第8話
夕焼けが、世界の縁にぐんぐん沈んでいく。
昼間あれほど熱く鬱陶しい光を放っているくせに、去る時には余りにもあっけない。海岸線に落ちていく赤い夕焼けの速度は、目視できるほどに速く、無情だ。
「っ六花……!」
六花は消えた。服も鞄も砂浜に置いたまま、穏やかな笑みを浮かべて、忽然と消えた。
呼ばれた。呼ばれた。
悪寒が全身を駆け巡っている。夜が迫るごとに真夏の熱さが引いていき、俺の魂までが失われていくように感じられた。
呼ばれた。どこへ? 六花は一体、どこに行った?
世界のあらゆる場所に影があるのと同じくらい、六花の行きそうな場所は判然としなかった。どれだけエンジンを吹かし、夕暮れの道路を危険な速度で走ろうとも、近づいている気は微塵も起きない。
「くそ、くそ……くそぉ……!」
手が、耐えがたい感情に震える。ハンドルをとてつもない力で握りしめ、まるで癒着されたようだ。
迂闊だった。最悪だ。あんなに存在を仄めかされていたのに、目を離してしまうなんて。
お迎えが来ていると言っていた。楽しげに、すぐそこまで来ていると、歌うように呟いた。
六花は何も畏れていない。やってきたお迎えに付いていく事に、何の躊躇いもない。
彼女の足下に縋り付き、泣きながら懇願して、それでやっと六花はこっちを振り向いてくれる。俺が恥も外聞もかなぐり捨てて願う事で、六花をここにつなぎ止めていたのだ。
終わりにさせたくない。消えて欲しくない。それなのに、無慈悲に日が沈んでいく。揺れる橙色の輪郭に、命綱がジリジリと焼き焦がされていくように錯覚する。
心臓の鼓動が痛い。肺が酸素を取り込んでくれない。吹き出る汗が体を伝い、夏なのに凍える程に寒い。
諦めるという選択は、片隅にも浮かばなかった。恐ろしい程に儚い六花の笑みが、頭を埋め尽くしている。もしこのまま会えなくても、俺は永遠に原付に乗り、何日も何年間も六花を探し続けるだろうと思えた。
そんな俺の必至の願いが、通じたのかもしれない。あるいはそれも、六花が面白がって俺を試しただけなのかもしれない。
夕焼け空が紫に変わり、月が輝きを放ち始める。絶望が心に満ちるほんの一瞬前。
闇雲にハンドルを切って向かった学校の前で、俺は灰色の校舎の壁に浮かぶ人型のシルエットを見つけた。
「六花ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
迷っている時間はなかった。六花の体は上昇を続け、二階の窓を追い越した。紫色に照らされた校舎の壁に、常軌を逸した細長い影がのたうって、六花に絡みついている。
俺は開け放たれていた校門をくぐると、原付のハンドルを目一杯回して、玄関のドアに突撃した。
とてつもない衝撃。施錠されていたドアの片方が吹き飛び、俺を放り出してはじけ飛んだ原付が、靴箱を巻き込んで崩れ落ちる。床のタイルが俺の背中を思い切りぶん殴り、身体が固い床の上を跳ねて壁にぶち当たった。
体がひしゃげる感覚。死ぬほど痛い。けれど六花が消える恐怖に比べれば、死なんてどうでもいい。俺は階段を駆け上がる。各階にあるボタンを殴りつけて明かりを灯しながら、一目散に屋上へ。
屋上のドアを開け放ったのは、柵を越えた六花の身体が登り始めた月に重なる、まさにそのタイミングだった。水着姿の六花は、まるで海原に身体を漂わせるかのように宙に身を投げ出し、長い黒髪をイソギンチャクのように不気味に漂わせている。
「六花!」
「……だと思った」
くすりと六花がほほ笑む。その表情は、紫色の空に覆われ、判然としない。
どこからか伸びた帯状の影が、俺の脚に絡みついた。あっと思う間もなく、脚が救い上げられ、屋上のコンクリートに頭を強かに打ち付けられた。
「やっぱり明良は、私と一緒にいたいんだね」
「六花、待て……!」
「いいよ、連れてってあげる」
人が抗える力ではなかった。足に絡みついた影が俺を引きずり、虚空へと持ち上げる。屋上の乾いたアスファルトが、ゆっくりと遠ざかっていく。
