第2話



「やはり、元いた場所に帰る努力は、するべきだと思う」



 翌日もまた、視界を覆うほどの雪模様だった。

 昨晩と同じ稗の粥をごちそうになった後、私は小梅にそう告げた。食後の粗茶をゆっくり嚥下した小梅は、こてん、と首を傾げてみせる。



「構いませんし、良いことだと思いますが……どうされるのですか?」

「それなんだが、小梅ちゃん。最初に君と出会った駅に、連れて行ってくれないかな」



 あんな場所に、道具も何も持たずに寝ていたというのが、そもそもおかしな話だ。駅という単語に、未だにモヤモヤと引っかかるものがあるのも気にかかる。



「待っていれば電車が来るかも知れない。それに、寝起きでぼーっとしていたから、何か見落としている可能性もあるかな、と思ってね」

「そうですね……貴方がそう言うなら、ご案内しますよ」



 小梅が承諾してくれたので、私はほっと胸を撫で下ろした。小梅の案内がなければ、あの獣道を掻き分け探す事は不可能だったからだ。

 食器を片付けると、小梅は厚手の半纏をさっと羽織り、水筒代わりの竹筒を懐に忍ばせて外出の準備を整える。それだけで寒くないのかと質問したが、慣れてますから、と得意気な回答を貰った。育ちが違うと、身体の作りも変わってくるのだろう。

 ずっしりと重たい灰色の雪雲の下、昨日と同様に小梅に手を引かれて、石畳の斜面を下っていく。通路にはやはり大勢の老人達がいた。昼間に見ると、彼等の衰弱具合は更に深刻に見え、フラフラと歩く様はまるで幽霊のようだ。

 それでも老人達は、小梅の姿を認めると、さっとお辞儀した後、私に訝しげな目をくれる。坂を下り終えるまでに、チッという舌打ちを数度、「小梅様の邪魔を……」という小言を二度ほどもらった。

