第3話


 小日向六花は、幼い頃から女の子だった。

 両親ともに著名な海外の大学を出て、有数の大企業に勤めており、家も車も一帯でいちばん豪勢な物を持っていた。専業主婦になった母親は六花と一緒にいつも豪華に着飾っていて、主婦達の噂話は小日向親子で持ちきりだった。

 六花は蝶よ花よと愛されて育てられた。礼儀正しく、大人達も感服する程に凜としていた。どんな衣装も大人顔負けに着こなせ、モデルとして何度か雑誌を賑わせた事もある。幼稚園の頃から流暢に英語が話せたし、バレエやテニスなど、いかにも上流な習い事を幾つも掛け持ちしていた。特に力を入れていたバイオリンに関しては、地域のコンクールで歴代最年少での優勝を成し遂げた。ステージの中央で全く臆すること無く凜と立ち、演奏は集まった大人達に感嘆の吐息を漏らさせた。

 ウチの六花は完璧なの──それが、彼女の母親の口癖だった。彼女は俺も含めた同級生のママ友を、自分の家や知り合いのカフェに招き、豪勢な衣装で出迎えた。俺の家族も、数度呼ばれた。浮き世離れしすぎてどこか作り物のような六花の母親の顔を横目に見て、何となく気まずい思いをしたのを覚えている。

 六花はその頃から明るく活発だったが、ママ友に自慢する為に、いつも豪華に、上品に着飾っていた。その様は本当に物語のお姫様のようで、俺はまだ色も知らない子供心ながら(ああ、住む世界が違うんだな)と納得している所があった。

 六花はそれ程に完璧な少女だった。世界の中心はいつも六花にあるよう。幼稚園も小学校も、六花というお姫様を際立たせるお城のようだった。

 母親が金銭を工面して六花を強引に立たせていたと、当時の俺には知る由も無かったが……それは小学校も終わる頃に、唐突に終わる。

 六花の父親が、会社から資金を着服していた事が発覚したのだ。豪華絢爛な暮らしというのも、現実には相当に無理をしていたのだろう。小日向家は、盗み取った金で得ていた贅沢な暮らしのツケを払わされることになった。

 幸いにも家は残ったが、高級そうな車や服、六花の習い事は、積み木の城のように一気に崩れて無くなった。今まで羨んでいたママ友の目線も、一転して腫れ物を扱うように冷たくなった。

 有り金をはたいた保釈金で懲役は避け、皆の善意もあり、居場所を失い街を追われるまでにはならなかった。それが幸か不幸かは、今でも判然としない。

 六花の父親は職を追われ、魂が抜けたように夜勤の工場に赴く老人になった。

 そして六花の母親は、幻想が崩れて、どこか気を狂わせてしまったようだった。



 騒動から、丁度一年が過ぎた頃。

 六花が病気なんです──そう叫んで六花の母親が飛び込んできたのは、午前二時ほどの真夜中だった。

 俺の親父は大学病院に長く勤めた後、夫婦で町医者を営んでいた。失墜した小日向家を意図的に避けていたウチも、急病とあれば無視してはいられない。

 しかし、未明に運び込まれた六花には、何の異常も見られなかった。六花自身にも、吐き気や身体の不調といった自覚症状はないらしい。

 むしろ、その報告を聞いた母親の方が、よほど病に取り憑かれていた。

 ──そんな筈はありません。六花の偏差値が二も下がったんです。頭が急に悪くなったんです。絶対に、どこかおかしくなってる筈なんです。

 その鬼気迫った形相は、今でも覚えている。目を爛々と見開かせた皺だらけのやつれた顔は、一年前豪華なドレスで娘の自慢をしていた人と同一人物とは到底思えず、俺の寝ぼけた頭を醒まさせるには十分衝撃的だった。



 それから母親による、六花の病人扱いが始まった。

 テストの成績が悪かった。体重が一キロ増えた。鼻の脇にニキビができた。そんな当たり前の事に対して、六花の母親は事ある毎に騒ぎ立て、ウチの病院の戸を叩いた。オウムのように「ウチの六花は完璧なの」と繰り返し、診察台に座る六花の肩を乱暴に揺さぶった。

