Day3.影の繭Ⅰ
─────目を覚ます。
そこは、いつも通りの自室だった。
寝巻きとベッドは、汗でぐしゃぐしゃになっている。
相当酷い悪夢だった。
見知らぬ女を思いのままに解体する夢。
正直、自分の精神状態を疑った。
あぁ、夢でよかった。
心の底から安心して、胸を撫で下ろした。
─────が。
「夢なわけないでしょ」
その空間が瞬く間に凍りついた。
あれだけ聞きたかった声。
まるでこの瞬間を待ち焦がれていたような気分。
上昇する動悸。
犬のように繰り返される呼吸。
真っ白になる頭。
背中をつう、と流れる冷や汗。
硬直する手足。
焦点は定まらず、視界は震えている。
あれだけ聞きたかった声。
あれだけ待ち焦がれていた声。
だというのに。
あれだけ聞き焦がれていたモノは、
この世で一番聞きたくなかったモノへと変貌を遂げていた。
甘く蕩けるような想像は、熱く爛れる畏怖の感によって、
削られ、溶かされる。
ありえない。
だってそうだろう?
ありえない。
普通、誰だってそう思う。
首だけを回して辺りを一瞥する。
いない。
いない。
いない。
その声の主はどこにもいなかった。
「何処探してるのよ。後ろよ。うしろ。」
今度ははっきりと。
自分の背後から声は聞こえた。
「─────!」
ばっ、と振り向いた。
その瞬間、有り得ない程の力で首を掴まれる。
「が─────っ!」
息が、出来ない─────
「きのうのお返しをしにきたんだ。」
やっほー、とにこやかに笑っている女。
「ねえ。どう?苦しいよね。私だってそうだった。
貴方ったら急に近づいてきてこんなことしてくるんだよ?」
ひどいよねぇ。と間の抜けるようなことを言っている。
「─────」
力が緩み、ぱっと離される首
苦しながらに呼吸を再開する。
「は─────、は─────ぁ」
酸素不足によって視界は崩れている。
ときたま、しぱしぱとスパークする感覚。
呼吸を整えつつ、一度頭をぶる、と振って平静を取り戻す。
おかしい。
彼女は確実に生きていない。
生きていられる道理がない。
あれだけバラしてやったのに。
原型もなくなるくらいに潰してやったのに。
完璧に、完全に、完膚なきまでに殺してやったのに。
「何なんだよ─────お前」
「何って何よ。人の姿をしているんだから紛れもない人間でしょ?」
その言葉に、無性に腹が立つ。
そんなわけないだろ、と。
あの状態から生還できる人間など存在しない。
「巫山戯てるのか?」
本当に巫山戯ている。
こんな出鱈目が存在していい訳が無い。
「ふざけてないんかないわよ。何でそんなこと言うわけ?」
いたって大真面目なんですけどー。と口を尖らせる女。
「いいや。巫山戯ているに決まってる。あの状態から戻ることが出来る人間なんて存在しない。しちゃいけない。」
ぱん。と手を叩く女。
「ああ、それね。それについては─────」
「あぁ。言ってみろ」
「ひ・み・つ」
「─────」
目頭に指をあてがって、今すぐにでも胸ぐら掴んで怒鳴りたい気持ちを抑える。
「よし。よし。よくわかった。とりあえず出ていけ。」
これ以上得体の知れない生き物にいられるとどうにかしてしまいそうだ。
「何言ってんのよ、無理に決まってるじゃない」
「は?」
嫌、ということはあっても無理とはどういうことだ。
そもそもお前はなんでここにいるんだ。
ああもう。全く何もかもが分からない。
「そもそもねぇ、私がこうしているのもあなたのせいなのよ。」
「俺のせい、だと?」
「うん。ほら。足元見てみて?」
足元?そんなとこに何があるって言うんだ─────
「何も無いじゃないか」
「そう。何も無いの」
「─────頭大丈夫なのか?」
「ばっ、ちがうって!よく見て!よく!私の足元!」
「だから、さっきから何も無いと─────」
─────息を呑む。
てっきり、何かが床に落ちているのかと思っていた。
しかしそんなものはない。
なら何がおかしいのか。
この女には、決定的に足りないものがあった。
─────臓?
違う。
─────四肢?
違う。
─────首?
