第2話




「や」



 原付を押して校門まで来た所で、六花に鉢合わせした。

 いや、待ち伏せしていたのだろう。飄々と手を挙げてみせる顔は、随分と悪戯っぽく緩んでいる。青い空と校舎、そして六花自身の美貌は、そんな悪魔的な微笑も一枚の絵画のようにしてしまうのだから、美人というのはつくづく罪だ。

 俺は努めてつまらなそうに鼻を鳴らし、六花の前まで原付を押して近づく。



「磯川達と一緒に、カラオケじゃなかったのか?」

「気分じゃないって断ったよ? もー、ちゃんと聞いてるの?」

「何で四六時中、お前の話に耳を傍立ててなきゃいけないんだよ」

「なあんだ、てっきり聞いてくれてるものと思ってた」

「ったく、俺はお前の何なんだよ──」



 そう言って、しまったと気付くも、遅い。

 眼前の六花の唇が、にぃ、と歪む。

 背筋がぞわりとするほど妖艶で、蠱惑的な微笑み。

 その顔は美しく、晴れやかなのに、どこか陰っていて。



「言わせたいの? 明良」

「……聞きたくない」

「んじゃ言わない。ホラホラ、ヘルメット被って、これも持ってくーださい」



 軽やかに笑って、体操着入りの袋を背負わせる。俯いた俺の視界に、六花の脚が映る。

 スカートからスラリと伸びる、艶やかで肉感的な白磁の脚。地面に着いたその先端に、あるべき黒色の影はない。どれだけ見ても視覚が混乱し、まるで宙に浮いているような錯覚を抱かせる。

 朝と同様に原付の後部に飛び乗ると、六花は軽やかに声を張った。



「それじゃ、明良の家までゴーゴー! 急がないと日が暮れちゃうよ」

「まだ夕方にもなってないけどな」



 悪態を独りごちて、俺は六花に背中を押されるように原付のエンジンを唸らす。道路に影を落とすクヌギの影を、大きく迂回してかわして、加速。

 影を奪われて以来、六花は人ならざる性質を手にすることになった。

 彼女の身体は、影のある場所で浮き上がる。影が大きい程に高く、暗い程に速く、彼女は空へ昇ってしまう。

 だから、日が傾く夕方は危険だった。影が長くなるほど、六花が動ける場所は少なくなる。そうして立ち往生したまま夜になれば……考えられる限り、最悪の事態になるだろう。



「今は夏だからいいけど、冬は放課後まで待ってられないかもねぇ。ちゃんと授業受けられるかな?」

「呑気な奴だなぁ、俺は不安でしょうがないのに」

「えへへー、心配ありがとう。でも大丈夫だよ。私、この生活も好きだから」

「……それなら、良かったよ」



 本心を呟く。ここに来る前の六花を知っているからこそ、喉から出る言葉は重く淀んでいた。

 顔を横に向ければ、燦々と照る太陽が沈んでいく水平線が見える。キラキラと宝箱のように輝く海岸線を眺めながらしばらく行けば、二方向に折れるY字の交差点があり、そこを内陸方向に曲がる。

 だだっ広い田園をひた走る。未だ高い太陽がアスファルトに映し出す影は、原付に乗る俺一人分だけ。それを意にも介さず、六花はまた後部座席に立ち上がり、長い黒髪を風に靡かせる。

 遠くの山からの蝉の声が山びこのように響く。抜けるような青空には、西に傾き始めた真白の太陽。どこまでも続くような広い田畑は、まるで世界に二人きりのような錯覚を抱かせるが、地面に映る影だけは、一人きりだ。

 地面に存在を映さないまま、六花は俺に顔を寄せた。にひひっとはにかむ声が、耳をくすぐる。



「明良……いつもありがとね」

「……礼を言われる筋合いは無いよ」

「私が言いたいだけだから、気にしないで」



 馬鹿みたいに甘い、腐れ縁の幼なじみの囁く吐息。

 どうしてか、六花は時折俺に感謝をしてくる。全く謂われの無い感謝。

 俺に親切にされていると考えているのなら、それは胸の痛い話だった。六花が事ある毎にお礼を言うのなら、果たして俺は、何回地面に額を擦りつけて詫びれば自分の犯した行為に見合うのだろう。

 そんな憂鬱を空気と同時に飲み込んで、俺は原付のアクセルをふかす。すぐ後ろで六花が楽しそうに笑い、俺の体を声がすり抜けていく。

 原付を石塀の傍に停めている間にも、六花は勝手知ったる様子で、玄関に歩いていく。軽やかなステップが、長く伸びたクヌギの影に踏み込み、そのまま影の中、七メートルほどの高さを一息に跳躍する。

 ふわりと浮いた六花は、クヌギの枝に手を伸ばし、吊り下げられていた鍵をかすめ取る。そのままくるりと一回転し、影から飛び出しひらりと着地。合鍵をくるくると指で回しながら、俺を急かす。



