第9話





 一度訪れた"くろぬろ"は、もう何があっても六花を連れて行くつもりらしかった。

 学校中の懐中電灯を掻き集めて、辛うじて動いた原付に巻き付けて、サイレンが鳴り響く学校から逃げだす。くろぬろは月の明るい夜に黒い染みを落とし、俺達を追いかけてきた。

 俺は少しでも長く六花を守るべく、家の全ての電気を付けて回る。その労力を嘲笑うように、影はあらゆる場所から染み出し、家を黒で塗り潰していった。その度に俺はランプを投げつけ、カーテンや洋服に火を付けて、それを追い払った。

 無駄な足掻きと分かっている。それでも抗うほかに無かった。怯え、必死で抵抗する俺を、六花は話の通じない昆虫でも観察するような目で、ずっと見つめていた。

 俺は影が浸食してくる恐怖に夜通し怯え、そして朝が来ても、六花がいなくなる不安に、目を閉じる事もできなかった。

 余りにも不毛な、無謀な籠城は、果たしてどれだけ続いただろう。

 時間の流れは明らかに狂っていた。夜は気が狂うほどに長く感じられた。朝を数度迎えた気がするが、まったく現実味が無く、記憶にもない。身体はとうの昔に悲鳴を上げていて、消耗しきった心は、ただ迫りくる影におびえる事しか許さなかった。

 度重なる影との応酬で、カーテンや衣服は粗方燃え朽ち、部屋のあらゆる場所に焼け焦げた黒い跡が染みていた。電気は、壊れている様子はないのに、触ってもぴくりとも反応しない。

 まるで映画でも見ているような他人事の調子で、六花が聞いた。



「何日も何日も、よく頑張るね。でも、これ以上続けてどうするの?」



 六花の言葉は、自分が何のためにこうしているのかを見失わせる。地面が急になくなったように、心が闇に落ちていく気がする。

 それでも俺は、衰弱した身体に鞭打ち、奔走する。

 失うのが恐いから。影に飲まれるのが恐いから。



「ねえ、明良。明良は本当は、何が恐いの?」



 玄関先に堆く積まれた郵便の束を引っ掴み、六花の足下にぶちまける。

 燃えるものが必要だ。部屋に散乱していた参考書は、いの一番に燃やして明かりに変えた。思い出なんて一つもない。学んだ物も何もない。分厚い医学の本は、全て読んだフリをしていただけだった。

 そして、最後に残っていた紙束に手を付ける。罪悪感で捨てきれず、それでも読む気には終ぞなれなくて、放り出されていた郵便物の山。毎週欠かさず、都会から届いていた手紙。

 残さず引っ掴み、六花の足下に放る。一度、勇気を出して封を切った封筒の中から、手紙が弾みで飛び出してきた。ボールペンで書かれた末尾の『父より』という文字を睥睨して、六花が泰然と言う。



「知ってるよ? 中学校の時から、成績が良くなくて怒られてた事。自分に実力がないのが嫌で、医者なんてなりたくなかった事」



 夕焼け空の庭に飛び出し、倉庫からべたつくプラスチックのポリタンクを引っ掴む。帰り際に仰ぎ見た夕暮れ空には、塗り潰したような黒が雲の代わりをするように蠢いている。



「才能が無いのが分かってるから、向き合いたくないんだよね。明良のお父さんは、それを分かってくれなかった。俺の息子ならできるはずって、明良を医者にする事を諦めなかった……子供を天才と信じてたんだ。私のお母さんといっしょだね」

「うるせえ……!」

「私は、いい理由になったよね。六花が大事だから、勉強なんて二の次にできた。うるさい親を、そんな場合じゃないって怒れた。私がまともじゃなくなった時、本当は逃げる口実ができたって思ったんじゃない?」

「うるせえ!」

「それなのに明良は、ここで医者志望の物真似を続けてた。将来は医者になるって、つまらないアピールしてた。嫌で嫌でたまらなかったはずなのに……ねえ明良。あなたの影を踏んでいたのは、本当に私?」

「っ……!」



 酸化しきって粘ついた泥のようになったオイルを手紙の山にぶちまけ、ライターで火を点ける。身の丈を越える巨大な火が、たちまち手紙の束を燃やしていく。

 粘っこく重たい炎が、手紙を焼いていく。便箋が燃え落ち、ビニールが溶け、ボールペンで綴られた文字が白日の元に晒される。

 ──連絡をしなさい──父さんはまだ許していないぞ──そこでぐずっていい男じゃないだろ──これ以上あの娘に関わるな──お前にはお前の生活がある、医者になるという目標があるだろう──連絡はどうした──人として最悪だ──親を何だと思っている──恥さらし──親不孝者──

