第6話


 正直に言って、俺は六花のことが好きだった。

 無理のない話だし、むしろ当然でさえあった。幼少の頃の六花の輝きは、太陽と表現しても何ら差支えのない凄さだったのだ。

 いくつもの豪勢な洋服で着飾り、文化的教養に優れ、大人が羨む程礼儀正しい。

 結局それは、狂った母親の悪辣な自己顕示がもたらした見栄でしか無かった訳だが、子供達はそんな裏の事情は露も知らず、六花は本当にお姫様のようだったのだ。

 だから、六花が好きという思考は、何も特別な事ではない。同じ学校の男子は、ほとんど全員六花に好意を向けていた。誰よりも女の子っぽくて可愛いくせに、何でもできる凄い奴だと、誰もが思っていた。

 俺の好意が特別なものに変わったのは、彼女の両親が消え、六花をウチで引き取る事になってからだ。

 中学二年生にして、絶世の美女である同級生と、一つ屋根の下。浮かれなかったと言えば嘘になる。邪な妄想を抱いたことも、一回や二回じゃ済まない。

 けれどそれ以上に、何とかしなければ、と思った。

 母親による執拗な病人扱いによって、六花の心はグズグズに崩れきっていたのだ。

 どんなに声をかけても碌な反応を見せず「伝染るよ」とオウムのように返事をする。華やかで皆の憧れだった六花を知っているだけに、その姿は余りにも痛ましかった。

 彼女を元に戻してやることが、自分の使命だと思った。六花が好きだったし、助けてあげたかった。医者の息子というアイデンティティーも手伝って、その思いは強固に、俺の心に刻み込まれた。

 俺は本当に、色んな事をやった。何に於いても無気力な六花を、強引に外に連れ出した。

 遊園地やレジャー施設を手当たり次第に回った。六花を自転車の後ろに乗せて、何十キロも走った。イルカを見に船に乗った事があれば、日の出を見に山に登ったりもした。六花は俺を鬱陶しく思い、ぐずったりもしたが、その度俺は「六花のためなんだ」と言い聞かせ、彼女を連れ出した。

 人並みの充実。友達との、満ち足りた楽しい生活。そういう普通の幸せが得られれば、元に戻れると信じたのだ。あの時の眩しかった六花に。俺が好きだった六花に。

 楽しくも根気のいる行動の甲斐があって、六花は少しずつ心を開き、笑顔を見せてくれるようになった。「伝染るよ」という口癖は次第に消え、肌に触れる事を許してくれた。

 やがて俺と六花の間には、男女の好意を越えた、家族のような信頼が芽生え始めていた。

 しかし、六花には一つ、母親から付けられた大きな傷があった。

 彼女は、闇を異常に怖がるのだ。夜の空も、光の無い室内も同じ。一度日が暮れれば、街灯に縋り付き、決して暗がりに出ようとしなかった。

 くろぬろが来る、くろぬろがくるくろぬろがくるくろぬろがくる──一度影を目にすれば、六花は崩れ落ちるようにガクガクと震え出し、正気を失ってしまうのだった。

 そうなると、俺のどんな言葉も届かない。強烈なランタンなどを抱えさせ、俺の服をぎゅぅっと握りしめ、それでやっと歩き出してくれる程だ。

 そんな六花には、かつて親父の病院に押しかけ、娘の足を切ってくれと迫ってきた、彼女の母親の幻影がありありと浮かんで見える。

 俺は、それが気に食わなかった。

 病んだ彼女の母親の、最も狂った妄想。それが今も六花を苦しめ、正常になろうとするのを拒んでいる。

 六花の闇嫌いを、克服させる。そうすることでようやく、六花は悪しき母親の呪縛から解放されるのだ。



 ある夏の日に、俺は六花を連れ出した。六花は緊張した俺の面持ちを不審に思いつつも、いつものように俺の手を握り、後ろにぴったりくっついて、よく晴れた青空の下を歩いた。

 連れ出したのは、いつの日か六花を母親から引き剥がした、郊外の廃墟だった。元々は何かの病院だったらしく、寂れたアスファルトの骨組みの中に、外側から鍵が掛けられる窓のない部屋が幾つかあった。