 やはり私は、無条件に歓迎されている訳ではないらしい。昨日小梅が言った通り、彼等に頼んでも、決して助けてはくれなさそうだ。



「この村は老人が多いみたいだけど、小梅ちゃんの他には、子供はいないのかい?」

「はい。子供は、小梅しかおりません」



 事実を述べる。まさしくそんな表現が適切な回答。またも私は、そういうものかと納得し、先に続く言葉をなくしてしまう。



「……寂しくは、ないのかい?」



 他に疑問に思うべき事があるはずなのに、一番気になったのが、その事だった。



「そういうものですから」



 何度も聞いた童謡を口ずさむように、小梅は言った。それから、愉快そうにふふっと笑う。



「けれど、貴方が来てくれました。それだけで小梅は、じゅうぶん幸せだと思えるのですよ」



 真意は掴みかねる、感謝の気持ち。けれどその笑顔を見ると、彼女の小さな柔らかい無垢な手を自分が繋いでいる事に、達成感に似た感慨深い思いを抱かせられた。

 しかしその達成感は、すぐに別の落胆に塗り潰される事になる。

 小梅に手を引かれ、獣道を抜けた先には、予想外の光景が広がっていた。



「線路が……ない?」



 両脇を急斜に挟まれた渓谷。そこにあったはずの線路が、こつ然と姿を消していた。雪原には足跡も含め何の凹凸もなく、木製の屋根とベンチのあった駅舎すら消えている。

 困惑し、小梅を振り返る。彼女は年の頃に似合わない穏やかな笑みを湛えて、私を見つめている。



「本当に、ここで合っているかい?」

「はい。この場所で、貴方を見つけました」

「駅があっただろう? 小さな駅舎と、線路があった。雪の積もりの浅い、最近まで使われていた筈の線路が」

「ええ、ありましたねぇ」



 まるで算数の問題を解く息子を見守るように、小梅が頷く。場所に間違いないことも、あるはずの駅が無いことも、当然のように。



「そういうものなのです。貴方は、ここに迷い込む際に、電車という手段を選んだ。それだけの話なのです」

「同じ方法で帰れるとは限らない、と?」

「ええ。申し上げたように、帰るべき時が訪れるはずですよ。いつの日か、然るべき時に」



 頭を掻きながら渓谷を見回すと、確かに昨日と同じ場所であるようだ。丘陵で挟まれた道の左右は、やはり数十メートルも先で、厚い雪に覆われて視界が遮られる。



「……すまない、小梅ちゃん。無駄に手伝わせてしまったね」

「とんでもありません。心意気は、とっても大事です。ぼうけんみたいで、楽しかったですし」



 着物の袖で口元を隠しながら、小梅はくすくすと、年相応の笑みを見せる。

 狐に化かされた気分だ。あるいは、小梅のおままごとに付き合っていたかのよう。

 私は、こつ然と消えた線路を伝い、自分が何者かも忘れ、いるはずのない場所に辿りついたのだ。ますます理解が遠ざかっていく気がする。

 小梅に断りを入れて、未練がましく辺りを探る。すると、雪の降り積もる斜面に、色の違う半透明な白い物が刺さっているのを見つけた。

 円柱形をした、樹脂製の小さなケースのようだった。引き抜くと、中には黒ずんだ塊が入れられている。軽く振ると、湿った塊が崩れ、中の小石がカラカラと音を鳴らす。



「これは……土?」



 ケースの側面にはラベルが貼り付けられ、印字された項目に添って、ボールペンで記入がされている。




 標尺:十五メートル 土質:粘土質 硬めだが理想値に近い

 Si:35000mg Al:71000mg Fe:38000mg C:2% O:50% Ca:1.2% 

 その他温暖期の日本における基礎データとは優位な乖離なし。

 特筆性:N(ネガティブ)

 継続して調査に当たる。鍵は必ずある筈だ。




 ラベル下部の空白部分に、そうメッセージが残されていた。事務的な数値の並んだ上部に比べ、そこには明らかに、一人の人間の魂が滲んでいた。



「鍵は、必ず……」



 指でそっとなぞった文字に、頭を覆っていた靄が少しだけ晴れる。ラベルの末尾に添えられた言葉に、私がこの村にいる理由があるような気がした。

 土の入ったケースをダウンジャケットのポケットに仕舞い、小梅の所に戻る。



「待たせてごめんね、小梅ちゃん」

「もう、よろしいのですか?」



 訪ねる小梅に頷く。宛ては外れたけれど、来た甲斐はあった。ポケットのケースの感触を確かめながら、小梅の手を取り、村に向けて獣道を進む。



「小梅ちゃん。もしかしたら私は、来るべくしてここに来たのかもしれない」

「何か、見つかりました?」

「まだ分からないが、探すべきものがある気がする。改めて、しばらくお世話になるよ、小梅ちゃん」

「ふふ。ええ、お任せください」



 嬉しそうに、小梅が笑う。私の滞在をちっとも負担と思っていないことが、心の底から有り難かった。

 手を繋がれて、元来た道を戻っていく。行きがけに踏みつけた足跡は、降り積もる雪によって、もう消されつつあった。



「この辺りは、すごい積雪だな。音すら凍り付いたように、とても静かだ」

「これから、もっと激しくなりますよ。今のうちに、薪をたくさん用意しておかないと」

「そういうことなら任せてくれ。力仕事なら何でもやってみせるよ」

「本当ですか? ありがとうございます……ふふっ、旦那様はとってもお優しいのですね。ひとりでないなんて、小梅は幸せものです」



 手伝いを申し出ただけで、小梅の顔には満面の笑みが浮かぶ。

 旦那様という響きにむず痒さを感じつつ、私はやはり、小梅の処遇を気にかけずにはいられなかった。



「村には大人もいるだろう? 年寄りばかりのようだが……小梅ちゃんを手伝ってはくれないのかい?」

「あの方々は、自分たちが生きるのに精一杯なのです」

「そうは言っても、君は子供で……」

「それに、小梅の代わりは誰にも勤まりませんから」



 断言した小梅の言葉は、どこか腹に響く異様な重さがあった。圧倒され、言葉を探せない内に、獣道を抜けて村に続く石畳まで帰ってくる。

 思い返せば、あの村の老人達は皆、この少女を特別に扱い、信奉さえしているようだった。唯一の子供というのも釈然としない。もしそれが本当なら、あの村は破綻も目前ではないか。

