第一章
第一節 あの子は、死んじゃいけない人間なんだ
第一章
第一節 あの子は、死んじゃいけない人間なんだ
奥まったボックスシートに座る少女に次郎は珈琲を届けた。
大きなマグに注がれた香り高いホットである。
「大変そうだな」
声を掛けると一対の黒い瞳が次郎を認めたが、すぐにテーブルへと戻された。
俯いて沈黙を守っているが、年の頃は十七歳であろうか。
着ている制服は通学している高校のものと思われるが、どこのものかわからなかった。
背が高く、黒髪で少し丸顔。
落ち込んでいるせいで陰のある表情をしているが、裏社会や反社会勢力とは全く異なる気品のようなものが感じられた。次郎がどうあがいても交わる事の出来ない場所に住んでいる人間の気品だ。
俯き加減ではあるが、次郎を認めた一対の眼は大きく、それでいて鼻は小さい。
綺麗ではあるが、愛嬌のある妹分という印象を抱かせる娘である。
次郎は言った。
「俺は白山次郎だ。まァなに。いろんな施設や親戚連中の家をたらい回しにされると傷つく事ぐらいは知ってる。嫌になって煙草吸ったり、大麻買ったり、誰かをぶん殴ったり、教科書を燃やしたぐらいの経験はしたよ。あんたぐらいの年頃にね」
カウンターの内側で誰かに電話をしている長澤をちらと認めてから、次郎は「ハァ」とため息をついた。
「そんな不貞腐れた顔をすんなよ。ほら、楽しくやろうぜ。せっかくの美人が台無しだ!」
努めて明るく彼女に問いかける。
「ええっと、名前は? いま十七歳? 趣味とかあるの? 学校はどこ通ってるの? あァ、もしかしてハラ減ってる? それとも珈琲より紅茶派ァ?」
テーブルの隅に置かれているメニューを開き示すが、彼女はなにも返答しない。
次郎は「むぅー」と喉を鳴らしながらメニューを閉じて、対面のソファーシートに深く身を沈めた。
「名前ぐらい、言ったらどうなんだよ」
「……さい」
「あっ?」
「うるさいっ!」
どんっ、と少女は両手てテーブルを叩いた。
勢い込む姿に次郎は「へへっ」と笑って。
「なんだよ、元気あるじゃん。そっちの方が可愛いよ」
そう言ってからテーブルに肘をついて座り直した。
「知っての通り、安藤さんから依頼を受けた。あんたを守る依頼をね。なんで受けちまったのか、俺にはさっぱりだが金庫番が受けるって言っちまったもんだから、仕事は完遂する」
電話中の金庫番をちらと見る。
仕事の依頼を受けるか否かの判断は、彼がやる。金銭交渉やリスク管理なども、すべて彼が取り仕切ってくれている。
「珈琲を飲めよ。冷めちまうぞ」
「いらない」
「うちの秀樹が淹れる珈琲はうまい。あいつは長く海外に居た。ケニア、タンザニア、イエメン、エルサルバドルにコスタリカ。コロンビアやジャマイカで会ったこともあったな」
「……コーヒーベルト。珈琲豆の生産国」
ふふふっ、と次郎は笑ってしまった。
こいつ、なかなか教育を受けている人種だ。
なによりも……。
女の子は湯気のあがる珈琲をじっと見つめてからちょっとだけ啜るように、それを飲んだ。
そうしてから「……うん」と彼女は頷いて、また一口を飲んだ。
「温まれば気持ちも落ち着く。あんたの身になにが起こったのか、根掘り葉掘りは聞かない。喋りたくなったら、喋ればいい」
「そのまえに、わたしが殺されたら?」
「言ってンだろ。おまえは死なない。俺が守る。いま、そういう契約を暴力団と結んだ」
「どうだか」
自嘲気味に笑う少女の顔を見て、次郎は「うんうん」と思う。
彼女の頬に手を伸ばし、ぐいと顎をあげさせた。
「やっぱり、あんたは笑ってる方が可愛い。怖い顔をしているとせっかくの美人が台無しだな」
不意の出来事に彼女は目を見開いて拒絶の気配を示した。
――パシン!
