序章 後篇

序章


 カウンター越しに温かい珈琲が提供された。

 風呂上がりの身体には少々熱すぎるが、彼の淹れる珈琲はいつの時代も悪くない。

 喫茶店の店主である長澤秀樹(ながさわひでき)は白山次郎(しろやまじろう)から三つの白い封筒を受け取り、丁寧にカウンターの向こう側でそれらを改めた。


「見てましたよ。すごく流麗な動きでしたね。まるで現役時代そのものでした」

「バカにしてるのか? 引退して、まだ一か月と経ってねえぞ」

「おお、そうでした!」


 カタカタカタカタ……とマネーカウンターが札束の枚数を確認していく。

 しばらく珈琲の香りとマネーカウンターの音が早朝の喫茶店内に満ちる。


「トーストでも食べますか?」

「ああ、もらおうかな」


 長澤はそう言って封筒から取り出した報酬の一千万円のうち六百万円をひょいとカウンターの向こう側に持って行った。


「たっけえモーニングだ」


 残金の四百万円を次郎は手元に引き寄せて、ため息をついた。


「これまでのツケですよ。モーニングの料金ではありません。七百二十円です。モーニングセットは」

「七百二十万じゃねえのか」

「なら、あと百二十万を置いていただけますか?」

「ごめんなさい、嘘です」


 オールバックで色白な長澤秀樹は微笑を絶やさず「うんうん」と頷いている。

 彼とは長い付き合いだが、あの細い糸目が見開かれた表情を次郎は知らない。それほど長澤は柔和で温厚で、カネにうるさい。


「しっかし、日本国内はバブルなのか? 飛び込みの臨時試合で一千万だぞ」

「臨時のお仕事ですから弾んでもらいました。臨時手当ですね」


 そうだった、こいつの金銭交渉があったんだった。

 敵に回すと面倒だが、仲間である以上は心強い。

 白山次郎は三十二歳、長澤秀樹は三十歳。

 お互いに同じ時代を生きてきた同世代であるからこそ、互いの長所を認め合って『敵ではない関係』を構築している。

 人間は歳をとる。

 若いうちはやんちゃして無茶ができるが……次第にそれも出来なくなる。

 たんまり稼いだら、自分がやってみたかった仕事に就こうじゃないか。

 それを合言葉に……白山次郎と仲間たちは『本業を引退』した。

 長澤秀樹は珈琲豆にこだわった喫茶店を開いた。

 白山次郎は「いまいち夢とか将来のなりたいものとかって、ねえんだよな」という自分探し中の青年のような事を言って、プー太郎をしている。


「今日は店を開けるのか?」

「ええ、そのつもりです。朝イチで安藤さんがお見えになるとのことでしたので、それが終わってからモーニングの営業をやります」


 長澤は爽やかに答えたが、次郎は「安藤さん、来なかったぞ」と指摘した。

 すると彼は小さく頷いてから。


「試合の終盤にご連絡を頂きました。試合を間近で観戦できなかったことは残念だった、と」

「で、何用で来るんだよ。天下の葛飾会の若頭が、まさか『観戦しに行けなくてごめんね』なんて謝りに来るのか? あっ、次戦の依頼か!?」

「就職先は地下闘技場の闘士ですか? 高い契約金に安藤さんは怒るでしょうね」


 わずかに浮かせた腰を落ち着けて「じゃあ、なんなんだよ。安藤さん」と次郎は唇を尖らせた。

 チンッ、とトースターがうまそうな匂いを漂わせながらふわふわのパンに美しい焦げ目をつけた。

 長澤は「具体的なハナシは聞いていません。大変お急ぎだったのか、一方的なお電話でした」とトーストを皿に移し替え、バターを添えてカウンターへ出してくれた。


「ふうん」


 もちっとむちっとしたトーストをかじりながら、次郎は「安藤さんも慌てるコトあるんだな」と感想を述べた。そのとき、ガラス張りの路面からキキーッと強烈なブレーキ音が響いた。