違う。
そんなものではない。
それなら何か─────。
「お前─────影─────」
「そういうこと。わかった?」
そう。この女には影がないのだ。
実態のあるものには必ず居る裏側。
人をヒトたらしめる存在証明。
そして、世界と自らを縛り繋げる蔦のようなもの。
それが、そんな大切なものが、この女には存在しない。
「待て、待ってくれ。それだとしても、お前がここにいる理由にはならないはずだ。」
「なるわ。」
「どういう─────」
「まあ見るのが早いかな。」
そう言うと、彼女は俺の背に触れた。
瞬間。女の姿は跡形もなく消え去って─────
『どう?聞こえてるー?』
「!?」
二重で困惑する。
目の前から女が消えたのにも驚嘆したが、それよりも、頭の中で鳴り響いた女の声に対しては、現状を認識するのに時間を要した。
「あ─────あぁ。聞こえてる」
『なら良かった。これで、どういうことか分かったんじゃないかな?』
正直分かりたくなんかなかった。分かりたくなかったが、否応にも理解出来てしまった。
「お前、俺の中に─────?」
『ごめーとー!どう?どんな感覚?』
「すこぶる気分が悪いよ。思考が二分割されたみたいで少しぼーっとしている」
頭の中で響く声にそう返事をした。
「よし、お前が俺の中に入ってきたのは理解した。気分が悪くなるからとっとと出てこい」
えー、と少し残念がる声が聞こえた後、俺の足から伸びる影が蠢いた。
そこからすっと出てくる女。
「驚いたな。もうちょっと気味の悪い出てき方をすると思ったんだが」
「そんな訳ないでしょ?私はスマートなの」
そうですかい。と軽く小馬鹿にしつつ返事をする。
「で、お前が俺の中に入ってきた理由は何だ?」
「呆れた。あそこまでしたのにまだわかんないんだ」
女はそう言うと、どこからともなくホワイトボードと教鞭を引っ張り出してきた。
「お前それどっから!?」
「うるさいわねー、少々の事は気にしないの」
教鞭で軽く叩かれる頭。なんか、こう美女にそうされると、照れる。
『─────いやいやいや!照れる。じゃねえだろ』
ぶんぶんぶん、と頭を振って女の方へ顔を向ける。
「えーっとね、じゃあ説明するけど、まず何で私には影がいないのか。所事情は諸々省くけど、まあ昨日、貴方に殺されたのが原因ね」
「殺された、ってお前今生きてるじゃないか」
「そう。私はいま生きている。私の影がいないのはそれが最も大きな理由よ」
「???」
ちんぷんかんぷん。さっぱりわからん。
「結局のところ何が言いたいんだ?」
「いちいち五月蝿いわねー。そんなに早く結論が気になるなんて、せっかちにも程があるわ。貴方確実に早漏でしょ」
何を言ってやがるこのアマ。
「そういう話は他所でやれ。他所で」
はいはーい。と軽く流す女。
「じゃあ続きね。普段なら死ぬことなんて有り得ないんだけど、昨日はとある理由で弱体化してたの。だから、貴方に殺された。でもね、私はまだ死ぬ訳にはいかなかったの。どうしてもね。だから、私は私の存在証明、要するに、影を死線へ先送りして、現世へ帰ってきたわ。」
「な─────」
そんなことが、出来るのか。こいつは。
「要するに、影を身代わりにして生き返ったって事なのか」
「んー、身代わりとはちょっと違うかな。
私は、『私が死んだ』という結果を先送りにしたに過ぎないわ」
「先送りって、お前」
「そう。今はこうして生きているかもしれない。けど、タイムリミットはそう長くない。タイマーがゼロになった瞬間に、私は死ぬわ。確実に」
「─────」
そうか。結局こいつは、目的が果たされるか、時間が切れると消えてしまうんだ。
ここにいる彼女は仮初の命で生きている。
普通なら地面にはり巡っている生命の樹の根。
それがこの女には存在しない。
軽く吹かれれば散ってしまう、文字通り、儚い命なのだ。
「そうか─────俺のせいで」
顔を俯かせる。
一時の劣情のままにこの女に手をかけてしまった。
その罪を贖うことは出来ない。
こんな汚い人間が、どうして顔を彼女に向けることが出来ようか─────
「決定打は貴方だけど大元の原因は違うわよ?」
「─────どういう─────ことだ?」
