第5話



「見てたぞ見てたぞ~。よ、色男っ」



 小一時間後。バイト終わりの俺をそんな風に冷やかしながら、六花が手を振った。

 からかう気満々の態度に、俺は溜息一つ、ヘルメットを被って、駐車場に停めていた原付に跨がる。



「あ、ちょっと待ってよ~」



 六花が軽やかに原付の背に跨がり、俺の身体に腕を回す。背中に上半身が押しつけられ、ぽよんとした胸の膨らみを感じる。魅惑の感触の筈なのに、どうしてか『掴まった』と表現したくなる。



「瀬名ちゃんと仲よさそうだったじゃんか。明良もようやくこの街に馴染めてきたかな?」

「囃し立てないでくれ。あくまで客として対応しただけだよ」

「冷たいこと言って、嬉しかったくせに~。今度、一緒にカラオケでも行ってあげなよ。なんなら私がセッティングしようか?」

「……俺には、お前が、いるだろ」

「私は別にどうでもいいよ? 明良に命令なんてしてないもん。ただ明良が、私の事をすっごく考えてくれてるだけ~」



 渡したヘルメットを被りながら、六花は夏の青空に似合う笑顔を浮かべる。



「かわいい友達の瀬名よりも、行きずりの私を選んでくれるんだから、明良も好きだよね~」

「っ何で、そんな言い方……!」



 思わず振り返る。俺の強張った顔など意にも介さず、六花はにんまりと唇を綻ばせ笑う。

 いつもと同じ笑顔だ。こちらを見透かすようで、それでいて全く得体が知れない。

 同じ顔で、あっけらかんとした口調で、六花はいつも俺を惑わせる。



 ──そろそろ来るかもよ。お迎え。



 記憶の中の声を再生するだけで、冷や汗が吹き出てくる。地下倉庫を照らす裸電球がパツンと消えて、闇が六花を飲み込む妄想が、止め処なく繰り返される。



「ここ、すっごくいい所だもん。空は高くて、空気はおいしくて、みんないい人で。心がわーって晴れやかになるみたい」



 六花が言う。それは良いことだ。都会から離れ、何もかもを忘れてここまで連れてきた、甲斐があったというものだ。

 それなのに、六花は同じくらい平然と、明日の天気を教えるように、『お迎え』を仄めかす。

 何なんだ。六花は、何がしたい。

 俺は、何をすればいいんだ──。



「じっとしてると熱中症になっちゃうよ。ね、今日はあそこ行きたいな。いいでしょ?」



 背中をぽんぽんと叩きながら、甘えた声でねだられる。それを跳ね返すだけの心の強さを、俺は持っていない。沈黙は肯定で、背中越しに六花がくひひっと笑った。

 Y字に分かれた道を、俺の家とは逆方向に曲がる。

 数分原付を吹かせば、空気に潮の香りが混ざり、視界に海が広がる。まだ夕焼けは遠く、空は真っ青だ。太陽が白く輝き、波打つ水面が陽光を反射してキラキラと瞬いている。

 六花が原付の上に立ち、風を一身に感じる。陽光に白い肌が照らされ、黒曜石のような髪が青空に棚引く線を引く。息を飲むほど清廉なその姿に、やはり付き従う影は無い。

 だだっ広いアスファルトの道の先は、背の低い林になっていた。海岸線沿いに数キロ続く、松でできた平原だ。

 俺の肩をくぐるように、六花が腕を回し抱きついてくる。むず痒さを打ち消すように、俺は叫んだ。



「飛ばされないよう、しっかり掴まってろよ!」

「了解です、隊長っ」



 速度を落とさず、松林に突入。

 生い茂る松の枝が、俺達の世界に影をもたらす。後部座席の六花の身体が、ふわりと浮いた。

 まばらな細い松の青葉が、アスファルトに光と影のマーブル模様を浮かべている。水たまりのような影を踏む度に、六花の身体は重力を忘れ、光と共にそれを取り戻す。

 さながら鯉のぼりのように、六花の身体が水平に浮き、ばたばたと上下運動を繰り返す。きゃーきゃーと子供みたいなはしゃぎ声が、無意識に俺にエンジンの回転数を上げさせる。

