はるよぶ小梅

澱介エイド

第1話


 凍り付くような寒さに、私はハッと意識を覚醒させた。瞼を持ち上げると、睫毛に霜が張り付いていた。薄い氷がパチパチと弾けて、静電気のような痛みが走る。

 上を向いた視界には、古い木組みの屋根があった。煤がこびり付いたランタンが一つ、冷たい風に吹かれてカラカラと揺れている。



「ここは……?」



 身を捩ると、分厚いダウンに纏わり付いた薄氷がパキパキと崩れていく。まるでサナギから孵化するように、半透明な薄い膜を落としながら起き上がる。

 一面の銀世界だった。どこかの渓谷らしく、裸の木々を生やした急斜面が、前後に聳えている。岸壁にせり出した岩は大きく、ここが相当な山奥であることを言外に伝えている。それら全てが、しんしんと降り積もる雪で大きな帽子を被っていた。

 眼前には、古い線路が敷かれていた。並行に二本走った鉄線に雪は積もっていない。しかし、線路の先を見ても、電車らしき物は見えない。降りしきる雪で視界は真っ白にぼけて、遠くの物は何も確認することができない。



 私は酷く当惑した。自分がこんな場所にいる理由が、まるで思い出せなかったからだ。

 私が寝ていたのは、駅舎のベンチらしい。コンクリート製の床に、木製のベンチと簡素な作りの屋根。掲示板には、錆び付いて黒くなった画鋲に、腐りきった紙片がほんの少しこびり付いている。看板のような物があったが、酷く風化して、この場所も、次の駅の名前も判別できない。

 何も思い出せない。自分がここにいる理由も……私の名前さえも。

 一面の雪に、思考まで覆い隠されてしまったようだ。



「ここは、どこだ……いや、そもそも、これは何だ。?」



 疑問を呈した、歯がカチカチと鳴る。

 そうだ、ここがどこかも問題ではあるが、それ以上にこのままでは凍え死んでしまう。

 私は椅子から立ち上がり、駅から出て真っ白な雪を踏みしめる。

周りを見回しても、バッグのような物は見当たらない。私は手ぶらでこんな所に来たのだろうか。雪の降り積もる野ざらし同然の駅舎で、呑気に寝ていた? そんな馬鹿な話はない。



「──あ、起きられました?」



 不意に、背後からそう声をかけられる。

 鈴の鳴るような、愛らしい声音。振り返ると、厚手の半纏を着た和服姿の少女が、サクサクと雪を踏みながら近づいてくる所だった。

 年の頃は、十かそこらだろう。随分と幼い。ふんわりとふくらんだおかっぱ髪の下には、とても柔らかな微笑みが浮かんでいる。



「寝ている内に、温かい飲み物をお持ちしようと思っていたのですが、貴方の方が早起きでしたね。寂しい思いをさせてしまったら、申し訳ありません」

「君は……?」

「まあまあ。まずは一杯、お召し上がりください」



 随分と大人びた調子で私を制し、少女は懐から竹製の水筒を取り出し、同じく竹でできた器に、湯気立つ汁を注いで差し出した。



「生薑湯です。内側からぽかぽかになりますよ」

「い、いや。しかし……」

「怪しいものは入ってません。小梅こうめは絶対、悪いことは致しませんから」

「そうは言っても、君は一体……」

「はちみつ入り、ですっ」



 ふんっと自信満々に胸を張って、少女はずいと竹の器を差し出す。可愛らしい仕草に私は思わず言葉を失い、礼と一緒にそれを受け取る。ふんわりとした優しい甘みの中に、生薑のぴりりとした辛みのある、身体が喜ぶ味だった。

 生き返る心地で、熱い生薑湯をゆっくり飲む。その間に、少女は私の周りをくるくると周り、様子を確かめているようだった。小さい手で、ダウンジャケットに付いた氷をぽんぽんと払ってくれる。



「寒くて、大変だったでしょう。お体、悪いところはありませんか?」

「いや、その……」

「あ、手がぷるぷる震えてます。顔も、とっても真っ赤……しもやけしちゃっていますね」



 小さな柔らかい手で、竹器を持つ手を握られ、顔を触られる。酷い日焼けの後のように、顔がぴりと痛んだ。こんな寒さの中寝ていたのだから、当然と言えば当然だ。そこに至る経緯を、全く思い出せずにいるのだが。