「だって私、さっき言ったじゃない。昨日はとある理由で弱体化していたって。あれさえなければあなたに殺されることなんてなかったんだから」
だから、なんだっていうんだ。
「いいか。そんなことはどうだっていい。結局、お前を殺してしまったのは俺なんだ。」
そうやって俯き続ける俺の顎に手を当て、無理やり自分と向き合わせる女。
「貴方─────やさしいんだね」
その顔は今まで見たどんな表情よりも優しく、包み込むような笑顔だった。
「何、言ってるんだ」
「だって、自分の行いを悔いることができてる。他人を思うことが出来ているんだもの」
「でも俺は、最低最悪の人殺しだ。一瞬の劣情のままにお前を嬲り、殺した。それでも俺を優しいと言えるのか、お前は―――」
「うん。言える」
「───────────────!!」
やはりなんなんだ、この女は。
殺したのに死ななかったり。
人の影に入ってきたり。
仕舞いには俺の事を優しい。と言ってきたり。
「俺はお前が、嫌いだ。」
「そう、わたしは貴方のこと、結構好きだけど。」
こう、ひとつも恥ずかしがらずこういう事を言えたり。
「は─────はは」
「?」
そうか。こいつはこういうやつなんだ。
自らの信念を曲げることがない、強く、真っ直ぐに生きている、美しいという言葉さえも眩むような、そんなやつ。
「どうしたの急に笑ったりして。貴方ちょっとこわいよ?」
少し引いた様子を見せる女。
「大いに結構。存分に怖がってくれ」
「んー、まあそういう趣味ってことなのね」
訂正するのも馬鹿馬鹿しい。
「---で、結局お前は何故俺のとこに来たのか。そもそもの目的はなんなのか。この2つを教えてもらおうか。」
「あ、そうだった。貴方と話すのが楽しくて忘れてた」
またこいつはそんなことを恥ずかしげもなく。
「えっとね、まず、私があなたの所に来たのは、貴方が私に触れることが出来たからなの。」
「触れることが、出来たから─────?」
「うん。私の事ずっと見てたから分かるんじゃないの?ほら私、雨の中に立ってたけど雨粒の一滴もかかってなかったでしょ?」
そういえば─────そうだ。
俺はその姿に惹かれて、この女を。
「あの状態になってからの私は、誰に触れられることも、見つけてもらうこともなかったんだ。」
「あの状態、と言うとあれか。さっき言ってた弱体化の」
「そう。私はあの時、影を半分以上失ってたわ。とある敵の襲撃にあってね。」
「それで、唯一認識して触れた俺の所へ来たと。」
「そゆことー、あとひとつ、ここが貴方の元へ来た元来の目的なんだけど─────貴方に、手伝って欲しいの」
「え─────、何を?」
「だーかーらー、私を襲撃したやつらを殺すのを、手伝ってって言っているの!」
「はあ!?」
この女、とんでもないことを俺にやらせようとしてないか!?
「はぁ!?ってなによ!そもそも、私が影を完全に失ったのは貴方が原因だからね!拒否権はないと思いなさい!」
「いーやこれだけは断らせてもらうっ!絶対に!もう二度と人に手はかけないと誓ったんだぞ俺!」
「どうせすぐ破る誓いなんて立ててどうすんのよ!まるで道化じゃない!馬鹿馬鹿しい!」
やいやいと言い合う中、確実に階段を上る足音を聞いた。
その足音は─────こちらに近づいて─────!
「弥景様!お入りしますよ!」
有り得ないほど取り乱している依桜の声。
それもそうだろう。なんてったって早朝の五時からこんな騒がしくしてたら、誰だって心配する。
それはそれとして、女が部屋にいるところを見られると非常にまずい!
「(お前、俺の影に入れ!)」
「えー!なんでー!」
「(いいから!お前を見られると色々とまずいんだよ!)」
むーっと頬を膨らます女。
いちいち可愛いなちくしょう!!
と、そうこうしている間にぶち壊れそうな程の勢いで開かれる扉。
「大事はありませんか!弥景様!」
「あ、あぁ依桜!お早う!俺は全然、大丈夫だから心配ならしなくていいよ!」
「本当にですか!?」
「ああ!本当に!神に誓ってもいい!」
『何が神に誓ってよくだらない!人殺しのくせに罰当たりなのよ!』
頭の中の声はひとまず無視!
