第六節 不死身のインパクト
第六節 不死身のインパクト
甲高く細い音を立てる玄関扉を入ると独特の熱気が吹き抜けた。
南の窓から入ってきた風が玄関と言う出口を見つけて、したたかに流れていく。そこには老人特有のねっとりとした熱っぽい匂いが混じっていた。
狭い団地の一室は暗く、埃とゴミと雑誌であふれている。
行政から借り受けた介護ベッドに腰かけて、南の窓を背に風を浴びている『不死身のインパクト』は次郎の気配を感じ取り、わずかに顎をあげた。
上半身は裸で、左ひじから先が欠損している。
痩せてはいるが、その頑健な肉体は遠く奥地の密林で霞と木の根を喰っていた頃と変わりないように思われた。サングラスによって塞がれた両目は盲となって久しい。
「もっと早く来ると思っていたよ」
わずかに北京語の訛が残る声で彼は言い、右と左へ空気の香りを確かめるように顔を振った。
いつも同じだ。
次郎は彼の前に立つとどうしていいのか、よくわからなくなる。
悟りのような境地に到達したのではないかと言う心の師『不死身のインパクト』は、自分たちと同じ『名を捨てた者』である。
「師匠……時間がありません」
ゆったりと次郎が彼のベッドの前に歩み寄り、静かに膝を折って腰を落とした。騎士が君主に忠誠を誓うように、次郎は身を低くした。
全盲の師は弟子の所作を正確に把握し、ゆったりとした動きで次郎の身体を抱きしめた。
高齢者特有の匂いが満ちた。
片腕であるのに、どうして彼はこれほどまでに力強いのだろうか。
「大切なものを追っていた。しかし、おまえはまた何かを失おうとしている。手に入れた安息は想像よりも早くおまえ達の指の間を通り過ぎてしまう。まるで冷気のように」
冷たいものだな、現実と言うのは。
インパクト師はそう言って静かに頷き、身を離した。
次郎はわずかに顎を引いて息を詰める。
「怖いのです、師匠……。長く戦い、あちこちを渡り歩き、多くの仲間と出会いました。ですが、未だに怖いのです」
「血を見ることを克服できぬ、か」
「……はい。いくら笑みを浮かべても、空回りするように笑っても、怖いものは怖いのです」
人の命を奪う事も、大切な誰かの命が失われてしまう事も、同様に怖い。
どれだけ時間と経験を積み重ねても、あの独特な瞬間を目の当たりにするのは、怖い。
「慣れてはならん。その恐れは、おまえが正常な世界の人間である最大の証だ」
不死身のインパクト師はベッドのもとの位置に腰を戻し、開け放たれた窓へ視線を投げた。
丘の上に建つ古い団地は、ひどく狭く、埃っぽい。
その窓から見える眼下の街並みは、蠢動する臓物のようにネオンサインを明滅させていた。
彼は欠損した肘の尖端を皺だらけの右手で静かに触って。
「失ってしまう事は悲しいものだ。しかし、時間の経過とともに悲しみは薄れていく。痛みと喪失は消えないが、時間は記憶を風化させる。わたしの目は光を失ったが、その悲しみはとうに風化して、夏色の匂いが甘い事を我が肉体は理解するようになった。それは力を得たのではない。悲しき記憶が風化して、劣化して、思い出せなくなったのだ。正しい夏の情景を」
目が見えていた頃のことを。
次郎はぐっと頭を垂れたまま、老人の述べる天啓のような独り言に耳を傾けていた。
ゆったりとした動きでインパクト師は次郎の脳天に右手を添えた。
「祖国へ戻れたことは、おまえが正常な人間である証拠だ。わたしも、秀樹も美香も、おまえに救われた。おまえという存在が、この家業からの離別を促した」
「ですが、わたしはまた同じことを繰り返そうとしています」
「正義を成せ。そのためには流血を覚悟し、相手の命を奪う事を認めよ。それだけの大義が、おまえの正義にはあるはずだ」
不死身のインパクトは答え合わせをする少年の呼吸を確かめるように、ジッと口を噤んで街が放つ数々の雑音に耳を傾けていた。
しばらく無言の時間が流れ、車や列車の音が部屋に満ちた。
インパクト師は言った。
「シゴトを引退したことを悔いているな。祖国へ戻ってきたことを後悔している」
「はい、しております」
「それは誤りではあるかもしれないが、真理でもある。暴力は悲しみを生むが、暴力を振るわなければ悲しみが生まれないわけではない。この意味がわかるか?」
「わかりません」
「世の中は常に悲しみに満ちているのだ。その悲しみを打ち払うのは、悲しい事に暴力であるかもしれない。ただし、暴力を使うのは正しき導きと心を持ったものでなくてはいけない」
そこまでインパクト師は言ってから、こつんと拳で次郎の脳天を打った。
「おまえ達は敵同士でありながら、友の誓いを立てた。名を捨てた者たち。祖国を見失った者たち。けれども、おまえ達は平和を愛する仲間となった。信じなさい。自らが振るう暴力は正義のために使われている、と」
「祖国が、許さないでしょう」
「祖国も過ちを犯すことがある。おまえたち三人は自らが信じた正義のために戦いなさい。そのための流血は、決して罪深いものではない」
「それだけの価値が、流血には、ある」
「それだけの価値が流血にある。そう断言できなければ、おまえ達はシゴトを受けんだろうに……」
優し気な、懐かしい師匠の声に、次郎は両の拳を膝の上でぐっと握った。
このおとぼけジジイから、どれほどたくさんの事を学んだ事だろうか。絶望からの立ち直り方や希望の行先……大切な友達の作り方に、帰るべき家がない者たちの生き方も――。
自らの拳の上に熱い涙が流れ落ちている事を認めた。
「次郎、おまえは見つけた。ならば、その大切なものを見失ってはいけない。たとえ、世界中がおまえを狙おうとも、手放してはいけない」
そう言ってインパクト師はうっすらと天井を見上げた。
その視線の先にちょろちょろと動く影が見えた。
暗い部屋の天井に、一匹のヤモリがへばりついていた。可愛げのある怪しい影の番人は、大きな潤んだ瞳で次郎とインパクト師を見下ろしていた。
次郎はぐっと目を閉じて涙を止める。
我が格闘の師、戦乱の師、心の師に感謝を述べた。
丘の下に広がるまばゆい街の光は、インパクト師の欠損した上半身を怪しい鬼火のように照らしていた。
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