六花の様子が違う。今までの、悪戯にいたぶり、弄ぶようなものではない。俺をもみ消し、挽き潰そうとするような、遠慮のない捕食の気配を感じる。
ぞっとし、もがこうとするも、その手にするりと影が絡みついてくる。俺は必死でポケットの百円ライターを引っ掴むと、その拳に、脱いだシャツをぐるぐると巻きつけた。
帯状の影が蛇のように絡みつき、俺の拳をぎゅっと締め付ける。骨が折れそうな圧力。粘土細工のように、身体を別のモノに作り替えようという悪意を感じる。
「ぐっ……う、うううううう!」
歯噛みしながら、俺は手にした百円ライターを握りつぶした。硬い樹脂が砕け、破片が掌を突き破る。鋭い痛みと引き換えに充填されていた液化ガスがシャツに染み渡る。
一瞬の躊躇いも許されなかった。俺は可燃性の液化ガスでびしょ濡れになった手で、ライターのフリントを弾いた。
拳に赤い火が灯る。裂傷から噴き出た血を、肌を、爪を燃やして、橙色の明かりが広がる。
人ではない、甲高い悲鳴が聞こえた気がした。まとわりついていた影が掻き消えて、重力が戻ってくる。影に飲まれていた六花が落ちてくる。
「六花!」
彼女の体を受け止めるので精一杯で、俺は背中をコンクリートに強かに打ち付けた。肺が潰れて、空気が全部吹き出る。激しくせき込みながら、ようやく捕まえた六花の手を取り、走り出した。
「逃げるぞ、早く!」
「どこへ? 何で?」
「いいから!」
水着姿の六花は、どこか夢想するような焦点の合わない目で、ふわふわと浮いたまま俺に引っ張られる。燃え盛るシャツを放り投げると、火は唐突に消え失せて、夜の闇に溶けてなくなった。
階段を駆け下りて蛍光灯の下に辿りつくと、やっと六花は着地した。貼り付いた穏やかな笑みは余りにも達観していて、まるで決して破れない透明な膜を挟んで向かい合っているような距離感を感じさせる。
「っ何で、急にいなくなるんだよ……!」
「だって、明良が踏ん切りを付けてくれないから。背中を押してあげようと思ったんだよ」
「背中を押す? 突き放すの間違いだろ」
「どっちでもいいよ。ホラ、逃げるならもうちょっと頑張らないとだよ」
他人事のように六花が言う。
屋上の方から、ドアがひしゃげる物凄い音がした。屋上に続いていた踊り場の明かりが、ふっと消える。
影が迫っていた。上階から感じる凄まじい圧迫感に、俺は六花の手を取り廊下を走る。
質量を、意志を持った影が追いかけてくる。先ほどまで座り込んでいた階段そばの蛍光灯が消え、一つ、また一つと消えて、俺たちに近づいてくる。
雲のない、月の明るい夜だ。それなのに蛍光灯の潰えた廊下の向こうは塗り潰されたように黒一色で、一縷の光も存在しない。見ているだけで、どこまでも落ちていきそうな深淵が廊下に迫っていた。
ひとたびアレに絡め取られれば、果たして自分はどうなってしまうのか……正体不明の恐怖を何とか原動力に変え、明かりを求めて校舎を逃げる。くひひっと六花が場違いに笑った。
「楽しいねえ明良。二人だけの、愛の逃避行だぁ」
「何が愛だ! 馬鹿言ってんじゃねえ!」
「愛だよ。だって明良は、瀬名を放り出して、私の所まできてくれたんでしょ?」
「っ──!」
かぁっと頭に血が登る。けれどその熱がもたらす感情は、泣きたくなるような無力感になって、俺自身を傷つける。
「っ……お前が、磯川をけしかけたのか」
「人聞き悪いなぁ。あの子の気持ちは本物だよ? まっすぐで優しくて、たぶん明良ともお似合い。私は瀬名を手伝ってあげただけ。それでも明良が追いかけてくるか、興味があっただけ」
「ッこうなるって事ぐらい、分かってただろ……!」
「かもね。でも、私は一度も、こうしろなんて命令してないよ?」
歌うように朗らかに、ロマンチックに笑みを綻ばせながら、六花が言う。光を食らう影は、着々と廊下を埋めて、俺たちを追い詰めていく。
俺の右手から、ボタボタと汁が落ちる。裂傷から噴き出た血と、火傷で爛れた透明な汁が混ざったドロドロの液体。激痛と共に垂れるタールのようなそれを、六花は愛おしげに睥睨する。