 当惑顔の私の顔に触れながら、少女は桜色の唇を綻ばせて笑った。



「少し、しゃがんでくれますか? 私と、顔の高さがそろう位に」



 少女の声は余りに穏やかで、逆らう気は微塵も起きない。言われるまま雪に膝を着き、少女の目を正面から見つめる。

 改めて、美しい少女だった。ぱっちりと大きな目、小さな鼻、ふっくらとした頬。小さな顔に浮かぶ笑みはまるで祖母のように慈悲深く、そのギャップに、どこか夢見心地にさせられる。

 そうやって見惚れている内に、頬に触れていた手が、後頭部に回された。優しく頭を押され、私の頭は少女に抱き締められた。



「な……」

「しー、です。すぐに、よくなりますよ」



 耳元で囁かれ、小さな手で頭を撫でられる。仕立てのいい艶やかな着物から、古めかしい樟脳の匂いがした。

 驚きと困惑。けれどもそれが収まる頃には、ヒリヒリとした顔の痛みも一緒に消えていた。

 自分の手でも触れてみる。しもやけは完全になくなっていた。そればかりか、手の震えも収まり、凍えそうだった寒さが体から失せている。先ほどの生姜湯の効能とは、到底思えなかった。



「い、今、一体何を?」

「まあまあ。お話は後でゆっくりいたしましょう。ここにいては、また凍えてしまいますよ」



 私の手を握り、少女は渓谷の斜面の一角、細いけもの道を指し示した。



「村までご案内いたします。寒さは厳しいですが、温かい囲炉裏と、簡単なお食事ならご用意できますから」



 さも当然のように、少女は私を歓迎する。彼女の親切に礼を言い、それでも突然の状況にまだ理解が追い付かず、少女に連れられて獣道に踏み入る。

 さくさくと雪を踏みしめながら、私は前を先導する少女に聞いた。



「ええと……君の名前は?」

「小梅です。ただ小梅、とお呼びください」

「そうか……助かったよ。色々とありがとう、小梅ちゃん」



 ふふっと笑って、前を歩く小梅の肩が持ち上がった。



「ごめんなさい、でも……ふふっ。小梅ちゃん。かわいい呼び方ですね、嬉しいです」

「教えてくれないかな。ここはどこなんだい?」

「ここに名前はありません。これから行く村にも、名前はありません」



 裸の細木が立ち並ぶ道を、サクサクと雪を踏み分け迷いなく進んでいく。道標らしきものはどこにもなく、ふと振り返れば、足跡はもう雪で消されつつある。自力で戻るのは不可能に違いない。

 先導する小梅が、お返しに質問してくる。



「何か、覚えておいでですか? ここに来る前のこと」

「それが……分からないんだ。自分の名前も、思い出せなくて」



 頭を振っても、記憶らしい記憶がまるで浮かんでこない。夢を見ているか、得体のしれないものに化かされているようだ。



「何か、大切な事をしていた筈なんだ……とても重大な事を。思い出さなければ……電車なんて物に、乗っているはずがないのに……」

「そのうち思い出せますよ。焦らなくても大丈夫です」



 頭をひねる私を見守るように、小梅は微笑む。



「ここに人が迷い込むのはとっても久しぶりですから。小梅もちょっぴり、浮かれてます。どきどきです。ふふっ」

「大丈夫なのかい? 私なんかが厄介になって」

「とんでもありません。あまりおもてなしはできませんが、歓迎いたしますよ」



 小鳥のさえずりのように朗らかに、小梅が笑う。

 けもの道をかき分け、十分ほど歩き続けると、視界が開けた。不安定な地面が、年期の入った石畳に変わる。

 山間の盆地に作られた、小さな村だった。田畑として使われているのだろう、碁盤の目のように仕切られた平地は、一様に真っ白の雪で覆われている。

 石畳の小道は山裾を添うように続いていて、その先、頭一つ大きな山の裾に、ぼんやりと集落の輪郭が見えた。所々に明かりとして焚かれている火が、雪景色の中、まるで消えかけの蝋燭のようにちらちらと揺れている。