 燃えかすの一片。たった一瞬の文字だけでも、脳内に飛び込んで俺を穢してくる。プレッシャーが脳を締め付ける。

 虚しさが、劣等感がフラッシュバックする。目を覆っても、叫んでも、一度始まったそれを止める術はなかった。



「お前の為ならなんでもできたんだ! お前が好きだから傍にいて欲しかった! 医者とか将来とかどうでも良いんだよ! お前さえ……お前さえいれば……!」

「そうだね。私がいれば、明良は私以外を捨てられるもんね」



 超常の目で俺を見る六花。彼女は、俺の本心をとうに見透かしている。



「明良は、変わる事が怖いんだ。私を殺した罪人になりたくない。親の期待を踏みにじった、失敗作になりたくない。変わる事も怖くて、私の誘いに踏み込むこともできずにいる」

「っぐ……!」

「みじめな自分を見なくてすむから、私を救ったヒーローになりたいんだ。ここにいる理由が欲しくて、私にいなくなって欲しくないんだ」

「違う! 俺は……!」



 反論したくても、言葉が出ない。六花の言葉は図星だから。俺が違うと、信じたいだけなのだから。

 ごうごうと凄まじい勢いを上げる炎が、天井に燃え移った。橙色の強烈な光が、どんどん広がっていく。

 家が燃えていく。何もかもを焼き尽くす。こうなる事は分かっていた。六花を守るためなら何でもする、その暴走した使命感が、俺を狂わせている。

 炎の向こうに、超常の気配を感じる。観客として、俺と六花の結末を興味深げに見ている。光に抱かれて丸焦げになるか、闇に抱かれて消えて無くなるか。俺に許される選択肢は、もうこの二つしかない。

 身体の震えが止まらない。炎に囲まれているのに、歯の根があってくれない。

 膝を折り俯く俺の身体を、六花はそっと抱き締めた。



「……ケジメをつけろとか、そんなダサい事を言うつもりはないよ」



 優しく、諭すような声が耳をくすぐる。母のように、悪魔のように、俺を包み込んでくる。



「私はね、もうどうでもいいの。怒ってないし、悲しくもないし、罪を償えなんてちっとも思わない」

「っぐ、ぅ……」

「全部、明良の好きにすればいいんだよ。一緒に来てくれれば嬉しいって、ただそれだけ。怖いなら逃げればいい。どこにも行けないならここで死ねばいい」



 細く柔らかい指が、俺の髪を梳いてくる。歌うように朗らかに、俺の人生の決断を迫る。



「ね……明良はどーしたい?」



 業火が広がっていく。辛うじてつなぎ止めていた俺の努力が、灰に変わっていく。天井の梁が崩れ落ち、燃え盛る室内に轟音が木霊した。

 俺の大事な物も、虚勢も、崩れていく。

 全てが消えていく。

 なら、俺自身も消えるべきなのだろうか?

 もう何も分からなかった。自分が本当は何がしたいのかも、今までしてきた事に何の意味があったかも。

 信じられる物があるとすれば、ただ一つ……自分自身の胸の内にあるものだけで。



「……お前が好きだ、六花」



 ぐずぐずに腐った心から漏れ出た本心を、にひひっと笑って六花が受け取った。



「私も大好きだよ、明良」



 次の瞬間、音を立てて天井が崩れ落ちた。梁が崩れ、まるでスイカを割るかのように、屋根から二階までを含めて、真っ二つに引き裂かれる。

 見上げるそこに、星はない。月はない。夜空は潰え、黒よりも尚黒い、本物の闇が広がっていた。"無"という圧倒的な存在感。放つ押し潰されそうな途方もない圧力の向こうに、形容し難い異様な存在が、俺達を見下ろしている。