 黒のゼロ・クラウンと同色のアルファードが駐車場の白線を蹂躙するように停まった。展示場の車両のように縦横無尽な駐車を決めた二台であるが。


「ほう、最近のカスタムは『汚し』が流行ってるのか?」


 次郎の問いかけに長澤も「はてぇ?」と小首を傾げた。

 黒のゼロ・クラウンは後部座席に複数の弾痕が残っている。リアガラスも跡形もなく割れているし、片方のサイドミラーもない。どこかに衝突したのか、左のフロントライトから後部扉に掛けて大きな傷がある。

 同様にアルファードにもひどい傷が残っているが、こちらは防弾仕様であるためかガラスの破損などはなかった。

 次郎はカウンターの下にひそませていた拳銃に手を伸ばした。

 店主の長澤も笑顔を絶やさず銃器を握った気配があった。

 車から降りてきたスキンヘッドの男に、ふたりの緊張はわずかに緩む。

 だが、ガラス戸の扉に赤黒い血を塗りつけながら、倒れるように入店してきた様子から緊張はすぐに再来した。


 からんからん。


「いらっしゃいませ、安藤さま。お待ちしておりました」


 葛飾会の若頭、安藤幾太郎だ。

 大柄なスキンヘッドの男で、白シャツにスーツ、国産のごつい時計をハメている『いかにも』な反社会勢力である。五十代の男性であるが、序列で言えば若頭である。関東で勢力を伸ばしている葛飾会で若頭にまで上り詰めるのであるから……相当な実力者であることに違いはない。


「珈琲は温かいものになさいますか? それとも救急車をお呼びしましょうか」


 安藤はぐったりと膝をついてから、大きく肩で息をして。


「救急車だけはよしてくれ。病院は嫌いだ」


 そう言ってから口の中の唾を集めるようなしぐさと間を置いてから、野外の車に向けて手振りで指示を出す。そうしてぐっと力を込めて立ち上がり、血の足跡を残しながらカウンターへやってきた。

 隣に座った安藤に「朝からお疲れですね」と次郎は声を掛けた。

 派手な登場が好まれるとは聞いた事があるが……朝から出血して現れることもなかろう。

 次郎は彼の身体に手を伸ばし、肩と脇腹を撃たれている事を確かめる。レジスターの脇にある救急箱を手にして安藤のもとに戻って。


「今日の試合は盛り上がりましたよ。東北最強の闘士だったかな? 川口組の闘士はこてんぱんにしておきましたから。また入用の時は呼んでくださいね? 安くしときますから」


 次郎が軽口をたたくと、ドンッ!!! と安藤はカウンターを強く叩いた。


「白山さん……試合、悪かったな。見に行く約束、破っちまって」


 そこまで言ってから、視線は長澤へと移る。


「頼みがある。あんたらに」

「そのお手元のお金は、着手金ですか?」


 ドンとスーツの内ポケットからカウンターに叩きつけたのは、血に染まった札束だった。

 ざっと二百万円ほどだろうか。

 次郎は「だめだめぇ」と手をひらひらさせて言った。


「どんな依頼か聞きませんよ。着手金が二百万って! 貧乏ヤクザじゃないんだから、ゼロが足んないよ。全然さ!」


 次郎が軽口を叩いたとき、からんからんと入店を告げる鐘が鳴った。

 それと同時にバタバタと投げ込まれたのは黒いアタッシュケース。

 そこから札束がこぼれ、結構な金額が喫茶店の床に散った。


「二三〇〇万の着手金で、頼みたい」


 次郎は金を見て、入ってきた若い衆と……不釣り合いな少女を認めた。

 学生服を着ている十代の娘だ。

 長澤が珈琲の香りをたたせながら、熱い一杯を大きなマグに注ぎ始めた。


「着手金は二三〇〇万円で、成功報酬はおいくらですか?」


 長澤の雰囲気が一変する。

 依頼の重要性と本質を見抜こうとする商人の気配だ。

 安藤は制服姿の少女をジッと見つめてから。


「白地の小切手でいい」

「ほう、白地ですか。失礼ですが、わたくし達は遠慮しませんよ」

「構わない」


 そう言って安藤は腕で頭皮の境界があいまいなスキンヘッドの額を拭った。


「長澤さん、あの娘をしばらく預かってくれ」

「それが依頼ですか?」

「そうだ。あんたらが適任だ」


 次郎は「はんっ!」と鼻を鳴らして。


「娘一人に白地の小切手かよ。安藤さん、どういう風の吹きまわしなんだよ。ちょっと状況がわからないっすよ。それにあんたら口座を持ってるわけ?」


 葛飾会の内部抗争が勃発し、安藤幾太郎は組長の一人娘を守る役回りになった?

