第4話
「おーい、月宮君。こっち来て、こっち」
休日。学校近くの商店街にある、二階建てのそこそこ大きな本屋。
バイトとして棚の整頓作業をしていると、気安い調子で名前を呼ばれた。振り返ると、磯川が本棚の影から顔を出し、日焼けした手でちょいちょいと俺を呼んでいた。作業の手を止め、呼ばれるまま傍に行く。
「珍しいな。磯川が本屋に来るなんて」
「む……その口ぶり、なんか名誉毀損を感じる」
「実際、本なんて読まないタイプじゃん。今日も部活だったんだろ? 休みなのに大変だな」
「そーそ。来月が大会だからって激しくてさー。この熱さの中で短距離走とか、正気を疑うよ。ホント」
呆れるようにそう言って、磯川は体操服やらが入っているらしい袋をかるい直す。練習場所が学校のグラウンドのため、休日にも関わらずいつもの制服姿だ。熱さを凌ぐために何度も水を被ったのだろう。短く整えた髪がしっとりと湿っていた。
「もー日差しが痛くて痛くて。日焼け止め塗っても効果ないし、全身すっかり茶色にトーストされちゃった。アタシには、六花ちゃんの剥きたて卵みたいな綺麗なお肌は夢のまた夢だ」
「磯川は運動部だし、そのぐらい焼けてた方が似合うと思うけどな」
「おぉ、フォローありがとう。さすが美人の彼女持ちはこなれてるねぇ」
「六花はそういうのじゃないよ……で、用件は? 一応バイト中だから、世間話なら仕事に戻るけれど」
「ぶー、月宮君たらつれないー」
磯川がそばかすの浮いた頬をわざとらしく膨らませる。磯川のこういう天真爛漫な所は、六花に似ていると思う。実際馬も合うのだろう、俺を除けば、たぶん一番長い時間一緒にいるはずだ。彼女の、誰に対しても壁を作らない陽気さは、話していて気持ちがいい。
「用ならちゃんとあるよ。月宮君に本を選んで欲しいんだ」
「何の? 言っとくけどあんまり詳しくはないぞ」
「心配いらないよ。アタシよかよっぽど博識だし、それに月宮君の専売特許だし」
磯川がまた手招きし、俺は彼女の後に付いていく。
棚を三つ素通りした先で、磯川は目的の本棚を指し示し、物凄く重たい溜息を吐き出した。陳列された本を見て、俺はすぐに溜息の理由に合点がいく。
「参考書か」
「お力添えをお願いします……アタシ、もう選ぶのすら億劫なので」
絞り出すような声音は、本気で気落ちしていた。
教科別にずらりと並んだ教則本の数々。『いちから始める』とか『総ざらい』とか耳障りのいい言葉が並んでいるが、中身は全て同じ内容を、言葉を変えて綴っているだけだ。勉強嫌いなら辟易するのも無理はないだろう。
磯川が胸の前で祈るように手を組んで、わざとらしく俺を見上げてきた。
「お願い月宮君。月宮君が助けてくれなかったらアタシ、本代を全てコンビニスイーツで溶かしてお母さんにドヤされちゃう」
「そういうの、自業自得って言うんだぞ」
「かもしれない。けれど私がお願いしたこの瞬間に、『月宮君が助けてくれなかったから』という言い訳が成立したよ。見放したら恨むから。絶対」
「脅しじゃねえか」
「まあまあ、友達を助けると思ってさ……ね?」
とぼけながらも、念押しするように頼み込んでくる。
困っているのは事実だろう。それにバイト中である以上、磯川は買いに来てくれたお客様だ。俺はズラリと並んだ本棚に向かい合う。
「俺も詳しい訳じゃないけど、手伝うよ。教科は何?」
「ありがとう! 教科は英語と世界史」
「どんなのをご所望で? 総復習? ステップアップ?」
「読むだけで記憶できて、みるみる頭が良くなる奴」
「あるわけねえだろ」
「そんなぁー、月宮君なら知ってると思ったのにー」
「残念ながら俺が知ってるのは、『馬鹿につける薬はない』ってことわざが今の磯川に当てはまる事だけだ」
「あ、ひっど! 将来を真剣に考え始めた女の子に対して、何その言いぐさー!」
ふざけた調子で、磯川が俺を非難する。
将来──何となしに言われたその言葉が、俺の胸をずぐっと抉ってきた。
引きつる頬を隠して、俺は視線を本棚に戻す。
「大学入試用なら……赤本をやってみてもいいんじゃないか? 俺達も三年生だし、そろそろ挑戦していい時期だろ。志望校はどこ?」