「ほらほら、明良も早く」

「飛ばなくても俺が開けるってば。着地ミスして頭でも打ったら、洒落にならないだろ?」

「心配性だなぁ。それより喉渇いちゃった」

「スポドリ? 麦茶?」

「むぎちゃー」



 気の抜けた鳴き声のように返事をして、六花がドアをくぐる。

 玄関脇にある靴箱の上には、未開封の便箋が堆く積まれていた。味気ない茶封筒の山は一部が雪崩を起こし、出しっぱなしのスニーカーにすっぽりと突き刺さっている。



「性懲りもなく、まだ来るんだねえ。一枚くらい読んでみたら?」

「やだよ、面倒くせえ」



 吐き捨てるように応える。六花は露骨に興味を逸らし、明かりのついてない薄暗い廊下を、まるで月面にいるかのようにぴょんと跳ぶ。

 六花は日常的に、俺の家に入り浸っている。彼女も独り暮らしの家を持っているが、食事をして寝るだけの場所と自称している。

 俺がこの家を選んだ際に突きつけた諸々の条件は、全て六花の為のものだった。周りに影の生まれない土地。影を産まない南玄関。そして、地下室。六花が俺の居場所を浸食するのは分かっていたから、俺は六花の事を考えてこの家を借りた。

 彼女との爛れた関係を、継続させる為に。

 自然と、六花に目が行く。薄暗い台所に踏み込み、直立の姿勢でふわふわと宙に浮きながら、麦茶のペットボトルをラッパ飲みしている。

 明かりを点けると、彼女の身体は途端に重さを取り戻し、フローリングの床にストンと落ちる。唇の端からぴゅっと麦茶が吹きこぼれ、六花の白い首筋を濡らした。

 その液体を白磁の肌に塗り込んで揉み潰しながら、六花はくすりと微笑んだ。



「そいじゃ……しよっか」



 俺が何か言うよりも早く、六花はくるりと身を翻し、リビングのガラス戸を開けて、庭に飛び出す。

 雑草交じりの土の上を裸足も厭わずにスキップしながら向かうのは、庭の隅にある、離れの倉庫だ。木組みの倉庫は何十年もの劣化でタールのような黒ずみをこびりつかせており、まるで影に浸食されているような陰湿な空気を漂わせている。

 ただの大きな木箱には違いないが、お札の一つや二つ貼っていたって驚かない……そんな黒々とした倉庫に、六花はまるでコンサートに赴く少女のような足取りで近づき、ギィと軋む扉の向こうに姿を消した。

 放っておくという選択肢は無かった。俺が追いかけなければ、彼女はきっと永遠に出てくることはないだろう。そう確信するだけの経験を、俺はしてきている。



「……」



 緊張と、畏れと、それから期待。僅かな興奮。ない交ぜになった感情が俺の喉をごくりと鳴らす。俺はリビングに散らばってる百円ライターを三個ほどポケットにねじ込むと、六花の後を追って倉庫に踏みいった。

 倉庫の中は、外に負けず劣らず老い廃れた空気が漂っていた。壁に開いた虫食い穴から日が差し込み、ボロボロの戸棚に陳列された埃まみれのビンや、酸化しきった機械油のポリタンクを浮かび上がらせている。夏の湿った熱気が泥のような粘りけを伴って、俺の身体を包み込む。

 少し風が拭いただけで、ギィとどこかが悲鳴を上げ、切れかけの蛍光灯が、カチチッと点滅しながら倉庫を照らしている。

 樹海に迷い込んだような不気味な灰色の部屋。その床に、黒色がぽっかり口を開けている。

 倉庫の一角は、地下室への入り口になっていた。見下ろすと、同じく古い黒ずみだらけの階段が続き、その奥で、暖色の光が灯っている。

 深い深海の魔物が口を開け、俺を誘っているようだった。俺はまさしく吸い込まれるように、脚を穴に差し入れる。

 一段降りて、古びた木が軋む度に、現実味が失せていく。一歩潜る度に、風邪の時に見る夢のような不条理な不気味さが腸を冷やしてくる。暑さが身を潜め、纏わり付くような気持ち悪さと埃の匂いだけが残る。

 降りきった先には、ほとんど何の物もなかった。煤が舞い散り、視界をノイズが走ったように煙らせる。腐り落ちた木の壁から湿った土が剥き出しになり、一つきりの裸電球が、不気味な橙色の明かりでそれを照らし出している。

 これから人を生き埋めにするような異常な閉塞感の地下室。

 ぶらぶらと揺れる裸電球の下で、六花は俺を待っていた。清廉な制服を、陽炎のように浮かび上がらせて。



「緊張してる?」

「……別に」



 不可思議に澄み渡った、鼓膜に直接届くような声。それにぶっきらぼうに応じて、俺はライターで、隅にかけられたランプに火を灯した。橙色の明かりが一つ増えた程度では、倉庫に充満する鬱屈とした闇は、全く消える素振りを見せない。

