第9話 パラダイス

 SAを出る。

お姉様の膝は座り心地満点だ。


「ハローくん。卒業、おめでとう!」

「……ちょっと早いですよ。まだ1月ですし」


 その前に受験もある。卒業できたからって高校生になれるとは限らない。


「おめでとうだよ。だって、これでお別れができるもの。

 お互いの門出を祝いあえるもの」


 最初は意味が分からなかった。

だけど、お姉様はちゃんと説明してくれた。


 お姉様の横に座り直す。

お姉様が身体を傾けてくる。背中からそっと腰に手をまわす。

僕の言葉遣いが丁寧じゃなくなったことを、お姉様は受け容れている。


「ううん、卒業するのは私。大雅や景子も。2人はまだ素直じゃないけどね」

「2人には嫌われちゃったみたいなんだ」


 弁当係も洗濯係もクビになった。しかも一方的に。自信をなくしてしまう。


「それは、ハローくんが優し過ぎるからいけないの。

 2人とも一晩中泣いていたんだから」


「どうして? どうして別れを告げた側が泣くの?」


 意味が分からない。


「そうね、おかしいわよね。泣くくらいなら別れなきゃって思うわよね。

 でも、それもハローくんのせいよ。

 ハローくんから離れなきゃって思うの、いいえ、感じるの。

 私もそう。最後に思い出を作らないのは、2人にはプライドがあるから」


 僕にとっても今日が、お姉様とのいい思い出になったのは間違いない。

本当にパラダイスにいるみたいに居心地がいい。


「だからお願い。娘たちのいい思い出にもなってあげてちょうだい。

 1度でいいから、今の私ぐらいぐっと近くに手繰り寄せてあげて」


 それはできない。


「2人とこの距離だと、僕は緊張してしまい、上手くできるかどうか」


「あらっ、私とだって最初はそうだったわよ。

 今朝は特に挙動不審だった」


 言われてみればその通り。いつのまにか普通に接することができていた。

その理由はよく分からない。僕に心境の変化があった自覚もない。

ただ、無防備に寄りかかるお姉様にそれを知られたくはない。


 だから、戯けてみせた。


「そんなにーっ。それはさすがにへこみますって」


「ふふんっ。ねぇハローくん。

 ハローくんの持つ美少女レーダーの本質、分かる?

 私はこう考えるわ。ハローくんの感じるビビビッは……

 『仔猫をはじめて抱いた少年の緊張』……じゃないかしら」


「僕が少年で、景子たちが仔猫?」


「そう。無害な仔猫。小さい仔猫。まだ目も開いていない仔猫。

 ちょっと力の加え方を間違えれば、潰れてしまいそうな仔猫。

 少年はどうしていいか分からない。元に戻すこともできない」


「ヘタレですね、その少年。ちゃんとかわいがってあげればいい。

 ご飯あげたり、トイレの砂を替えてあげたり、撫でてあげたり」


 少なくとも僕だったらそうする。

そうやって仔猫のために力を尽くすのが少年の役割だ。飼い主として!


「……でも、それだけ?

 どこかへ行ってしまわないか、心配にならない?

 首輪はつけてあげないの?」


 お姉様は言いながら手を滑らせ、僕の首に巻き付く。

顔は見えなくなったけど、ぐっと近くなった。

正面と横では感じる重量が違う。


 首輪をつけるなんて、考えたこともなかった。


「そんなの、まだ目も開いていないんじゃ無理だって。

 心配ないし、首輪だって要らない……でしょう」


 一方で、今のお姉様を振り解いてもどこかへ行ってしまうことはないだろう。

お姉様にはもう、首輪がついている。遠くに行かないと思えるのはそのため。


 そう思ったから、試しに1度お姉様を剥がす。

それでもお姉様は遠くに行ったりはしないことをたしかめる。

両手をお姉様の肩に乗せてあるから、お姉様は僕に近付くこともできない。


「でももし、仔猫がいつのまにか大きくなっていたら?

 目が開いて、どこへでも行けるようになっていたら?」


 お姉様がちょっと拗ねているのが堪らない。抱きしめたい。

けど、ぐっと我慢。引き寄せるではなく、ただ肩から手を退ける。

それだけでどうなるかは想像がつく。


「それは大変。仔猫はどこかへ行ってしまうよ。

 ちょうど、今の景子や大雅姉のように。陽子もそうなのかもしれない」


「違うわ。仔猫はちゃんと覚えてる。少年の手の温もりを、ちゃんとね。

 だから、少年から離れようとしないの。いつまでもずっとね」


 そこまで言ったときには、お姉様は想像通り、僕の胸の中にいた。

本当は、華奢なお姉様くらい充分に自分の身体だけで支えられるけど、

想像以上に気持ちがいいから、勢いを利用して倒れる。


「2人とも素直になってくれたらいいのに。

 今よりずっとマシなお別れができる」


「そうね。母親としては2人のプライドをズタズタにしてもらってもいいわよ。

 今のままは2人にとってもサイアクだから」


 そんな、くだらないはなしをした。




 時刻は8時15分。

さすがにお姉様の車で登校するわけにはいかない。

ここからだと、歩いたら15分以上はかかる。

だけど走れば3・4分ってところだ。


「大丈夫。充分に間に合いますから」

「そう? じゃあ、私はゆっくり行くわ」


 ちょっと意地悪に言う。


「いいんですか? 8時30分には学校に着かないと教頭に怒られますよ」

「連絡済み。管理職の特権!」


 そうきたか。


「ちぇっ。ズルいや、先生」

「さすがに武田くんを遅刻させるわけにはいかないわよ」


 互いに学校モードの2人称に戻ったことを確認。


「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい、成長した少年!」


 あとは、ダッシュあるのみ!


 そして数分後、坂を超えたところに大柄な北条を発見。

しばらくして小柄な今川も目視する。


「おーい、今川、北条。2人とも、おはよう!」

「おっ、ハロー氏。おはようでござる」

「おはよう、ハローくん」


 直ぐに北条の鼻が動きはじめる。


「くんくん、くんくんくん。あれっ、ハローくん。幸せの匂い……」

「ハロー氏、朝から天国気分とは、何かいいことあったでござるな?」

「違うよ、天国じゃないよ。パラダイスだよ!」


 言ったあとでちょっと恥ずかしくなって、2人を置き去りにして走る。


「ハッハロー氏。追いつけないでござる」

「まっ、待ってーっ!」

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