第2話
その日はすぐにやってきた。
緑の草原がどこまでも広がる平野に、楕円形に柵が立てられ、その周囲を取り囲むように桟敷席が組まれている。
馬場を走る蹄の音と、声援を送る観客で大変な賑わいだ。
会場に到着すると、小さな階段を上り、木製のオープンテラスに設置された特別席へ向かう。
ドレスは深い緑色をした、質素で動きやすい野外用のものだ。
初夏を思わせる陽気の下、レースも終盤にさしかかり、満席の会場は盛り上がりに盛り上がっていた。
大歓声に足を止めると、馬場を振り返る。
スタートの合図と共に、8頭の馬が一斉に走り出した。
「ノアさまはどちらに?」
「もう出走済みにございます」
「そう」
別に、ノアのことが気になっていたわけではないけど、応援することも許されないのね。
階段を上りきると、テラス中央の椅子に案内される。
その両サイドに座っていた、女性二人は、私の姿を見るなり立ち上がった。
スカートの裾を持ち上げ膝を折り、丁寧な挨拶を受ける。
この二人は知っている。
国内有力貴族の娘である、リディさまとコリンヌさまだ。
リディさまは黒目黒髪のキリリとした美女で、コリンヌさまは亜麻色の髪の大人しい方と聞いている。
「まぁ、アデルさまがお越しになるなんて、珍しいことね」
そう言ってリディは笑った。
「いつも館の奥におられて、こういった社交の場には興味がおありにならないと思っていたのに」
リディは真っ赤なドレスに身を包んでいた。
「ごきげんよう、アデルさま。今日はとてもよいお天気で、馬術大会を行うには、いい日和ですわね」
コリンヌはわずかに青みのかかった、白のサラサラとした落ち着いたドレスだ。
いつもおっとりと穏やかに話す。
リディは扇を広げると、フンと鼻をならした。
「アデルさまもおいでになるのなら、もう少し早くいらっしゃればよかったのに。ノアさまは、今年は一番にゴールなさったのよ」
「リディさまは、それはもう夢中になっていらしたのです」
「まぁ、そうでしたの? それは大変面白かったのでしょうね」
そう言って、私は訓練された笑顔でにっこりと微笑む。
彼女たちも、それぞれの顔に自分の得意な笑顔を浮かべた。
用意されていた一番立派な椅子に腰を下ろす。
そこに座ったというだけで、周囲を取り囲む貴族や観客たちの視線が、チラチラと盗み見を始めた。
つま先から髪の先まで神経を尖らせていないといけない『お出まし』なんて、本当に好きじゃない。
馬場ではレースが続いていた。
人気ジョッキーの招待レースが始まる。
華麗な馬裁きに、観客は大歓声を揚げて楽しんでいた。
馬に乗り、広い馬場を駆け巡る。
他の貴族の男の子たちも、競技に夢中だ。
この後のパーティーに参加する予定なのか、一般の客席に、ちらほらと知った貴族の顔もある。
私がここに座っているのは、あとどれくらいかしら。
たしか3レースくらい見たら、引き上げる予定なのよね。
最後までいることもないのに、本当に来て帰るだけなのよねぇ。
だったらお家でのんびりお茶してる方が、本当にラクでいいのにな……。
日差しが眩しい。
頭上に大きな日よけの幕が張られているとはいえ、かなりの蒸し暑さだ。
時折吹く風も、この人混みの中では何の役にも立たないみたい。
馬場は次のレースの準備中なのか、緑の芝だけが広がっている。
不意に、周囲にどよめきが走った。
見ると、一般客は立ち入りが禁止されているこのウッドテラスに、一人の男性が近づいて来ている。
招待選手である、人気騎手のアーチュウ選手だ。
制止しようとする警備役を押しのけると、彼は真っ直ぐにテラスを進み、私の前にひざまずく。
左手を胸に当て、右手に持った一輪の花を差し出した。
「本日は、麗しきアデルさまにお越しいただき、私の胸はもういっぱいにございます。どうか今日のこの記念に、私の気持ちをお受け取りください」
「お、お待ちください。これでは……」
ちょっと待って? これって、プロポーズじゃない?
