第7話
贔屓目無しに、ここは素敵な場所だ。
都会育ちだからこそ、俺はこの町が持っている『人がいない』という価値を、真に理解する事ができる。
何千世帯が一同に群がり僅かなスペースを奪い合い、芋を転がして洗うかのように海岸が人で埋め尽くされる。それが都会の、夏の海だ。それなりに楽しくはあるが、帰る時にはぐったり項垂れ、もう来なくて良いかな、と疲れ果てるのが定石だった。
そんなイメージがすっかり定着していたお陰で、ここの海はまるで天国か、パンフレットに見る幻の秘境のように感じられた。
そう言うと、磯川はまるで詐欺師に出会ったかのように露骨に訝しんだ。
「手つかず放置でうら寂れてるのを、それっぽい言葉でごまかしてるだけじゃない?」
「いやいや、いいもんだよ。心から。本心で」
なんせ、まっすぐな海岸線というものを初めて見た。さざ波の音に心が安らぐことをようやく知った。海水は砂底を覗き見れる透明度で、巻き上げられた泥と無数に群がる人の汗で混濁した、子供でさえ躊躇する都会の海とは、比較することもおこがましい。
「そんなゴタゴタしてるんだねー。都会の大学とか、益々行く気が失せちゃうよ、アタシ」
「で、磯川は何でここに?」
「一休みと様子見。鼻は大丈夫?」
「大丈夫だけど、突っつくな」
寝ころぶ俺の隣にしゃがみ込んだ磯川は、蟻の巣にそうするように、赤くなった俺の鼻をつんつんと突く。
バレーボールが直撃した俺の鼻は、やっと痛みが引いてきたところだ。狙い澄ましたような一撃を放った張本人は、今も男子のチームに混ざり、強烈なスパイクを放っている。
「相変わらず六花ちゃんは凄いねえ、付き合うのも大変でしょ」
「何度も言うけど、六花はそういうのじゃないって」
「他人って訳でもないんでしょ? 毎日いっしょに、ひっついて帰ってるじゃん。仲良さげじゃないのさ、色んな意味で」
小さく鼻を鳴らして、磯川は俺の視線を追うように六花を見る。誰よりも快活に笑う六花は、燦々と照りつける太陽の下、塗り潰したように真っ青な快晴を背景に、真珠のように白く艶やかな素肌を跳びあがらせている。薄桃色の可憐なビキニは六花の健康的な肢体に見事に似合っていて、共にビーチバレーをする男子共の視線を釘づけにしている。おかげでまともなゲームにもなっちゃいない。
ちなみに、けしからん妄想に集中を途切れさせたお陰で、顔面に強烈なスパイクを食らって退場を余儀なくされたのが、ここにいる俺だ。六花の本性はつくづく思い知っているだろうに、本当、美人というのは質が悪い。
ジャンプの度に大きく弾む二つのボールを見て、磯川が自分の胸を撫でながら露骨に不機嫌になり、俺に聞いてくる。
「あんなに見られてて、苛ついたり、取られちゃうかもって不安になったりしないの?」
「だからそんなのじゃないって……あれで照れたり靡くようだったら、むしろ安心するよ」
「なんだそりゃ。ドライなんだか自慢なんだか」
よいしょと掛け声一つ、磯川が膝についた砂を払う。
「我らがアイドルに興味ないならさ、月宮君もちょっと手伝ってよ」
「何を?」
「買い出し。そこのスーパーまで、花火買いに行くの」
ん、と磯川が日焼けした腕を俺に差し出した。特に断る理由も思いつかず、手を取って立ち上がる。
同じクラス中心に十人ほどが集まって遊び始めたのが、午後一時くらい。空はまだ青いものの、日は少しずつ西に傾き始めていた。焼きつくような日差しが少しだけ和らいだ、まったりと温い空気の中を、磯川を原付の背に乗せて走る。お互いに水着だが、そのまま買い物に行く事に大して違和感はない。せいぜい、素肌に回される磯川の日焼けした腕やお腹の熱が、むず痒く感じる程度だ。
「六花ちゃんの水着って大分際どいけど、月宮君の好み?」
「違うよ……まあ、嫌いな訳じゃないけど」
「でも六花ちゃんも気にしてたよ。月宮君にちょこちょこ目配せしてたじゃん。褒めてあげたりしないの?」
「あいつは褒めると付けあがるから、なんか癪だ」
「ふーん……ね、じゃあアタシのは?」
「……似合ってると思うぞ。かわいくて」
「気のない返事。やはり六花ちゃんか。月宮くんはエロいのが好みですか。ドスケベめ」
「謂われない偏見だ!」
そんな、まるで生産性のないやりとりをしながらスーパーへ。
俺が手にした買い物籠に、磯川がぽいぽいと袋詰めの花火セットを放り込んでいく。
「月宮君も、一緒にやるよね?」
「……いや。悪いけど、六花を送らないと」
「送って、また戻ってくればいいじゃん。往復で三十分もかからないでしょ?」
ライターを三個ほど放り込みながら、磯川が事もなげに言う。影の中で浮くという特異体質を受け入れてはいるものの、彼女を含めて誰も、六花の正体や俺との関わりは知らない。
俺の沈黙をどう解釈したのか。磯川は一通りの花火セットを籠に突っ込むと、俺の背中を押してレジへと向かわせる。
「夏祭りでも打ちあがるけどさ。夜の花火って、なんていうかこう、オツなもんだよ。夏って季節で、一番ムードがある。こんなド田舎に、やっと花が咲くというか」
「何もないのがいいって、以前磯川も言ってなかったか?」
「それでも欲しいよ。ムードとか、そういう空気とか」