 土の入ったケースによって少しだけ靄の晴れた頭を撫で、頬を触って、思い出す。

そう言えば、彼女と出会った時にも、不思議な事が起きたのだった。



「ところで小梅ちゃん。君は最初、私の顔から……」



 私の質問は最後まで続かない。

 突然に、村の方からちぎれるような悲鳴が轟いた。



「ッ今のは?」

「……始まりましたか」



 まるで大勝負を前に気を引き締めるかのように、小梅が息を吐く。悲鳴は灰色の空に痛々しく木霊し、山びこのように消えていく。

 しゃがれたか細い声は、村の老人達の誰かの物だろう。ただ事でない、危険な事が起きているのは間違いなかった。



「小梅ちゃん、ここで待っててくれるかい? 私が様子を見てこよう」



 足早に駆け出し、悲鳴の元まで走り出す。小梅から離れると、冬の寒さは一層強烈に、まるで肌に針を突き刺すような痛みに感じられた。

 悲鳴の発生元は、村の入り口にて直ぐに見つかった。言葉を失い立ちすくむ程の強烈な光景が、私を待ち構えていた。



「な……!?」



 雪降る石畳に、老人の裸体が打ち捨てられていた。

 枯れ枝のように細く萎びた手足が、氷のように冷たい地面の上をもぞもぞと蠢いている。うう、うう……と、薄氷を踏み割るような痛ましい悲鳴が、微かに耳をざわめかせる。生気のない肌から、生々しい紅い血が流れていた。



「一体、何が……ッ!」



 慌てて駆け寄り、私はぞっと息を飲む。裸に剥かれた老爺の背中は、袈裟掛けに斬り付けられていた。ぱっくりと割れた裂け目からは生々しく赤い肉が覗き、黄ばんだ脂肪が薄く這った断面の皮は、この寒さによってもう霜に覆われ始めている。



「ぅ、ぅ……」

「しっかりしろ! 直ぐに手当を──」

「触るでねえ!!」



 劈くような絶叫。

 声を限りに叫んだのは、あろう事か目の前の、地面に蹲る老人だった。

 老爺は衰弱し今にも死にそうな顔をしていながら、落ち窪んだ眼窩の奥に強烈な敵意を滲ませ、私を遠ざける。

 脂汗を滲ませ、ブルブルと身体を痙攣させながら、それでも彼の眼光は、指一本でも触れれば殺してやると言わんばかりに爛々と輝いていた。



「な……!」



 絶句し、周りを見回すと、同じような狂気を孕んだ目が幾つも、私を睨み付けていた。家の隙間から、角の影から、道の脇から、老人達が私と怪我をした老爺を取り囲んでいる。

 誰も手を貸そうとしない。まるで路傍の石でも見るように、今にも死にそうな老爺をじぃっと眺めている。おののき、何かをしようとする私こそが異分子なのだと睨み付ける。

 斬りつけられた怪我人を放置していることへの、義憤も起こらない。ただただ息を飲み、圧倒され、蹲る老人から一歩後退する。



「な、何をしてるんだ、君達は! どうして誰も……!」

「──お待たせしました」



 背後から声が掛かる。柔らかな声音に、私に向けられていた敵意は立ちどころに霧散した。

 波が引くように割れた人混みから、小梅が姿を見せた。



「小梅ちゃん? ダメだ、君が見ていいものでは──」

「旦那様。申し訳ありませんが、ここは小梅にお任せください」



 胃袋に石を落とされたような重たい言葉に、私は後に続く言葉を失う。小梅は私の脇を抜けると、老人達の平伏を受けながら、蹲る老爺へと泰然と歩み寄る。

 今にも凍り付きそうな裸の老人は、へし折れそうな手をブルブルと震わせ、小梅へと縋りつく。小梅はその手を取り、彼の乾いた白髪頭を、そっと抱き寄せた。



「……じんばら、まりしえい、とんじん」



 歌うように、そう唱える。

 変化はすぐに訪れた。抱き寄せられた老人の、ぱっくり割れた傷が、まるで映像の逆再生を見ているように塞がっていく。重篤な痙攣はみるみる内に収まる。今にも死にそうだった呻き声は失せ、ああ……と安らぎの吐息が溢れ出た。



「な……?」



 何度目か分からない絶句。漏れ出た声が消えない内に、老人の傷は嘘のように消えた。

 癒しを受けた老人は、これまで以上に身体を縮め、小梅に深く深く頭を垂れる。撓んだ皮膚を石畳に貼り付けた醜悪な五体投地を受けながら、和服姿の幼い少女は、ただただ超然と、慈しみの笑みを捧げ続けていた。



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