 ふわり、と六花の身体が浮き上がった。抱き締められた俺も一緒に浮上し、焦げ付いた床から足が離れる。

 炎が一気に遠く、熱が感じなくなる。六花の、恐ろしい程の包容力に、思考が煩雑になる。

 少しでも目を逸らすと、上昇した先にあるソレの存在に、恐怖せずにはいられない。だから俺は六花に包まれ、考えることを放棄する。浮遊感に身を任せ、胎児のように蹲る。



「忘れちゃおうね、明良。過去とか、将来とか、嫌な物は全部、私が飲み込んじゃうからさ」



 愛おしげに、六花が笑う。返事すら返せないまま、俺は六花と共に、空へ昇っていく。闇に落ちていく。

 闇に踏み込むと、影が俺に纏わり付いてきた。身体の輪郭が崩れ、俺を形成していた物がほぐされていく。細切れにされて、物質界から追放されていく。



「怖いよ、六花」

「大丈夫。私が着いてるよ。どんなに深く、広くばらまかれても、きっと一緒にいるからさ」



 にひひ、と六花が笑う。怖くて目を開けられないけれど、きっと六花は、俺よりももっと酷く崩れているに違いない。

 六花によって連れて行かれる。現実味がないまま、現実でない場所へと攫われる。

 怖くて発狂するのを、六花が抑えてくれる。抱き締めて、俺をつなぎ止めてくれる。

 怖いけれど、これが救いだと思った。不安でしょうがなかった何もかもから、俺を解放してくれる。六花のいる場所へ、俺も連れて行ってくれる。

 生きていて欲しい。日常に留まって欲しい。しがみついていたそれらの希望が、霞みのように消えていく。

 きっと俺達は、水面を目指す泡のように、浮いて、辿り着いた途端に弾けて消えてしまうのだろう。とうてい想像もつかないが、それはきっととても気持ちがいいに違いない。

 夢のよう。そうだ、まさしく俺が夢見ていた事だった。六花と一緒にいられるのだから、もうどこだっていいじゃないか。

 震えが次第に消えていく。自分という存在が薄れていく。強烈な眠気に瞼が落ち、魂までも闇に消えていく。





 その微睡みの隙間に、小さな破裂音を聞いた。

 どこか遠い場所で起こった、ぽふんという破裂音。疑問に思う間もなく、それは更に大きな爆発と一緒に、強烈な光を空に放った。

 夏祭りの、打ち上げ花火だった。射出された尺玉が俺達の真横で咲き、色鮮やかな閃光が、花になって夜空に咲き誇る。

 俺の身体が、重力を取り戻した。がくんと落ちた俺の身体が、影の帯に引っかかって空中にぶら下がる。

 身体の半分以上を影に同化した六花の、意外そうに丸くした目が、俺を見下ろしていた。



「へえ、そっか……そういう風に、なっちゃうんだ」



 納得する声を断ち切るように、二発目の花火が咲く。俺を包んでいた影の帯が千切れ、六花から引き剥がされていく。



「六花、待て……!」

「ここで邪魔されるってことは……つまりは、そういうこと、だよね」



 手を伸ばしても、俺は重力には逆らえない。六花はどこか得心した風に、優しい目で俺を見下ろしている。

 赤、青、緑、オレンジ。色鮮やかな光が放たれて、夜空に舞う俺達を引き裂いていく。美しい火が夜を眩しく照らす程に、俺の未来を奪っていく。



「何でだ! 俺は選んだぞ! お前を選んだじゃないか、六花!」

「うん。けれど神様かおてんと様が、ダメだってさ。そんな逃避、許さないって」



 六花はどこまでも超然と微笑む。俺に絡みついてた影の帯が、ぶちぶちと千切れていく。



「ちょっと寂しいけど、まあいいや。離れてても一緒とはいかないだろうけど、お互い上手い具合にやっていこうよ」

「嫌だ! 嫌だよ、六花!」



 自分じゃ空も飛べないくせに、我武者羅に手足を振り回し、六花を求める。花火は益々眩しく、綺麗に夜空を彩っていく。



「生きてどうしろっていうんだよ! 六花がいない! 夢もない! そんな状態で、どうやって……!」

「肩の力抜きなってー。お別れは寂しいけど、誰にでも当たり前にあることなんだから」



 様々な色の光に、六花の顔が浮かび上がる。

 最期の別れと知りながら、その顔はやはり、どこまでも超然としていて。



「ねえ明良。私はなーんにも、気にしてないよ。だって明良が、私を外に連れ出してくれた。病人だった私の心を、解き放ってくれたんだもん」

「っ……!」

「だから、君はなーんにも悪くない。私をここまで連れてきてくれて、ありがとう」

「……」

「ああ、そっか……こういう言葉を、言ってこなかったんだね、私は」



 一際、大きな花火が咲き誇った。

 俺を絡め取っていた最後の帯が千切れ飛ぶ。闇の中に沈む六花の顔が、遠ざかっていく。



「六花ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「色々ありがとね。がんばれ、明良」



 色鮮やかに照らし出された顔が、にひひっと愉しげに微笑んで。

 そうして俺の愛する女性は、真っ逆さまに落下していく視界の中で、小さく、闇の中に溶けて消えていった。



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