どういう空気なのかを聞く前に、レジの順番が来てしまった。買い物籠を置くのと同時に、会話が途切れる。
ビニル袋に詰まった花火を磯川の肩にかけて、また海岸へ。空はあくびするほどにゆっくりと、橙色がにじんできている。
人気の無い道路の脇には、キラキラと輝く海岸線。穏やかな波の音に重なる、連続的なエンジンの排気音。吸い込む空気に、潮の香りと、磯川の肌に塗られた日焼け止めの匂いが僅かに混ざる。
肩に乗せられた磯川の指が、とんとんと俺を呼んだ。
「さっきの話だけどさ」
「花火の話?」
「それもだけど、夏祭りの方。実はもう今週なんだけど、月宮君も行く?」
「……」
「無言はなしだよ。はいかいいえかの、簡単な質問でしょ?」
ほんの少し苛立ちを交えて、磯川が急かす。緩く揺さぶられる俺の脳味噌には、六花の笑みが張り付いている。美しく清らかで、人間味の欠如した幼なじみの挑発が。
「六花がいるから、難しいかも」
「……また六花ちゃんだ。彼女っていうと否定するくせに、月宮くんの傍には、いつも六花ちゃんがいる」
裸の肩に乗った指が、少しだけ食い込んだ。
まるで弾劾をされているようだ。普段のお気楽な磯川からは想像も付かないような、固い声だった。
「六花ちゃんが普通じゃないのは分かるよ。けれど、なんで月宮くんが隣にいるの? 彼女じゃなきゃ、二人はどういう関係なの?」
「……ただの腐れ縁だよ」
「嘘。もっと何か、すごいので繋がってる。誰も入れないくらい強いもので」
「俺だって分かんねえ。説明も、できない」
「へえ、そう。幼馴染みとの腐れ縁は、新しい友達のお誘いよりもずっと強い関係?」
「そういう、次元の話じゃ──」
「二人きりで話したい」
「……」
「誰も邪魔の入らないように。できれば、アタシが勇気を出せるような、ムードがある場所で。月宮君だけを見られるような、暗い所で」
「……」
「アタシがそう言っても……答えは、出ない?」
食い込んだ磯川の指が、人形のように固い。
風の音が、やけに遠い。さざ波とエンジン音が、どこまでも続く海原と田園に広がり、地球の線の向こうに消えていく。
無常観が、俺を襲った。
黒く粘ついた液体が、ふつふつと煮えたぎり、俺の心を満たしていくようだった。
言葉にすれば、それは失望が最も近いかもしれない。初めて聞く意味不明な病名と一緒に、一年もない自分の余命を宣告されたような気分だった。
「……言ってたじゃないか。変わりたくないって。このままずっといられればって」
「言ったよ。そう思ってるよ。けれど無理じゃん。変わっちゃうじゃんか。大学か、仕事か知らないけど、皆いつかはどっかに行っちゃう。目の前の君だって、突然来たのと同じように、突然いなくなってもおかしくないじゃんか」
「それが嫌だから……変わりたくないから、俺はここに来たんだ。ずっとこのまま、過ごしていたいから」
「それなら残念。あてが外れたね。一年後には、大学入試だよ」
橙色に塗り替えられた空の下、いたたまれなさを抱えてひた走る。視線の先に、海岸に動くクラスメートの人影を見つけた。
「今日、待ってるから」
「磯川、俺は……」
「線香花火一本でいい。それ持って、待ってる。月宮君が優柔不断だから、ずっと待っててやる」
溢れそうな感情を必死で押し殺した、今にも崩れそうな震え声で、磯川は言葉を投げつけた。
原付を停めると、俺が何か言うより先に磯川は飛び降りて、皆の元へと小走りで去って行く。さっきの言葉について話すタイミングを奪い去り、泥のようなわだかまりを俺の胸に残して。
急いで後を追いかけても、磯川は何の変化もなく、けれども背中だけでハッキリと拒絶を示して、俺に何も言わせない。
けれど、そのいたたまれないもどかしささえ、あの女は許さないようだった。
ずんずんと前進していた磯川の足が、ぴたりと止まった。
そこでようやく、クラスメイトが皆、不安げに砂浜を右往左往している事に気が付いた。
「……六花ちゃんは?」
磯川が呟く。俺の背筋にぞわっと悪寒が走った。
衝動のままに、傍にいた男子の一人に、食いかかるように問う。
「六花は!? アイツはどこに行ったんだ!?」
「し、知らねえよ。みんな、月宮なら知ってるだろうって待ってたのに……!」
俺の突然の激昂におののきながらも、男子は説明する。
ほんの十数分前、バレーボールを終えて休んでいた一行は、ひとり砂浜を歩く六花を見た。声を掛けると、六花は朗らかに笑って「呼ばれたから、行くね」と言ったのだという。
「てっきり月宮が呼んだと思って、何も言わなかったんだ。お前じゃなかったら一体誰が──あ、おい!」
もう、一秒たりともじっとしていられなかった。
俺は踵を返し、停めたばかりの原付に飛び乗った。
磯川の制止の声など、まるで届かない。脳味噌に天井の染みのようにこびり付いた、六花の美しい薄ら笑いが、大きく広がって俺を埋め尽くす。
エンジンが唸り、磯川の声が一気に遠くなる。
太陽は既に赤く色づき、西の海に飲み込まれ始めていた。
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