「目が覚めたら弥景様の怒声が二階から聞こえていたので、精神になにか大事があったんじゃないかと…」
俺の声だけ?おかしいな。この女もそこそこでかい声で怒鳴ってたと思うんだが。
「そんなことないさ。多分、寝言かなんかじゃない?」
「信じ難い話ですね」
「ま、まぁ!ほんとに大丈夫だから!」
「はあ。じゃあ出ますけど。あんまり早朝から騒ぎ立てないでくださいませ。弥景様」
そっちが本音か。
「ごめん、気をつけるよ」
それじゃ朝食の準備をしてきますので、と部屋を後にしていった。
「おいお前、聞こえてんのか」
『聞こえてるわよ。で?何』
「もう出てきていいんだぞ。依桜は下に降りたし」
はあ、と溜息をつきながら力なさげに影から出て来る女。
「あなたって意外と横暴なのね、何かイヤだな」
「そりゃあ悪かった。でもお前を見られる訳には行かなかったしさ」
仮に見られていたら大惨事だっただろう。間違いなく。
「何言ってんの?私のことが見えてるのは貴方だけだって言ったじゃない。ほら、あの子私の声も聞くことが出来なかったっぼいし」
「あ─────」
そういえばそうだったな。と思い返す。
「それよりも私、貴方に文句があるんだけどいい?」
「なんなりと」
へぇへぇ、と軽く悪態をつく。その態度が癪に触ったのか、
「────そこになおりなさい!このバカ殺人鬼!!」
そう言って女はベッドに腰掛けた。
俺は床に正座。
「んで、何だよ。文句って」
「はぁ。貴方、さっきから私のことお前─────とか
女─────とか散々な呼び方してくれたじゃない」
「だって俺は、お前の名前を知らない」
唐突&怒涛の展開が続いたせいでこの女の名前を聞きそびれていた。
「あ、そっか」
忘れてた、と手を鳴らす女。
「じゃあ俺から。俺は弥景。鳴苅 弥景」
で、お前は?と視線を送る。
「私は、ルナ。ルナ=イルゼ。この国で生活してた時は馴染みやすいように入瀬って苗字を使ってたわ。」
Luna=Ilse。
「月女神への誓い、か結構な名前じゃないか」
「それ、どういう意味よ。」
「なんてことはないよ。ただ、綺麗な名前だなって」
よく似合ってると思う。
むしろこの名前がここまで似合うのはこの女だけだと。
「へぇ、貴方にもそういう気概はあるんだ。もっと唐変木みたいな人だと思ってた」
「散々な言いようだなおい…」
「それで、名前を教えてくれたってことは、協力してくれるってことでいいのね?」
「そもそも俺に拒否権はないって言ったのお前だろ。」
嬉しそうに微笑む女、もといルナ。
「じゃあ私たちはこれから協力関係だね!
よろしくね!弥景!」
過去一の笑顔を向けてくるルナ。
いちいち眩しいんだよこの女は。
「あぁ、よろしく。ルナ。」
満足そうに頷くと、それじゃあ私は寝るから、と 再び俺の影へ入ろうとする。
「いやおい待て待て待て!」
「なによー、眠いんだから早めにおねがーい」
眠い目をこすりながら文句を垂れるこいつ。
「眠いんだからー、じゃねえよ。お前、寝るんなら自分の家へ帰れ。家ぐらいはあるんだろ」
「あるけどー、さっき言わなかった?私はあなたから離れられないって。」
「は?離れられないって、なんで」
「だからー、私は影がないから貴方に触れるか近くにいないと消えちゃうの。それとも何?さっきの今でまた私を殺そうとしてるの?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだけど─────はぁ。そういう事か。まるで寄生虫だな。」
「うわ。考えうる中でいちばん最悪な例えじゃない。センスないなー」
実際、このたとえは自分でもいかがなものかと思ったのは内緒だ。
「うるさい、結局お前が俺に依存するってことには変わりないだろ。」
「私があなたに依存しないと生きていけない。それは肯定するわ。でもあなたも、そのうち私がいないと生きるのが苦しくなるわよ。」
「それって、どういう─────」
「もう私げんかーい。もう寝るから、これ以上足を止めさせないで。」
そう言うとまたもや視界から消える彼女。
「は!?おい、おい!待てよこいつ!!」
─────逃げられた。別に遠くに行かれた訳じゃないが。
触れられないのなら逃げられたのと一緒だと思う。
「学校、行こ」
そう言って既に疲労困憊の身体を引きずって、登校の準備をしていく。
「授業中、余計なことしなきゃいいが─────」
そんな事を考えながら、朝食を摂るため食堂へと足を進めるのであった。
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