 診察希望とあれば止める訳にもいかず、下手に刺激すればどうされるか分からない。親父は六花のあらゆる臓器にエコーを当て、どうあっても納得しない母親の為に、大学病院の紹介状を書いた。

 六花はMRIで脳を輪切りにされた。体のどこにも異常はなかった。そうすると六花の母親は、精神障害や発達障害など、健気にも新しい病気を探り当てては、それを娘に当てはめ、彼女を病人扱いした。

 六花は二度と完璧になることはなかった。幼少の頃あれだけ輝いていた覇気は嘘のように消え失せ、母親の話題からクラスでも孤立した。

 会話を続けたのは、医者の息子として妙な責任を感じていた、俺くらいのものだ。せめて元気づけてやろうと声をかけたのだが、六花は何を言っても幽霊のようにうっすら笑って「伝染るよ?」と言うのだった。何の病気とか、自分でも分かっていないくせに。

 六花の父親が心を病んで自殺してからは、とうとう母親を止めるものは何もなくなった。彼女はいよいよ気をおかしくさせ、病気以外の症状で彼女を貶し始めた。

 どこの何ともしれない新興宗教に、どこかの国の怪しい魔術。母親は六花を完璧にしたいが故に、父の保険金まで食い潰し、生活を破綻させていった。



 ──娘の脚を切って欲しいの。



 中学二年生になったある日の、未明。親父の病院の門戸を叩いた六花の母親は、一も二も無くそう言い放った。表情が消え失せ、まさしく人形のようになった六花を突き出して。

 狼狽える親父に、六花の母親はずいと詰め寄って、何やら怪しい紋様の並んだ、黒い革表紙の本を見せつけた。



 ──六花の影がね、よくないのよ。ホラ、黒いでしょう? 六花の影は黒いの。よくない物を呼び寄せるの。くろぬろが影を伝って、六花を食べてしまうのよ。



 ──だから、切り離さなきゃいけないの。足首から先の、地面に着いてる部分をね。そうしないと六花は完璧になれないわ。綺麗なままでいられないわ。



 親父が回答に窮する間にも、六花の母親は息を荒げ目を剥き、掴みかかる程に親父に迫る。切って、切ってよ、切りなさいよどうして切らないのよ! 切れ! 切れ! 切れぇぇぇぇぇ! と、劈くような金切り声が部屋に満ちる。

 気付いたら、身体が勝手に動いていた。俺は親父の脇を抜けて、固まる六花の手を強引に掴み取った。

 六花の表情も伺わず、俺は駆け出した。無力な中学生として抱いていたモヤモヤ、無力感がエネルギーに変わり、俺の足を動かさせた。

 六花の母親の鬼のような怒号を振り切り、深夜の街をひた走る。

 十分以上は走り続けたかもしれない。人気のない郊外の廃墟に逃げ込んだ俺は、未だ呆然とした六花の両肩を掴み、叫んだ。



「お前は、凄い!」

「六花はみんなの憧れだ! 病気なんかあるもんか!」

「六花は強い! 俺なんかより、あんな母親なんかより、よっぽど強いんだよ!」



 現実を理解できない淀んだ瞳を覗き込んで、そう言葉を叩き込む。

 六花の瞳は淀んだまま、光を映そうとはしなかった。伝染るよ、伝染るよ……と譫言のように呟く。

 そして唐突に身体から力が抜けると、俺にそっと体重をもたれさせ、糸が切れたように眠りに落ちていった。



 程なくして、六花の母親は消えた。いつの間にかこさえていた膨大な借金によって、唯一残った家も差し押さえられた。

 住処を失った六花は、俺の家に匿う事となった。彼女は死んだような目をしたまま、毎朝自分で聴診器を胸に押し当て、自ら腕を切って血を小瓶に貯めて、それを親父に差し出して検査を願った。

 六花はもはや、健常ではなかった。彼女の心は母親によって付けられた傷が膿となり、決して消えない痕として残っていた。










    ◇






 ハッと、意識が覚醒する。

 どれだけの間、気を失っていたのか──自分の腕さえも見えない暗闇の中で、それに答えを得ることはできない。

 さながら、海の底で目覚めたようだった。六花が俺に纏わり付いて、全身が生暖かい物に包まれている。

 柔らかく包み込むようなソレに唐突に恐怖を覚え、俺は身を捩り、何とか後ろを振り返る。燃え尽きかけの蝋燭のようなランプの明かりは、ほんの数メートルしか離れていないはずなのに、夜空の星ほどに遠く見える。