 六花はその部屋に生理的な恐怖を抱いているようで、視界に入れるだけで身体を小刻みに震わせていた。それでも彼女は、俺が探検だと言って手を差し出すと、恐る恐るその手を握り、指を絡ませてくれるのだった。

 それ程に、六花は俺を信頼してくれていた。

 だから俺は、一度彼女を裏切った事になるのだろう。

 窓のない個室に六花を連れ込んだ俺は──不意を突いて六花を突き飛ばし、ドアを閉め、外側から鍵を掛けた。

 六花はすぐに絶叫し、泣きじゃくりながらドアを叩いた。開けてよ、開けて──彼女の懇願を、俺は全て突っぱねた。六花は強い。病気なんかじゃない。強くならなきゃいけないんだと、言い訳を繰り返して。

 六花はぎゃあぎゃあと泣き叫び、骨が折れる程の勢いでドアを叩き続けた。余りにも必死な狂乱に、俺の心が直接叩かれ、刃を突き刺されているようだった。

 罪悪感と申し訳なさで涙を流しながら、それでも俺は鍵を開けなかった。六花のためだと自分に言い聞かせ、ドアに背中を押し当てて、六花の必死の願いを全て無視した。

 愚かな行いだった。それが、決して覆ることのない、一生掛けても償う事ができない、俺の過ちだった。

 突然、六花の様子が変わった。泣きじゃくる声が、喉を引きちぎるような本気の絶叫に変わる。鋼鉄のドアがひしゃげるほど強く、二本の腕とは到底思えないほどに激しく叩かれた。

 来た、来たぁぁ!──ドアを隔てた暗闇の中で、六花はそう叫ぶ。

 ただ事で無いことはすぐに分かった。しかし、六花を開放するべく手を掛けたドアは、びくともしなかった。鍵は開けているのに。何者かから抑えつけられているよう。

 どれだけ名前を呼んでも、六花の絶叫は止まらなかった。反対側から拳を叩きつけても、六花を閉じ込めるドアは動かない。

 そこには明確な悪意があった。理解の及びつかない存在が、六花に手を伸ばしていた。

 俺は恐怖に腰を抜かした。重いドアの向こう、度を超えた六花の悲鳴が獣のそれに変わるのを、ただ茫然と聞いていた。

 ドアがひしゃげる程に強く叩かれる。廃墟全体が振動し、剥き出しのコンクリートの破片がぱらぱらと落ちる。音が鼓膜に叩きつけられる。

 頭を抱えて、震える事しかできなかった。ただただ、扉の向こうにいる何かを、想像もつかない事が六花の身に起きている事に、恐怖する事しか。

 バンバン、バンバン、ドアが唸る。いやだやめて。お願い開けて、助けて明良。開けて、開けて、開けて!! バンバン、バンバンバンバン──









「あっ」







 落とし穴におっこちたような間の抜けた声。それを最後に、音がぷつんと途絶えた。





 あれ以来、六花は影を失い、影に浮かび上がるようになった。

 あれほど恐れていたくろぬろが、六花の影を奪ってしまったのだ。

 俺のせいで。

 俺が六花を、暗がりに閉じ込めてしまったせいで。

 彼女のため、普通の女の子に戻すため──そんな言い訳は、起きてしまった取り返しの付かない事態の前には、何の意味も持たない。



 六花は影を恐れなくなった。

 むしろ彼女は、闇を好みさえした。暗がりの倉庫。街灯の無い郊外の夜。そういった場所に足を運び、朗らかに笑うのだった。

 明かりを手にした俺が必死で追い縋らなければ、六花はとっくの昔に夜空の果てまで舞い上がり、闇の一つとして溶けて無くなっていたかもしれない。楽しげに、心地よさげに笑いながら。それはまるで、輝かしい宝石が底の見えない深海に沈んでいくようだった。