「えっとね……」
磯川が幾つか挙げた学校は、いずれもそれなりに名の知れた都会の学校だった。
「意外だな。磯川はてっきり、この町の近くに進学すると思ってた」
「アタシの希望じゃないよ。どこでもいいって言ったら、親から都会のいいとこ狙えって脅されてる感じ。その方がアタシの人生にとって良いって言われるんだけど、当のアタシには何が良いんだかサッパリ」
肩を竦めて首を振る磯川。学校生活を謳歌する磯川にとって、一年後に控えた大学入試と、それに対する親からの期待は頭の痛い問題だろう。
「……脅されている、ね」
彼女が使った表現は、自分でも予想以上にしっくりときた。事実、磯川は脅されているのだろう。顔をしかめて、ぽつぽつと愚痴を漏らし始める。
「そもそもの話でさ。こんな田舎町で、将来の事を考えろっていう方が無理なんだよ……こんな生活がずっと続けばいいのにって思うこと、月宮君はない? あ、もちろん勉強以外ね」
「……思うよ」
心の底から、同意する。磯川は「でしょー」と明るく応えて、
「ここ、何にもないからさ。遊ぶにしても、海やら山やら、後はせいぜいちっちゃなカラオケ店くらいで」
店の中である事などお構いなしに、ぐいーんと伸びをしながら、磯川が嘯く。
「時間がゆっくり過ぎていくみたいで……周りがテストや成績や、仕事やらで忙しくしてるのが、本当に他人事みたいに感じられて……ずっとこのままでいたいなって。いっそ追い越して勝手に放っておいてくれればいいのにって。そういうことを思っちゃうんだよね」
「……そうだな」
頷くと、磯川はそばかすの浮いた顔を綻ばせた。小麦色に日焼けした、つるりとした肌は、海のあるこの町にふさわしい顔だと、何となく感じた。
結局、磯川は親から決められた志望校の赤本を買うことにした。レジに店員が見当たらなかったので、そのまま俺が対応する。
「月宮君。さっきはごめんね」
赤本のバーコードを読み込んでいると、唐突に磯川が謝ってきた。何のことか分からず首を傾げると、彼女はばつが悪そうに俺を見て言う。
「アタシの話に合わせてくれたんでしょ。月宮君は、ずっと将来に向けて頑張ってるのに」
「何……」
「医者になりたいって夢、アタシは応援してるから」
打って変わった真剣な声音で、磯川が言う。
びきり、と。俺の心に亀裂が走った。
本を手にしたまま、金縛りにあったように身体が硬直する。
「さっきのはアタシの本心だけど、月宮君はちゃんと考えてるもんね。高校生で一人暮らしして、バイトしてお金貯めて、時間を惜しんで医者になるための勉強して」
「そ、れ……は……」
「今が楽しければいいっていうアタシなんかと大違い。うん……月宮君は、凄いと思う」
ぽつりと呟いて、磯川は急に恥ずかしくなったのか、レジに五千円札をぺしと置いてはにかんだ。
「ま、まあね! 適当に生きてるアタシは、月宮君の学力のおこぼれに預かりたいなーとか、思っちゃってる訳だけど! ね、今度勉強教えてよ、いいでしょ?」
お茶を濁すような磯川の言葉も、遠い。
俺が凄い。その認識は、あまりにも酷い誤解だった。
磯川は知らない。俺と六花の間に起きた事も、その結果起きた出来事のいずれも。
知らないからこそ、そういう言葉が吐ける。なんとはなしに。俺の胸を深く切り裂くとも知らずに。
「手間を取らせちゃってごめんね。じゃ、また学校で」
胡乱な気分のまま、店先まで磯川を送る。彼女は赤本の入った重たい袋を手に、手を振って炎天下の下を歩き去る。
突き刺すほど強烈な日差し。熱されたコンクリートが陽炎を産み、空気をいびつに歪ませる。
見上げた空は、当てつけのように美しい青に染まっていた。
「……店に戻らないとな」
重たい石を呑み込んだような息苦しさから逃げ出すように、俺は磯川に背を向け、そして気付く。
見慣れた黒曜石のような長い髪が、遠くの方で揺れている。
雪のように白い手を眩い陽光に透かして、六花が小悪魔のように笑っていた。
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