第四節 どんな時も笑えって。ほら、笑え!
第四節 どんな時も笑えって。ほら、笑え!
暗い水底に沈んでいるような気持ちになるのは、久しぶりだ。
おまえはダメな奴だ。
どうして他の子と同じ事が出来ないの?
なんど言えばわかるんだ。もう三度目だぞ。
覚えの悪い子……。お母さん、すごく悲しい。
なんだ、この点数は。わからない事があったら先生に質問しろと言っているじゃないか。
もぅ……、どうして簡単なことがあなたには出来ないの?
浴びせられる言葉は、胸のなかをちくちくさせて、いつしかお腹がイガイガして……学校に行くのが嫌になって、両親の顔を見るのはもっと嫌で、日曜日に家族が揃うのは……もっともっと怖かった。
十五歳の春に、学校へ行けなくなった。朝起きることが出来ず、部屋から出ることが出来なかった。
進路について母は嘆き、父は怒った。
不登校というバグを自分たちが生み出してしまったことに対する落胆と怒りだ。
その年の秋に、母をキッチンにあった鍋で思い切り殴った。
児童相談所に預けられ、親戚の家、経過措置の入院、また施設、そうして実家に戻って、やっぱり無理で、また別の親戚の家へ……。
でも、どうしてもうまく出来なくて、なんらかのトラブルを起こしてしまう。
白山次郎という名前をもらう前の……ずっとずっと昔の記憶だ。
「なーに、停学ぐらいでメソメソすんなよ。誰しも得意なことと苦手なことがあるわけだろ? 苦手なことがわかっているなら、あとは得意なことを伸ばすだけじゃんか! 明るく笑えって。なんとかなる。それに、おまえは笑ってた方が可愛いんだ。意外と童顔だからな」
ちょっと風変わりの衿姉ちゃんは、そう言って頭をわしわし撫でてくれた。家にも帰れず、どうしていいのかわからない夕暮れで、閉店したバッディングセンターの石段で膝を抱えていた時の事だ。
昔から変人奇人で通っていた近所に住む衿姉ちゃんは高校一年生で、正義感が強くて、背が大きくて、運動神経がよくて、ちょっと喧嘩っ早い。
面白いことが大好きで、フツーじゃない事を求めていた。
「帰りたくない」
「したら、あたしンとこ来な。ウケる先輩がいてさ。ハマってるゲームがあっから、一緒にやろうよ」
半ば強引に腕を引かれて衿姉ちゃんに連れて行かれた。
あのとき、東京の片田舎の親類の家に引き取られていなければ……。あのバッティングセンターの石段で膝を抱えていなければ……。衿姉ちゃんが炭酸を買いにコンビニへ外出していなければ……きっと次郎の人生はここまで偏ったものにはならなかったのかもしれない。
その日の夜に、次郎は初めてクレーを撃った。
衿姉ちゃんはどこで知り合ったのか、女子大生の先輩を紹介してくれた。クレー射撃部に入っている先輩で、隣県の大学の練習場に次郎を連れ出した。
「ほら、あそこから出てくるから。よく狙って……おおっ、うめえーじゃん。あんた、才能あるよ!」
長く閉ざされていた暗い夜の世界に、少しだけ希望を見た気がした。
それだけ、衿姉ちゃんに「才能あるよ」と言われたことが嬉しかった。
女子大生の先輩も「うまいうまい」と笑ってくれた。
高校に通えるかもわからない。
中学には行きたくない。家にも帰りたくない。
だから、時間ばっかりがあった。
「んまー、バレないだろうから。ここ使いな。ヨゴすなよな!」
あてがわれた住処は女子寮の一室だったけれども、次郎は満足だった。
厳しい寮ではなかったし、女子大生たちもひどく粗雑な人たちばかりだった。寮長とか寮母は名ばかりで、くさい女の匂いが立ち込める十六部屋のシェアハウスだった。
次郎は朝から晩までクレーを撃った。
それ以外にやることが無かったし、クレーを撃つことは爽快だったからだ。
衿姉ちゃんの勧めで競技大会に出た。
大学が主催する大会の、男子の部門だった。
初出場で次郎は優勝し、拍手を浴びた。
そのとき、自分の世界が少しだけ違ったものになったように思えた。
学校に通っていない次郎だったけれども、出場する大会のほとんどで好成績をとるものだから……衿姉ちゃんも「いよいよ、あんたすごいことになってきたな」と恐々としていた。
次郎は次第に表情を取り戻し始めていた。
クレーを撃っている限り、自分は自分で居られる。
もしかしたら、学校にも通えるかもしれない。
衿姉ちゃんや寮の女子大生にそうした相談をしたら「推薦もらえれば、誰でも入れるよ」というアドバイスをもらった。ひどく軽い一言であったが、次郎はそれをホンキにした。
そうして迎えたオリンピックの選考大会で、次郎は見事に優勝を果たした。
その表彰台で、次郎は金メダルを二位のヤツに差し出した。
「おまえ、くそ下手だけどこれやる。その代わり、俺に学校行く推薦状、誰か書いてくれよ。ここにいるの、どっかの偉い奴らなんだろ!」
ぶっ飛んでいたと思う。