「そんな酷い怪我をしても、私を追い求めてくれる。いやー、六花ちゃんは愛され過ぎて困っちゃうなー! あははっ」
「ッ……!」
無性に、泣きたくなった。
すぐそこで、六花の手を握っているはずなのに。まるで空回りする愚者を嘲笑うコメディを、六花の為に演じているようだった。
自分がここで、痛みに藻掻き、恐怖に駆られ走り回るのが、何の意味もない事のよう。
一寸先も見えない闇の中、出口もないのに藻掻いている。いや、あるいはずっと昔からそうで、今やっと絶望に気付いただけかも。
上から順番に、校舎が闇に飲まれていく。俺は中二階の廊下を抜けて特別棟に出ると、理科室に飛び込んだ。
ドアを閉め、鍵を掛ける。その瞬間、反対側から恐ろしい力が叩き付けられた。思わず尻餅をついた俺の目の前で、ドアの輪郭が、黒にじわじわと塗り潰されていく。
「閉じこもって、何するの、明良?」
「うるせえ! お前はそこで黙って見てろ! 絶対にアレに近寄るなよ!」
「うん。大好きな明良の事、ずっと見てるね」
俺は無我夢中でカーテンを引き剥がし、その上にアルコールランプを叩き付け、砕き割る。
揮発性のアルコールでひたひたになった布の山に、俺は残っていた百円ライターで火をつけた。たちまちカーテンは燃え上がり、大きな火柱が理科室に立ち上る。恐ろしい早さで浸食していた黒い影は、炎の勢いに気圧されたように後退していった。
「おー、嫌がってる嫌がってる。せっかく来て貰ったのに、ごめんねー」
六花はどこまでも他人事に、退いていく影に手を振ってみせる。
限界だった。俺は六花に詰め寄り、純白の肩に両手を食い込ませた。
「ッなん、で……何で! いなくなろうとするんだよ、六花!」
「しょうがないよー。向こうからお迎えに来てくれるんだから、無碍にする訳にもいかないし」
「俺は? 俺の事は無碍にしても良いって言うのかよ! これだけ嫌だって、行くなって言ってるのに!」
「だから言ってるじゃん……一緒に行こ? って」
上擦った喉が空気を飲む。
燃え盛る炎の熱を真横に受けながら、六花の微笑はまるで揺るがない。超常の雰囲気を携え、俺を見る。
俺は、六花の、その目が嫌いだ。
同じ人間と思えなくて。
俺が人間でなくしてしまったのだと、思い知らされて。
「っ……何で、分かってくれないんだよ。普通の人間として生きて欲しいって俺の思いを、どうして無視するんだよ……!」
どうして、いなくなろうとするんだ。
ここで生きるという選択を、しようとしないんだ。
人間を辞めた六花が、どこか遠く、この世でないどこかへ行ってしまう。
俺のせいで。あの時六花の願いを聞かなかったせいで。
そんな罪、耐えられない。
俺は六花が好きなのだ。誰よりも傍にいて、誰よりも愛していたのだ。
俺のせいで六花は人間でなくなった。俺のせいで六花は消える。そんな罪を抱えたまま、生きるなんてできっこない。
それでも、あの影は、くろぬろは、余りにも恐すぎて。
愛する六花を追って飛び込むには、アレは異常過ぎる。俺は臆病に過ぎる。
六花を手放したくない。けれど一緒には行きたくない。
このままでいて欲しいのに。
怠惰だと罵られても、愚図だと笑われても、六花が人間として傍にいてくれれば、それだけでいいのに。
気が付けば俺は泣きじゃくり、六花の肩に顔を押しつけていた。足から力が崩れ落ち、珠のような六花の肌を、額がずり落ちていく。
「行かないでくれ。変わらないでくれよ! 何でもする。いくらでも謝るから。だから……!」
天井の火災報知器がようやく機能して、学校中にけたたましいサイレンが鳴り響く。ごうごうと燃え盛る火柱が、六花の腹に抱きつく俺の情けない姿を橙色に映し出す。
泣きじゃくる程、感情を剥き出しにする程、達観した六花の目が、冷たく鋭く突き刺さって。
「無理だよ。変わらないものなんて、この世に無いんだよ、明良」
頭ごなしに突き放すような言葉は、奇しくも背中ごなしにぶつけられた磯川の言葉に、とてもよく似ていた。
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