないくらい真っ赤な顔をしているはずだ。



「い、いい記念になりました。……。ありがとう」



 ようやくそんな言葉を絞り出す。



ノアと彼が固い握手を交わしているのを見ていながら、私は動けない。



アーチュウ選手は私を振り返った。



「それではアデルさま。失礼します」



「え、えぇ……。ありがとう。お元気で」



 恥ずかしい。



帰りたい。



これでもう彼とは、絶対に会うこともない。



去って行くその背中を、つい視線で追ってしまう。



「ね、アデル。喉は渇いてない? 大丈夫?」



 ノアはそんな私を、くるりと一回転させた。



禊が終わり、アーチュウ選手が礼をして離れていった後でも、ノアの猛攻は終わらない。

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