 懐かしい──一目見た時に抱いた感情は、そう呼ぶには余りに強すぎる郷愁だった。茫然とする私のダウンジャケットの裾を、小梅がちょいちょいと引っ張った。



「寒くなる前に、ご案内しましょう。ここは暗くなると危ないですから」

「危ない……?」

「出ますよ。熊とか、お化けとかっ」



 両手を垂らして、凄んでみせる。小梅のその様子が余りに愛らしく、感じた郷愁も霧散してしまう。苦笑して、また差し出された小梅の手を握り、歩き出す。

 辿りついたその村は、私の予想よりもずっと大きい集落だった。世帯数で言えば百はあるかもしれない。しかし、目に入る家々はどれも酷く古びて、今にも崩れそうなほどに痛んでいる。窓はなく、藁を混ぜた土壁はあちこちひび割れている。茅葺屋根には例外なく堆い雪が降り積もり、一部の家はその重みに負けて大きく傾いていた。

 大人二人が手を広げられるくらいの曲がりくねった石畳の道には、寒さにも関わらず沢山の住人が歩いていた。彼等は私を先導する小梅の姿を認めると、ささっと道の脇に詰めて、深々と頭を下げる。



「おけえりなさい、小梅様」

「よくお戻りくだせえました、小梅様ァ」



 大げさすぎる程に平伏し、しゃがれた声でそう挨拶を行う。

 住人は全員が老人で、誰もが酷く痩せ細り、疲れ切った顔をしていた。使い古された木綿の着物からは、枯れ枝のような骨と撓んだ皮の手足が覗いている。この寒さの中佇んでいては、立ちどころに凍り付いてしまうのではと、不安にさせられる。

 村に入った当初から、嫌な雰囲気をひしひしと感じた。深くお辞儀する老人たちは、小梅を見送った後、ついと顔を上げて、後ろを歩く私を睨みつけた。落ち窪んだ眼孔の光は怪しく、よそ者に対する警戒心が悪意になって滲み出ている。



「どうやら、あまり歓迎されていないみたいだが……」

「私がご案内しているんですから、大丈夫です。堂々としていて構いません」



 自信満々に、小梅が言う。その言葉通り、老人達は私を睨みつけこそすれ、私について小梅に問いただすような真似はしなかった。雪降る厳しい寒さの中、しゃがれた老人の挨拶が追従するのは、人目を憚る邪教じみた異様な雰囲気を醸し出す。



「小梅ちゃんは、ずいぶん慕われているんだね。ここの頭領の、娘さんとか?」

「ふふっ。ええ、そんな感じです。家には小梅しかいませんが」

「……君のご両親は?」

「いないです。小梅一人ですよ。ですからこうして、気兼ねなく貴方をご招待できるのです」



 小梅の声音には、悲観は一切感じない。ただ、その説明にだけ、頭上の冬空が乗り移ったような、淡々と乾いた灰色の気配を感じた。

 どうしてか私は、小梅の両親は亡くなったのではなく、最初からいなかったんだろうな、と納得した。超然とした小梅の様子には、そう考えた方がよほど辻褄が合うような気がしたのだ。

 村は山の斜面に沿って扇状に広がっているらしい。小梅の屋敷はその村の中央、山頂を望む頭一つ高い場所に構えられていた。

 屋敷……これまでに見てきた老人たちの寂れた住まいを見れば、そう呼んで差支えはないだろう。平安時代の豪族の屋敷を彷彿とさせる、横長に広い木造の平屋だ。年期を感じさせるものの衰えている気配はない。縁側の砂地は運動会が開けるほどに広く、左の方の敷地の隅には、小さな離れまである。

 さてはあの老人達は、単純に、この豪勢な屋敷に入る事を嫉妬していたのではなかろうか──そう思うほどに、周囲との落差の凄い屋敷だった。



「ささ、上がってください。すぐに囲炉裏を温めますから」

「やはり悪いよ。見ず知らずの私が、特別扱いされる訳には……」

「見ず知らずの人だから特別なんです。もー、意外と強情さんなんですね」



 小梅はむっと眉を持ち上げると、私の背中をぐいと押して、強引に屋敷に上がらせる。



「他所から来た人は精一杯お出迎えするのが、ふるーくから伝わるここの決まりなんですから。あなたは何も、悪く思う必要はないんです」

「そうなのかい?」

「それに、おじいさん達は、頼んでも絶対泊めてくれませんよ? 寒さも凌げず、危ない目に遭ってもいいんですか? 良くないですっ。小梅が!」

「わ、分かったよ。お言葉に甘えさせて貰うよ、小梅ちゃん」



 勢いに気圧されるままそう言うと、小梅は表情を綻ばせて微笑んだ。柔らかい彼女の笑みは、この極寒の中では温度さえ感じる程に優しく見えた。

 案内された屋敷の造りも、やはり相当に古く、私は矢鱈と広い居間に案内された。

 当然、暖房のような物もなく、木製の床から、氷のような冷たさがポリエチレン製の厚手の靴下を容易く突き抜けて足裏を攻めてくる。

 たちまち歯を打ち鳴らす私とは真逆に、小梅はやはり泰然として、隣接した台所の石窯から炭を取り出し、居間の中央にある囲炉裏に積んだ。赤い竹炭から熱が放出され、私は吸い寄せられるように囲炉裏の傍に蹲る。