 そうして彼女の身柄を確保したところで、敵対派閥か対抗組織に襲撃を受けて、素敵なゼロ・クラウンとアルファードはキズモノになっちまった?

 次郎が推察している間に、ホットコーヒーが注がれたマグを受け取った安藤は、ぐいと口をつけて「あちち」「いてて」とせわしない感想を漏らした。

 むっつりと沈黙を守っていた長澤は、おもむろに店内の高い位置にあるテレビをつけた。

 朝の情報番組が流れている。天気予報、話題のスポット、スポーツニュース、星占い……。

 長澤は物事を推察するように画面へ視線を送ってから、答えた。


「受けましょう。お話できるところまで、事情をお話しいただけますか?」

「おいっ、秀樹ッ! いいのかよっ!? くっそ怪しいぞ! というか、そんな軽々しく受けるなんて、どうしちまったんだよ!」


 まあまあ、と長澤は掌で次郎を制して安藤に言葉を促した。


「彼女はなぜ追われ、なぜあなた方は襲撃を受けているのでしょうか?」

「受けてくれるんだな」

「受けます。ご安心を」

「事情を話すのは難しい。ただ、彼女は殺される。狙われている。だから守ってほしい」

「どちらから、お守りを?」

「それは話せない。あんた達の気が変わってほしくないから、話さない」


 けっ、と次郎は肩を竦めて「やめようぜ。あぶねえよ、この話」と言ったが……。


「では、安藤さんがお伝えいただけるだけの情報を頂きたい」


 すると安藤は同行していた若い衆に「おい、あれ送ってきてるか?」と聞いた。

 若い衆は自らのスマートフォンから記録媒体を取り出して、カウンターに置いた。

 別の若い衆に連れられて、女の子は奥のボックス席へと導かれていく。

 ひどく泣いたのか、目が腫れている。

 学校の制服を着ているが、手荷物がない。

 乱暴をされた形跡はないから、やはり安藤が擁護する組幹部の娘だろうか。


「契約書がここにある。簡単な契約書だ」


 安藤が出した契約書は簡素なものであったが、こうした事態を想定していたらしく。


「準備がいいじゃねえか」


 次郎はそう言ってくしゃくしゃの契約書に目を向けた。



 契約書

 一、五体満足での生存。

 一、性的な関係を結ばない。

 一、写真を撮ってはいけない。

 一、通信機器を所持させてはいけない。

 上記の内容が満たされた状態で、一週間後に葛飾会へ引き渡しが行われた際に報酬を支払う。



 乱雑に安藤は『報酬額、白地小切手。着手金二五〇〇万』と書いた。長澤が「二三〇〇万円です、安藤さま」と訂正し、彼は二重線で書き直した。

 そうして安藤はサインを書き、長澤に差し出す。

 長澤はわずかに逡巡したが、サラサラとサインに応じて契約書面を返した。

 若頭はゆっくりと白山次郎へ向き直って。


「あんたじゃなきゃダメだ。伝説の傭兵じゃなきゃ、あの子は守れない。だから、頼む……。あの子は、死んじゃいけない人間なんだ。だから――」


 スッと意識が喪失してしまったのか、安藤は椅子から崩れてしまった。

 次郎と若い衆が慌てて身体を支えて転倒を防いだが、失血のためか顔色が悪い。


「早く安藤さんを医者へ連れて行ってくれ」


 若い衆に次郎が言うと彼らは「お手数をおかけします」と礼儀正しく述べて、喫茶店から出て行った。

 残されたのは珈琲の匂いと血の足跡、そして大金と……謎の女の子だった。

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