 六花はある意味で人間性を喪失した。生きることにも、人間でいることにも、何も頓着をしていなかった。

 俺が必死につなぎ止めなければ。罪悪感に駆られ彼女にしがみつかなければ、彼女はとっくに消えていただろう。どこか遠く、ここではない昏い場所へ。



 果たして、依存しているのはどちらなのだろう。

 俺は、失った六花の影の代わりになっているのだろうか。それとも、既に人間でない化物に、影を踏まれて縛り付けられているのだろうか。

 その葛藤を、六花は知らない。あるいは知った上で、俺を弄んでいる。

 年を重ねる程過剰に、容赦なく。人間らしさを薄れさせながら。俺の努力も無駄なのだと、嘲笑うかのように。



 今日も俺は、六花に溺れる寸前で、ランプの明かりを掴み取った。

 思い切りかざせば、嫌そうな六花の声と共に、身体が重力に包まれる。地下倉庫の湿気った土に、顔面からどすりと落ちた。

 半裸の身体にはじっとりとした冷や汗が滲んでいる。何時間も風呂に浸かっていたみたいに、頭がふらつき、視界が歪んで見える。喉の奥まで入り込まれていたようで、遅れてきた異物感に、何度もえずいて、どろついた痰を薄暗い倉庫の土に吐き出した。



「がはっ! げっほ! うご、ぉぉ……!」

「すごいねー、明良は……そんなに恐いんだ」



 どこか意外そうに六花が言う。その声音には、俺を案じる人間味らしさが完全に欠けていて、瀕死の犬の絶命を待つカラスの姿を俺に連想させた。

 酸っぱい胃液が、鼻腔を焼く。肺が激しく収縮し、止まっていた呼吸を再開させる。快楽に麻痺していた心が次第に理性を取り戻し、耐え難い恐れにまた打ち震える。

 明良を受け入れてあげる──最初にそう言われたのは、いつの頃だっただろう。

 俺はてっきり、贖罪だと思った。六花の影を奪わせてしまった俺の罪に、彼女なりのけじめを付けさせてくれるものだと思っていた。

 けれどそれは誤りだった。六花が行うのは、一方的な嗜虐で、捕食だった。抗いようのない、常識外れの快楽で漬け込まれる、恐ろしくも甘美な爛れた逢瀬だった。

 コードを引くと、裸電球の光が灯り、下着姿の六花が姿を見せる。どこか遠くを見るような目で、六花は蹲る俺の背中をさすった。



「こんな事をするの、明良だけだよ。明良に、私の全部を見て欲しいって思うの。だって好きなんだもん」

「っ……!」

「明良と一緒にいるとほっとする。明良の隣がいちばん素直になれる。だから……一緒に行けたらいいなって、思うの」



 一緒に。

 どこへ? 決まってる。

 お迎えは、すぐそこまで来ているのだ。

 蹲る俺の背中に、六花が上体を押しつける。胸が形を変え、しっとりした艶やかな感触が広がる。神経をひりつかせる耳が、口に含まれる。



「ねえ、明良はどうして私を受け入れようとするの? 気持ちいいから? 興奮するから?」



 俺は何度も言葉を詰まらせ……何秒もかかって、やっと一言を絞り出す。



「お前を、繋ぎ止めたいからだ……!」

「無理だって言ってるのに、ホント強情なんだね……まあ、そんなだから、私達はこうなってるんだけどさ。私がこうなったのは、明良のせいで、明良のお陰」



 歌うように、六花がそう口ずさむ。

 六花にとっては、最早どうでもいいこと。俺にとっては、生爪を剥がされるように辛いこと。

 触れたくないけど、触れていたい。飲み込まれたくはないけれど、包まれていたい。溺れたくないのに、溺れたい。踏み込みたくない以上に、共にいてほしい。

 正体不明のモノに迫られる恐ろしい感情よりも尚強く、俺は、六花が傍にいて欲しいと強く願っている。

 俺は今でも、六花が好きなのだ。



「……ま、いいや。今日もお疲れ様。楽しかったよ明良!」



 打って変わって明るくなった六花は、ぽんぽんと俺の背を叩き、脱ぎ散らかされていた泥まみれの服を被せてくる。



「あ、そうだ。明良、今度のお休み、ちょっと付き合ってよ」

「……なんだよ、改まって」



 六花のおねだりはいつも唐突で、こっちの都合など気にしないのが普通だ。

 けれど六花は、頼りない裸電球の下で、いつもより頬を吊り上げて、くひひっと悪戯っぽく笑った。



「海行こうよ。思い出作りにさ」



 ──今思い返せば。

 その時浮かべた笑顔には、それが最後の思い出になることを漠然と察した、ある種の決別が滲んでいた。


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