「す、すまない……何か、私にも手伝えることがあれば」

「ふふっ。そんなに歯を鳴らしながらじゃ、説得力ありませんよ。すぐに、温まれる物を用意しますから」



 小梅は寒さなんて意にも介さず、慣れた調子で台所に向かう。

小梅が竃の火を入れてしばらくすると、空気がほんのりと温かくなり、やがて仄かに芳しい湯気が立ち上る。



「稗のお粥です。身体も温まって、お腹も満足できますよ。お味噌で味付けしてますから、そのままどうぞ」

「ありがとう。実は、そろそろ空腹も限界だったんだ」



 煮立った粥を一杯に注がれた椀を受け取り、恐る恐る口をつける。

 火傷するような熱が凍えた身体を呼び覚ます。とろみのある粥をゆっくり咀嚼すると、仄かな稗の甘みと、味噌の風味豊かな塩気が広がる。感動と一緒に飲み込めば、食道から胃袋にかけて、じんわりと熱が染み入り、身体を生き返らせるようだった。



「不思議だ。何だか、とても懐かしい味がする。稗なんて、一度も食べたことない筈なのに」

「ふふ、ここに来た人は皆、同じように言われるらしいですね……お味は、大丈夫ですか?」

「ああ、生き返るようだよ。本当、文字通りに」



 心の底からの感謝を述べると、小梅は満足げにうんうんと頷き、自分の分の腕を持って私の対面に座る。



「もしかして、君が食べる筈の分だったかい?」

「いえいえ。少し多すぎるくらいでしたから、気にしないでください……あふっ、あふ」



 粥を頬張った小梅の口から、まるで機関車のように蒸気が漏れる。しっかりしているのに、ふとした所作は子供っぽいいじらしさがあって、見ているこちらの頬も緩んでしまう。

 ずっと眺めていたい気持ちをぐっと堪えて、私は小梅に、改めて話を切り出した。



「私のように、時々迷い込むと言っていたね。ここは一体どういう場所なんだい?」

「山奥の、小さな村ですよ。どういう場所、というのは、少し答えにくいですが。何か呼び名が欲しければ、中津、とお呼びいただければ」

「ここの生活は、随分違うようだ。私とは、その……色んなものが」



 私は自分のダウンジャケットや防寒ズボンを見下ろし、手にした木器の稗の粥を見、それから和服姿の小梅を眺める。

 不思議だった。違う、とは漠然と分かる。けれどそれを言語化しようとした瞬間、頭が曇る。何が違うのか、どうして違うのか、それを考えることを、何者かに邪魔されているような気分。

 頭を抱える私の様子も、ここではよくある事らしい。小梅はくすくすと笑って、粥を一口。



「皆、戸惑うみたいです。ここに来る前に、色んな物を雪の外に置いて来ちゃうみたいで」

「記憶も、自分が何者かについても、かい?」

「ええ。それでも、あなたは本当に久しぶりなんですよ? 何十年、ひょっとしたら何百年ぶりかも」



 何百年──それは、そんな世間話のように言っていい長さだろうか?

 呟くようにそう言って、小梅は器を置いた。やはり粥は、私に多めに注いで貰っていたらしい。礼を言うと、小梅はまたも泰然と微笑んでみせる。



「部屋は余っていますから、しばらくはここにお泊まりください。寒さは厳しいですが、暖とご飯はご用意できます」

「厄介になるね。できれば、早めに自分の事を思い出して、お暇するようにするよ」

「焦らなくても大丈夫ですよ。いつか自然と思い出し、帰るべき時が訪れるはずです」

「……いつか?」

「いつか、です。けれど、あまり一人で出歩かないようにしてください。必要であれば、小梅が同行いたしますから」



 ぱちん、と竹炭が小さく弾ける。破裂音が広く寂しいこの屋敷に遠く木霊して消える。



「寒さは、とても厳しく、怖いですからね」



 会話の末尾にそう添えて、小梅はそっと両手を合わせて、ごちそうさまでしたと呟いた。


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