第二節 くっさい自宅

第二節 くっさい自宅



 白山宅建事務所は小さな雑居ビルの二階に入っている。路面側の大窓には店舗名がでかでかと印字されている。いかにも斜陽な事業所であるが、三十代の男が一人暮らしをする事業所兼住居としてはロマンがある。


「えっ、なに……くっさ」


 京子の発言に「遠慮すんなって」と次郎は答えたが、彼女は鼻をつまみながら。


「ねえ、なんの匂いなの?」

「俺の匂いさ!」

「違う、煙草の匂いだよ。げええっ、煙草とか無理なんだけど」


 ご指摘の通り閉め切ったままよく煙草は吸うが……そんなに拒絶されると次郎も傷つく。

 彼女は窓をがらがらと開けてから「洗面所はどこ?」とぶっきらぼうに聞きながら、あちこちのドアをがたがたと開けて行く。

 クローゼットに汚い物入れに、トイレに、そして洗面所を見つけ出す。


「なにこれ、きったない」

「うるせえな」


 水道で顔を洗ったらしい彼女はくっさいタオルで顔を拭いたのか「これ、最悪なんだけど」と不服な顔でリビングへと戻ってきた。

 テレビは昼前の情報番組を流していた。


「早く寝ろ。そこが寝室だ。勝手に使っていいから」


 ガラガラと引き戸を開けると彼女は「ホントに臭いんだけど」と顔を顰める。

 悪かったな、タオルも掃除も安土桃山時代ぐらいからしてなくて、と言い返そうと思ったがやめた。

 彼女はむすっとしたままバチンと戸を閉めた。


「おい、襲わないでよとか着替え覗かないでよとか言えよ!」


 次郎の指摘に京子はなにも答えなかった。

 もそもそと毛布と衣服が擦れる音が聞こえた。たぶん、彼女はくっさいくっさい寝床へ入ったのだろう。ふいに静かになった

 次郎はリビングソファに身を横たえ、テレビに視線を投げる。

 長澤が指摘するように暴力団の抗争や大規模な交通事故の報道はなかった。

 京子についての報道はまったくない。

 少なくとも彼女は拉致された身の娘だ。

 葛飾会が許可なく拉致したのであれば、誘拐に関する報道が出てもいいわけだが……。

 次郎は横になったままシャツを脱ぎ、ジーンズを脱いだ。

 脚の指先で器用に靴下を脱ぎ、ジーンズのポッケに入れていたスマートフォンを取り出した。

 あまり気は進まなかったが、美香へ連絡を入れる。


『はい、矢沼です』

「俺だ。秀樹から連絡行ってるだろ」

『あらましは聞いた。キャンセル料が発生しても断るべき依頼だと思う』


 陰惨で事務的な声の矢沼美香は明瞭かつ明確に『受けてはいけない依頼ね』と主張した。


「どことなく俺もそう思う。で、相談だが、百五十万でフォローアップお願いできないか?」

『白山次郎は早く死んだほうがいいと思う。わたし、そんなはした金で動かない事にしたの』

「『やもやも』は儲かるもんな?」

『気安く"やもやも"なんて言わないで。五〇〇万ならやる』

「秀樹にだいぶふんだくられた。三〇〇万でどうだ?」

『仕方ない。秀樹に断られたんだけど、例の女の子……京子ちゃんだっけ? 写真送って。身元を割るから』


 その質問に「ああ、ちょっと待ってろよ」と耳元からスマートフォンを外し、撮影画像を選択し、チャットで美香へと転送した。


「ほらよ、送ったぞ」

『ありがとう。来た来た。ところで、葛飾会との契約じゃあ、撮影禁止なんじゃないの?』

「おっと、そうだった。こりゃ報酬も減額かな。契約違反ついでに、襲っちまおうか」

『やめときなさい。男女のまぐわいほど憂いを残すものはないから』


 まぐわい、なんて単語がするする出てくるところが美香らしい。


「そう言う点は、美香は健全だな。三十歳まで身持ちが堅いもんな!」

『まだ二八歳よ! はい、死ねェーッ! フォローアップは四〇〇万で受けます』

「う、嘘だよ、美香ちゃん……すっごくかわいい。もう出会った当時の衝撃はいまでも忘れませんってば」

『ホントあんたって最低ね。臭いし、デリカシーないし』


 京子にもくさいと言われたばかりだったので、ちょっと傷ついた。

 美香に小言を言われながらも電話を終え、残額の少なくなった口座から美香に四〇〇万円を振り込んだ。ポッケに突っ込んだ地下闘技場での報酬……四〇〇万円はそのままそっくり美香への支払いで消えてしまったわけで。


「ううっ、お金って溜まんないもんだねぇ……」


 悲しく呻いて、次郎は身を丸めて目を瞑った。

 遠く、寝室から穏やかな寝息が感じられた。

 あんなくっせえ部屋でも眠りにつくほど疲弊していたのだろう。

 次郎は立ち上がり、そっと寝室の扉をあけた。

 京子は規則正しい寝息を立ててベッドの上で眠っていた。乱雑にかかっていた毛布をそっと掛け直してやると、悪臭のせいか彼女は「ンンン……」と苦しそうに眉を寄せた。

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