強く次郎の手を叩いたのは肩に電話を挟んだ長澤だった。
彼は「ええ、ではよろしくお願いします」と言って電話を切り、ぐいと次郎の手を少女の頬から引き離した。
「彼女に失礼ですよ、次郎さん」
怒っているのか、ムッとしているのか、細い目の長澤の表情からは読み取る事が難しい。
彼は恭しく顎を引いて「ごめんなさいね」と彼女に謝った。
そうしてから。
「これからモーニングの営業時間なのです。なので、別の場所に移っていただきたくて。次郎さんの自宅なら寝室もありますので、いまのうちにお休みになられた方がいいと思います。昨晩は安藤さん達と一緒で大変にお疲れでしょうから」
長澤の指摘に少女は再び視線を落とした。
葛飾会の安藤たちが彼女を拾ったとき……なんらかのトラブルがあったのだろう。
暴力団関係者の車がべこべこになって、安藤まで銃創を負っているのだから相当なものだ。
もしかしたら、その場で大切な誰かを失ってしまったのかもしれない。
「ふあ~ッ! 俺も徹夜だったからなァ……。ほら、帰るぞ。寝れるときに寝ておかないと、あとがつらいからな」
そう言って次郎は立ち上がった。
彼女は当惑したように視線を泳がせていたが、覚悟を決めたのかスッと立ち上がった。
その動きに長澤が言った。
「お互いに名前は知っておくべき必要があると思います。わたしはこの店のオーナーの長澤秀樹と言います。こちらのデリカシーのない中年は白山次郎さん。今年で三十三歳のおじさんです」
「おい、三十二歳だ。おまえも三十歳のジジイだろうが!」
三十歳を越えたら引退しようぜ。
その念願を叶えるために、次郎も長澤も日本へ戻ってきたのに……。
ふと、そんなコトを考えたとき、彼女はくすっと笑った。
「京子(きょうこ)、十七歳です」
「古風な名前だねぇー」
「いやいや、ジローなんて名前のあなたが言えるべきものではありませんよ?」
長澤とのやりとりに京子と名乗った少女はくすくすと笑い、テーブルの上の珈琲をぐいと飲んだ。
いい飲みっぷりだし、やっぱり笑った方がこの子はかわいい。
若いって良いな。女子高生って良いな。
次郎がそう思ったとき、京子が言った。
「トイレを借りてもいいですか?」
「もちろんです。あちらに」
そう言って長澤は掌を天井に向けて開き、丁寧に案内した。
ぱたんとトイレの戸が閉まってから、長澤が小走りにやってきた。
「利尿剤が効きました」
「は?」
「警戒をしてください。美香さんにも応援を要請しました」
「待て待て待て!」
次郎は長澤から距離を取り、ぶんぶんと手を顔を振った。
「くっそリスクのある仕事ってことか? それをおまえは事情も聞かずに安藤さんから受けたって事だぞ?」
すると長澤はキョトンとした顔で「ええ」と頷いてから。
「女の子ひとりに葛飾会が白地小切手を切る。このヤマはなかなかに危ないと思います」
彼はテレビを示した。
テレビは朝の情報番組を流しており、いつもと変わらない映像が映っていた。
「暴力団が負傷して、あれだけ車がべこべこになっていましたね。それなのに、どこの放送局もそれを報じていません」
「……報道管制!?」
「最初は暴力団の抗争や内部の権力闘争かと思いました。組長の娘とか、そう言う類です。ですが、それでは報道協定に基づく報道管制が掛かる理由がない」
「つまり、ヤクザがらみじゃない?」
「たぶん行政がらみでしょうね。葛飾会の安藤さんが半殺しになっている以上……彼らを襲ったのは陸上自衛軍ではないでしょうか?」
ふと安藤の言葉が蘇る。
――あんたじゃなきゃダメだ。伝説の傭兵じゃなきゃ、あの子は守れない。だから、頼む……。あの子は、死んじゃいけない人間なんだ。だから!
唖然としている次郎に長澤は続けた。
「先ほど預かった記憶媒体ですが――」
彼はスマートフォンを取り出し、記録されていた画像や動画の一覧を呼び出した。
そこには葛飾会の若い衆が友達や同僚、恋人と思しき女性と映っている写真や動画が並んでいた。
「最新の動画がこれです」
「なんだこれ。真っ暗じゃねえか」
荒い動画で、ときどきぴかっと閃光のようなものが見えた。
「監視カメラの映像か?」
「たぶん、そうでしょう。昨晩の出来事を収めた監視カメラの映像だと思います」
電力を断ち、銃で武装した面々が組織的に襲撃をかけた……?
もしそうならば、完全にプロの犯行だ。
「しかし、わからない事が一つあります」
「閃光だな」
「そうです。使用しているフラッシュハイダーの効果でしょうが、マズルフラッシュがわずかに抑制されています。しかし、そうなると疑問点がひとつ」
「陸上自衛軍で採用されているフラッシュハイダーとは異なるものを装備している」
「その通りです。この映像が仮に昨晩の襲撃を記録したものであれば、これは陸上自衛軍ではない別の組織の犯行という事になります」
「映像の解析は?」
「美香さんにお願いをしました。しばらく時間を頂くことになるでしょう」
次郎は気持ちを引き締める。
「犯人捜しも重要だが、問題はこれから降りかかってくる火の粉だ。組織的に訓練を受けた殺人集団となれば、京子が消される可能性は極めて高い」
「だからこそ、白地の小切手なのでしょう。対抗策を準備しましょう。いまは攻撃よりも防御です」
そうだな、と次郎が答えたとき、トイレからジャーっと流れる音が聞こえた。
陸上自衛軍か、それに準ずる組織的な訓練を受けた殺人集団に追われる、京子という娘。
この子はいったい何者なのか。
トイレから出てきた彼女は次郎と長澤の視線を浴びてキョトンとしていた。
「な、なによ……?」
「ゆっくりとお休みになってくださいね。これから大変になるかもしれませんから」
長澤の軽いジョークであったが、京子は「もう大変になってるわよ」と吐き捨てた。
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