 天井となる松の隙間から、眩い陽光が時折差し込み、カメラのフラッシュのようにぱぱぱっと視界を明滅させる。回転灯籠の中にいるみたいだ。コマ送りの動画のように六花の身体が上下運動を繰り返し、松林を走り抜けていく。

 風が心地良い。爽やかな時間だった。重力さえ俺達を邪魔できない。世の中の全てから解放されたような感覚が、六花を笑わせる。俺に、嬉しいんだか虚しいんだか分からない、どうしようもない気分で頬を吊り上げさせる。

 松林を走り抜け、その終点が、トンネルの出口のように真っ白く光る。その直前は、光の差し込む隙の無い、一際松の枝の層が厚い場所だ。六花が俺に抱きつく力を強める。

 出口までもう少し。影に踏み込む。六花の身体が浮き上がり、俺の胸を持ち上げ──

 原付の車輪までが浮き上がり、車輪が宙を空回った。



「う、そ──!?」

「おろ?」



 間の抜けた六花の声。上昇は止まらず、俺達は走る速度をそのままに、数メートルの高さまで上昇し──松林を抜けた。

 日差しが俺達に飛びかかり、その瞬間、六花を解き放っていた重力が戻ってくる。がくんっと肝を潰す感覚がして、原付ごとアスファルトに落ちる。

 タイヤがバフンと跳ねて、衝撃が座席から俺の背筋を駆け上る。サスペンションの緩衝は気休め程度にしかならない。

 俺と六花は空中に放り出された。回転する視界に、青空と太陽が凄いスピードで通り過ぎ、防波堤のコンクリートが鼻先スレスレを掠める。

 そのまま防波堤を越え、俺は砂浜に背中から落下した。凄まじい衝撃が背を強かに打ち据え、肺から空気が絞り出される。太陽によって火傷するほど熱された砂が、身体のあちこちに入り込んできた。



「っぐ、うぅ……!」

「あはっ、あっははは! すっごい、今の凄かったねー明良! ばびゅーんって、カタパルトみたいに飛んだよ今!」



 同様に落下した六花は、ネジが壊れたみたいに笑い、砂浜に足をバタバタと打ち付けている。

 笑い事じゃない。

 下手すりゃ死んでいた……けれど、それも問題じゃない。

 原付が浮くなんて、今までなかった。あの程度の影では、六花個人が浮くのが精々だったはずなのだ。

 走馬燈がよぎる程の死の感覚さえ、もう遠い。それよりももっと悍ましい予感に、俺の背中が濡れていた。



「六花、お前……!」

「うん、そだねー。強くなってる」

「っ……!」

「いいじゃん、楽しい初体験できたし、お迎えも近づいてるし! くろぬろもきっと、久しぶりで浮かれてるんだよ」

「お前!」



 たまらず叫んでいた。六花は驚く事すらせず、籠の中のハムスターを見るような、考え足らずの動物を愛でるような目を俺に向ける。

 また、コイツは……こうも平然と、言ってのける。

 何てことないかのように、俺の気も知らないで……!



「お前、お迎えの意味、分かって言ってるのかよ」

「うん。くろぬろは近づいてるよ。ちょっとずつ、だけど割とすぐ傍に」

「っソレ聞いて、俺がどう思うと……!」

「だってしょうがないじゃん。私には止められないんだもん。それとも、明良にごめんねって言えばいい?」

「違う、違うよ。そういう、訳じゃ……!」



 緩く頭を振っても、この感情は六花には伝わらない。

 が何なのか、俺達に何が起こるか、その全てを理解した上で、六花は朗らかに微笑んでいる。

 その笑みは、現実味など到底感じられない程に、超然としていて。

 六花はもう、歴然と隔てられた価値観によって俺を突き放しているのだと、否応なしに理解させられるのだった。


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