 闇を掻き分け泳ぐように、その明かりを目指す。身体に纏わり付く感触が、ぎゅっと俺を締め付けてきた。深い微睡みのような心地よさの中に、痛みが混ざる。



「ぐっ……十分だ。もういいだろ……六花!」



 必死に藻掻き、何とかランプを掴み取る。

 紅色の炎を翳すと、纏わり付いていた影は嘘のように搔き消えた。視界に正体は一切映り込まず、急速に俺の身体が、あるべき重力に捕らわれ、落ちる。



「ふぎゅっ!」



 どすんと重たい音が二つ。六花の素っ頓狂な悲鳴が、すぐそこで聞こえた。

 素早く宙に揺れるコードを引く。パッと裸電球が灯り、橙色の光の下に、鼻を押さえる下着姿の六花が現れた。



「っぅぅ~~! もぉ、急に明るくするなんて酷いよ。鼻打っちゃった……!」

「無茶言うなよ、こっちも必死だ」



 バクバクと跳ねる心臓を抑えられないまま、俺はすっかり乱れた衣服を整える。

 脳がじんじんと痺れている。明かりの下に自分の身体を晒して、やっと自分を認識する。

 何十時間も寝ていたように、体が重く、自分の体であるという確証が得られない。一体どれだけ弄ばれ、飲まれていたというのだろう。

 激しい動悸を深呼吸で強引に落ち着かせ、俺は鼻を押さえて半泣きの六花の上半身に、シャツを被せる。



「……うわ、もう七時かよ? そんな時間経ってたのか」

「えへへ、楽しい時間は、あっという間に過ぎちゃうからねぇ。今日は泊めてくれる?」

「んなこと言って、帰るのが面倒くさいだけだろ。ほんと、調子いい奴」

「人のこと言える~?」



 俺の頬を、背後から六花が突っついた。振り向いた先には、見惚れるほど綺麗で、ぞっとするほど怪しい、悪戯っぽい微笑。



「傍にいるだけじゃいられなくて、触れるだけでもまだ足りなくて、踏み込んで包まれようとして……明良の方こそ、私に夢中。すんでの所で臆病になって、踏みとどまっているだけ。そうでしょ?」

「やめてくれ……そんな訳、ねえよ」

「くひひっ、素直じゃない明良も、私はだーいすき。だから私は、今の生活も大好き」

「っ……」



 俺はたまらず、目を逸らす。

 目の前の晴れやかな微笑は、この薄暗い地下室と先ほどの理解不能な体験には余りに不釣り合いで、可憐で。見つめ続けると、人間の定義の方を見失ってしまいそうだ。

 催眠に似た誘惑を打ち払うように、俺はランプを六花に押しつけた。



「もう日は沈んでるだろうから、それ持ってろ。泊めてやるから、部屋に戻ろう」



 先ほどまで脳を埋め尽くしていた気絶するほどの官能的な気持ちは、どこかに消え失せていた。俺は逃げるように、薄暗い地下室の階段に足を掛ける。



「ねえ、明良」



 心臓を握りこむような、甘い声。

 振り返った先で、六花はやはり、この世のものとは思えない笑みを浮かべていて。



「そろそろ、来るかもよ」

「……何が?」

「お迎え」



 カチチッと、倉庫の裸電球が点滅した。六花の笑みが、瞬間、陰る。

 握り込まれた心臓を、潰された気分だった。

 六花は、何でもない事のように、決して聞きたくない言葉を呟いた。やっと取り戻した身体の感覚が、また遠くなる。

 溺れかけて水面に手を伸ばすように、俺は六花の手を取った。踏み抜くほど強く力を入れて、地下室から上昇する。



「そんなこと、俺がさせるもんか……!」



 心から、強くそう宣言する。くひひっと、背中越しに六花が笑った。

 俺の虚勢は、完全に六花に見透かされていた。


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