 スラリと伸びた肢体を明かりに艶めかせながら、六花は俺の強張った顔を見て笑う。



「あはは、分かりやすいなあ、明良は」



 そう言って、彼女はおもむろに制服を脱ぎ始めた。

 白魚のような指を動かし、ぷちぷちとボタンを外していくと、躊躇いもなく上半身を曝け出した。脱ぎ捨てられた純白のシャツが、湿気った土にぱさりと落ちる。

 滑らかな曲線を描いた腰。刺繍をあしらった純白のブラジャーに支えられた、ふっくらとした胸。珠のように白い肌が、おぼろげな明かりの中に浮かび上がる。

 息どころか心臓の鼓動まで止まってしまいそうな、衝撃的な光景。俺の止まった時間が動き出すのを待つことなく、六花は更にスカートのジッパーを降ろし、地面にストンと落とさせた。

 朧げな橙色の明かりの下に、下着姿になった六花が佇む。息が詰まりそうなかび臭い地下室で、艶めいた白磁の肌の幼馴染が笑っている。

 振り切れた美しさがむしろ恐ろしい、この世のものとは思えない強烈な光景だった。



「っ……」

「なあに……もしかして怖いの? まだ?」



 強烈な幻覚剤でも投与されたかのように、意識がぐらりとして、地面をきちんと踏んでいる自信が無い。六花は変わらない微笑を讃えて、天上から伸びる細いコードを引っ張った。

 ぷちん、と裸電球が闇に飲まれる。美しい六花の肢体が、その瞬間影に溶け、混ざった。

 ランプのか弱い炎の橙色だけが、地下室を照らしている。

 頼りない橙色の中で、朧気な六花の輪郭が、ふわりと宙に浮いた。

 現実味を置き去りにした光景。夢のようだとすれば、見ているものは確実に悪夢だ。

 くすっ、と闇の中で囁くような微笑。辛うじて見えていた六花の輪郭が、水中でそうするように手を掻き、俺から遠ざかるようにして闇の中へ消えた。反射的に手を伸ばし、一歩を踏みだし闇に近づく。



「りっ──」

「こっちだよ」



 次の瞬間、両脇に腕を通され、俺の身体は宙に持ち上げられた。

 あっと思う間もなく、俺の身体がランプの明かりを飛び出し、闇の中に落ちる。光が奪われ、視界が漆黒に塗り潰される。

 黒とは無なのだと、否応無しに思い知らされる。視界が意味を失うと、生きているという感覚が遠くなっていくようだ。

 死に限りなく近い闇の中で、六花は泳ぐ。重力すらも無視して、自由に、楽しげに、俺の周囲を回る。



「ふふっ……あーきらぁ」



 六花が俺に絡みつく。シャツのボタンを開かれ、隙間に手が滑り込む。ズボンのベルトが地面に落ちるカチャンという金属音が、いやに遠い。

 何か長い、帯のようなものが幾つも蠢いて、俺の四肢に纏わり付く。ただ『六花である』とだけ察する事ができるそれの正体を確認する術は、この闇の中には無い。まるで六花が影そのものになったよう。影が形を持って、俺を愛しに来ているよう。

 通常では有り得ない抱擁に、愛撫。異常な快感がぞくぞくと背筋を駆け上がり、俺を浮かしていく。



「こんな事をしてるの、瀬名が知ったら何て言うかな」

「っ……なん、で……磯川の名前が出てくるんだよ……!」

「さあー? 何ででしょー……にひひ」



 背中に声がかけられたと思えば、悪戯っぽい微笑が耳元に吹き付けられる。

 六花が触れる度に。俺に纏わり付く度に、身体も心も宙に浮いていく。重力を忘れ、闇に放り出される。

 快感が、それ以外の感覚を締め出していく。熱い、苦しい、そんな命ある感覚も、遠くなる。呼吸するために魚のように開閉していた口が、六花の唇らしきもので塞がれた。

 暗闇の中で六花が絡みつく程に、俺の身体も重力を忘れる。浮いていく。どこまでも高く、手遅れな程遠くに。

 その感覚は、気ままな宇宙旅行とは似ても似つかない。最も近似な体験は、恐らく死だ。

 甘く震えるような刺激。身体から、魂が吸い出されていくよう。底の見えない闇に溶けて、消えてなくなってしまうような、恐ろしい逢瀬。



「あきら……だーいすき……」

「っ……!」

「ふふっ。やっぱり、答えてはくれないんだね……そういう所も、今は大好きだけれど」



 六花が笑い、俺を包み込む。食虫植物に絡め取られた蠅のように、飲み込まれ、溶かされる。

 これが俺達の、爛れた逢瀬。

 俺と六花は、被害者と加害者であり、逃亡者と逸脱者であり、依存者と劇物だ。

 もう二度と切り離せない。根が絡まった樹木のように一心同体で、柔肌に押しつけられた煙草の跡のように消える事はない。

 六花は"くろぬろ"に、影を奪われ。

 俺は六花に、影を踏まれている。

 まどろみのように重くまとわりつく、途方も無く恐ろしい快楽こそが、俺が招いた罪の味だった。


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