けれども、応援に来てくれていた女子寮のみんなは大爆笑だったし、大学生になっていた衿姉は「三日は笑い続けたよ。二位のヤツ、マジで憐れだったよな!」と笑ってくれた。それにつられて、次郎も笑った。
前代未聞の代表放棄が原因で、女子寮に数年も潜り込んでいたことが表沙汰になった。
しかしながら、クレー射撃の神童を放って置くわけにもいかず……女子寮を運営する短大が次郎の推薦入学を認めてくれた。面倒くさい手続きのほとんどは女子寮のお姉さんたちがやってくれたし、氏名欄に「鼻くそ太郎」とか「トイレ掃除くん」とか、とてもマトモではない書類を学校側に提出していた。女子寮に住んでいた姉さま方は、そういう人種だった。衿姉と同類で。
大学に通って三か月が過ぎようとしたとき、衿姉は「つまんねえ」と言い出した。
「おもしれえ事しようぜ。あたしたちで、刺激的な世界を見に行くんだ!」
「どういう意味だよ、衿姉ぇ……」
「任しとけって!」
そう言って衿姉はどこから仕入れてくるのか、神保町の書店に次郎を連れて行き、アフガニスタンでの仕事を受けた。
「なあ、名前どうする? 本屋のおっちゃんが偽名でパスポートとか取ってくれるから、なんか適当な名前にしとこうよ」
「お、思いつかないな」
「ジローでいいじゃん。白山次郎。あたし、黒川花子にしとくから」
衿姉はそう言って氏名欄に黒川花子と記入した。
鼻くそ太郎よりはマシか、と思い、自分も『白山次郎』と書き込んだ。
そうして次郎と花子はアフガニスタンで雑用のバイトを始めた。
金も学もない、クレー射撃しか取り柄のない、ちょっとトンだふたりの大学生は「留学も出来て金も稼げて射撃も出来るって、マジでお得じゃね?」程度の感覚だった。
しかし……アフガニスタンでは危険な目に遭った。
けれども、次郎も花子も「やっべ」「うわっ、あぶなっ!」と危機を楽しむ才能を持っていた。
得意と苦手があるとすれば、二人は紛争地帯で危機にさらされる事を『得意』とする『才能』を持っていた。
ゲラゲラ笑いながら正規軍の攻撃から逃げたり、ときには重要な部族集会に参加して「やっべ、族長なに言ってるか全然わかんねえ」とまたゲラ笑いして帰ってきたりした。
撃たれて負傷しても、お酒飲んでゲラゲラ笑って。
言葉がわからなくても、ゲラ笑ってたらなんとなくわかり合えた。
イスラム教徒の前で酒を飲んで危うく殺されかけて、それがまたアホらしくて、面白くてゲラゲラ笑うのが止まらなかった。
車の運転も、バイクの運転も「教習所なんて行かなくっても上達すんじゃん!」と花子はゲラゲラ笑う。次郎も「金なくっても生きて行けるしな!」と腹を抱えて笑いながら、凍てつく夜から逃げるように砂漠を車で疾走した。
気が付いたら、英語もフランス語もドイツ語もそれなりにわかって、アラビア語もひどい訛りが無ければコミュニケーションが取れるようになってきたころ……花子こと衿姉さんが死んだ。
小さな部族で、政府をやっつけるぜーと意気込んでいるイカれた連中と一緒に中東の某国で銃を握っていたら……米帝の正規軍とカチあった。
こいつら、鉄砲で米帝と戦おうとしてる。マジあたまイカれてる、とゲラ笑いしていた。
狂っていた。
自分たちも、世界も。
米帝の爆撃で吹っ飛ばされたがれきが、衿姉ちゃんを押しつぶした。
必死に助けようとした。
けれどもダメだった。
「なーんて顔してんの、ジロー。あんた、もっと笑った方が可愛いって。ほれ、笑えって。こんなに刺激的で、濃密な人生だったんじゃん。いつ死んだって、後悔なんてないよ。あたしのバカに付き合ってくれて、ホントにありがとうね」
痛いはずなのに、つらいはずなのに、笑いながら衿姉ちゃんは死んだ。
がれきから上半身だけが表に出ていた衿姉ちゃんの手をずっと握ったまま、次郎はしばらくその場から離れられなかった。
腰を降ろして、衿姉の手をずっと握り続けた。
少しでもぴくりと反応が返ってくると信じていたのに、その手はどんどん冷たくなって、硬くなって、蒼白くなっていった。
二日ほどはずっとそうしていただろうか。
どこかで決意をしなくちゃいけない。決断をくださなくちゃいけない。
誰も自分を助けてはくれない。だから、自分は誰かを助けられる人間にならなくちゃいけない。
生きてるから。
熱い血潮が全身を駆け巡っているから、強く生きて行かなくちゃいけないんだ。
「どんな時も笑えって。ほら、笑え!」
冷たくなった衿姉ちゃん……花子の手を離して「んじゃ、行くわ」と笑って手をあげたとき、白山次郎は彼女の分も笑って生きようと強く決心した。
自分の人生は自分で決めるんだ。
少年の頃に出来なかった事を……大人になった『いま』めいっぱいやろう。
それが衿姉ちゃんに対する礼儀のような気がした。
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