驚きに手足が小さく震えている。
両脇に控えるリディさまとコリンヌさまも動揺を隠せない。
だってこれは、第三王子の婚約者である、私に対するプロポーズそのものだもの。
どうする? どうしたらいい?
周囲の視線が、じっと私に注がれている。
こんなもの、受け取れるわけがない!
私は意を決すると、スッと立ち上がった。
「ありがとう。そのお気持ちだけをいただいておきます。本日のレース、とても感動いたしました。これからのご活躍をお祈りしております」
そう言って、花を受け取る。
これはきっと、この辺りのどこかで咲いていた野の花だ。
王宮の中では決して咲くことのない、その素朴な黄色い花を受け取る。
「あぁ、ありがとうございます。どうかこの御無礼をお許しください」
彼は丁寧に頭を下げると、テラスから退出して行った。
見ていた観客から、ドッと笑い声と拍手が巻き起こる。
私はホッと胸をなで下ろした。
そう、これは彼の冗談だ。
第三王子の婚約者である私にプロポーズしたって、断られることくらい分かっている。
私にフラれた彼は、観客の大きな笑いと歓声を浴びていた。
にこやかに笑顔で手を振り、周囲からのそれに応えている。
私はドカリと……と、いうわけにはいかないので、しとやかに椅子に腰を下ろした。
これは冗談だ。
冗談だと分かっているのに、生まれて初めて受けたプロポーズに、顔が真っ赤になっている。
こんなこと、私にしてくる人がいるなんて、思わなかった。
恥ずかしすぎて前を向いていられない。
扇でその顔を隠す。
「酷い冗談ですわ。アデルさま、お気をたしかに」
「まぁ、コリンヌ。これをちゃんと冗談にするところが、アデルさまのご器量でもあり、ご寛容さの現れよ。さすがですわ。機転の利く方ね」
リディはニッと意地悪く微笑み、コリンヌは同情の笑みを浮かべた。
帰りたい。
ここにいる誰もが私を笑っているようだ。
恥ずかしくて、とても困っていて、だけどどうしようもなく、胸がドキドキしている。
騒ぎを聞きつけた従者が、テラスに駆け上がってきた。
すぐに退出するよう、私に合図を出す。
助かった。
「それでは、失礼いたします」
いずれにしても、退出しなければならないことには変わりない。
椅子から立ち上がったとたん、両脇の二人に加え、一般席の観客たちも、サッと立ち上がった。
彼らに見送られ、会場を後にする。
「全く! なんて失礼な男でしょう。後でオスカー卿を通して、十分に抗議しておきます」
館の従者が、プリプリと怒っている。
その気持ちは十分に分かるのだけど……。
「まぁ、いいではないですか。これは大会の余興みたいなものよ。ちょっとした冗談ですもの。そんなに腹を立てることでもないわ」
周囲からの視線がなくなって、ようやく自分自身の感情を取り戻す。
彼から受けたプロポーズの仕草が、まだぐるぐると頭を回っている。
片膝をつき、差し出された手に添えられていた花は、いま私の手に握られていた。
これは、彼のプロポーズを承諾したということになる。
「このお花、どうすればいいのかしら」
初めて受けたプロポーズのお花。
たとえ意味のないものだと分かっていても、大切にしたい。
「ねぇ、お水をあげて。うちまで運んでちょうだい」
「本気ですか?」
「本気よ。お願いします」
従者にそれを渡し終えた瞬間、誰かが私の手を掴んだ。
「ノア!」
「やぁアデル。アーチュウ選手からプロポーズされたってのは、本当かい?」
「冗談よ。そんなの、ノアが一番よく分かってるじゃない」
「そうだけど!」
どこで見ていたのかしら。
あのテラス席からでは、ノアがどこにいるのかも分からなかったのに。
誰かから噂を聞いて、誤解してる?
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