第8話 朝日

「わぁっ、日の出ですねーっ」


 テンションが上がる。船の上にいるようで、そよぐ風も心地いい。

お姉様の直ぐ右だから、もちろんビビビッだけど。


「ハローくん、それは違うわ。薄明というの。日の出まではあと10分くらい」


 お姉様、頭いい。校長先生だってことを思い出してしまう。


「大自然の前では、人間なんてゴミのようだって、思わない?

 太陽なんて、沈んだらまた登るのが当たり前でしょう。

 なのにどうして美しいと感じてしまうのかしら」


 本当だ。人間なんかちっぽけだ、ゴミのようだとは言わないけど。

だけど、違うことも考えてしまう。人間は美しいものだって。

僕が今ビビビッなのも、間違えでないことを裏付けてくれる。


「僕は、人間も美しいと思いますよ。お姉様とか」

「それは見た目の問題? それとも内面のことかしら?」


 内面の美しさ。そんなものに注目したことは1度もない。

だから「……分からない」と、言うしかなかった。


「へぇーっ。敬語じゃないんだ」


 あっ、本当だ。どうしてだろう。また、ビビビッが中和されてるんだろうか。

理由を探していると、左に重量を感じる。お姉様が寄りかかってきたようだ。

痛くはないけどひとりの女性を支えることが、こんなに難しいんだなって思う。


「……おっ……お姉様」


 一瞬『あばさん』って言いかけたのを隠す。

身の危険を感じての、戦略的撤退というやつだ。

お姉様の機嫌はすこぶる良好。


「なぁに、ハローくん♡」


 くんのあとがあからさまにハートなのは気のせいだろうか。

こんなに甘えてくるお姉様ははじめて。正直、グッとくる。

もし、左腕が自由に動かせたら、お姉様を抱き寄せてしまうかもしれない。


「なんか、いつもと雰囲気が違うみたい……です」


 丁寧な言葉遣いになるように、最後にかろうじて『です』を付け加える。

僕がお姉様をこんなに近くにしておきながら普通だなんておかしいから。

ビビビッでないことを認めたくはないから。


 お姉様はそれを知ってか知らずか、無邪気に振る舞う。


「いいの! ここには大雅も景子もいないから……」


 それはそうだ。お姉様の車は定員2名。大勢での移動はできない。

2人きりなのは当たり前だ。まわりだってほとんどがカップル。

場所も場所、時間も時間だ。家族連れなんて全くいない。


 それでもまわりの視線が気になる。僕に向けられているのは嫉妬の目。

周囲で燃え上がっているのは怨嗟の炎。お姉様は校長先生なのに……。

世の男性に言いたい。隣に連れている人をもっとよく見てあげて!


「……私は今、ひとりの女よ」


 言いながらおでこを僕に押し付けて、僕の体側をごろりと転がるお姉様。

気が付けば、お姉様は僕の胸の上、喉の直ぐ下あたりに額を付けている。

その刺激は心地いい。大人の人の髪の香りがすごい。


 少し手を伸ばせば抱き寄せられる距離にいる。

側からは、とっくに僕がお姉様を抱いているように見えるかもしれない。

視線がグッと強くなったのは気のせいではないと思う。


「……何でもない……です。呼びたかっただけ……です」


 妙に冷静な僕は、言いながら両腕をそっと前にして輪っかを作る。

お姉様は僕がいつも通りビビビッだと思っているのだろう。隙だらけだ。


「ふぅーん。じゃあ、私が訊いていい?」

「どっ、どうぞっ……です」


 お姉様が顔を上げる。僕の方が少し背が高いせいで、お姉様は上目遣い。

近いっ! 鼻と鼻、くちびるとくちびるがくっつきそう。

お姉様の髪の香りがふわっと漂う。

額からの心地いい刺激はなくなったけど、

代わりにもう少し低い位置に、もっと心地いい刺激が生じている。

2人の娘を細腕で育て上げた母親の力強い胸の感触だ。


 さらに、お姉様の両腕が僕の肩にしがみつく。


「おばさんって、何こ上から? いくつまでがハローくんのストライク?」

「そんなの、何で今……」


 訊くのか。それを言ったらおしまいな気がして、そこで止める。

おばさんって呼びかけたのを察知されたんだろうか。

お姉様なら充分にあり得る。


 まわりの男から僕に向けられていた怨嗟の目が薄らいでいく。

代わりに恋愛映画のクライマックスを見るような、うっとり感が漂ってくる。

男も女もみんな、お姉様の美しさに見惚れてる。完全に、心を奪われている。

それくらい、今日のお姉様は美しい。


 1番近くにいる僕が、何も感じないはずはない。


 僕は、不肖にも計算してしまう。お姉様は、何歳かを。

お姉様を傷付けないように、上手く諦めてもらえるように。襲われないように。

さすがに前カノの母親とどうこうなってしまうのはまずい。


 あまり低いと『おばさんの魅力を、教えてあげる』とか言って襲われそう。

開き直ったお姉様ほど厄介なものはない。


 あまり高いと『セーフ、私はハローくんのものよ』とか言って襲われそう。

ごきげんなお姉様も厄介にはかわりない。


 だからといって、はぐらかしたら何をされるか分からない。

どっちに転んでもダメ。絶妙なラインをつかないと襲われる。

天国行きだ。


 今、僕と景子は15歳。大雅が16歳。

お姉様が23歳で初産だったとして、今は39歳。

それよりちょっと低いところに設定すれば、大丈夫なはずだ!


「おばさんの境目は兎に角、35歳までなら興味あるかな……です」

「35? 今、35って言ったの!

 やったーっ。セーフ!」


 言いながら輪っかの中で暴れるお姉様。両手を挙げて万歳する。

おっ、襲われる。なんで? どうして?

16歳の娘を持つ人が35歳より若いなんて!


「私、33歳だからーっ。やっぱり、お姉様だったーっ!」


 万歳の反動でお姉様の脚が縺れる。バランスを崩し、倒れかかる。


「あっ、あぶないっ!」


 咄嗟に作ってあった輪っかを狭める。

抱きしめることでバランスを整える。


「はっ、ハローくん……」

「お姉様……」


 そのまま、朝日が昇るのを見た。

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