影踏み六花

澱介エイド

第1話


 これは朝焼けでさえ肌を焦がすような熱い夏に起きた出来事。

ある少女の、結末の話だ。





 うだるような蒸し暑さの、早朝。レーザーのように強烈な日差しが、カーテンの隙間から俺の目を精密射撃する。ちかちかする目を瞬かせて起きれば、クマゼミの耳鳴りがするほどのけたたましい鳴き声が、窓の外から叩き込まれる。



「……うる、っせえ……」



 自分が出せる、最大限の不快の声。朝日に照らされ星屑のように煌めく埃が、俺の悪態で吹き飛んでいく。

 庭付きの家なんて選ぶんじゃなかった。だだっ広い田園を正面に据えた、二階建ての一軒家。田舎に越してくる際に、色々と条件を示して探し当てたこれが、俺の家だ。郊外のため家賃も安く週二回バイトすれば十分に賄えるということで即決したものの、夏場のセミの大合唱は想定外だった。

 寝不足の頭が重い。ベッドからもそりと起き上がり、汗で張り付くシャツをパタパタ動かす。

 明かりがなくても、カーテン越しの陽光だけで部屋が灰色に透けて見える。脱ぎ散らかした服、ペットボトルの飲み物、携帯ゲーム機、それらよりも沢山の、薬学や医術の分厚い本。汚部屋という程ではないが、片付けようと思えばそれなりに時間が掛かる、一人暮らしの男子高校生の部屋。

 寝ぼけた頭でぐるりと見回した俺の視線が、ベッドの脇の時計に注がれる。時計が示した時間に気づき、更に「うげ」と悪態が漏れた。

 もう奴がやってくる時間だ。七時三十分まで、あと五秒──二、一──

 目覚ましがジリリと鳴るのと同時に、窓に小石が投げつけられた。

 ガラスが鳴るカチンという音に、背筋が冷える。割れるかもしれないからやめろと何度も注意してるのに、アイツは全く治す気がないらしい。そう思っている内にも、続けて二発目、三発目。



「おい、やめろって……もう起きてるよ。やめろってば、六花りっか!」



 窓を開け放ち、不意に差し込んだ陽光に視界を白くしながら、叫ぶ。

 まさにその瞬間、投げられた四発目が、俺のシャツにしがみついた。

──すぐそこのクヌギからはぎ取ったのだろう、クマゼミが。



「うわぁぁぁぁぁぁぁ!?」

「あっはははは! だーいせーいこーーー!」



 大暴れする蝉に悲鳴を上げる俺。窓の外から、高らかな大笑いが響く。

 やっとの事で蝉を追い出し、俺はバクバクと跳ね上がる心臓を手で押さえながら、二階の窓から見下ろして、眼下──青空の下に立つ、腐れ縁の同級生を睨み付ける。



「六花ぁぁ! おまっ、蝉を投げる奴があるか!? 虫にも命があるんだぞ、も少し敬え馬鹿!」

「それを言うなら、何でいま目覚ましが鳴るのよ。毎日この時間に来ること知ってるでしょ。私を蔑ろにしてませんか、明良あきらクーン?」



 寝起きにセミをぶつけられた俺は、きっと相当に間抜けな面をしているんだろう。陽光に目を細めながら、六花は俺を見上げて、吹き出すように笑う。

 瞳は大きく、整った顔立ちは活発的。半袖の学生服から伸びる肢体は日焼けという概念がないらしく、夏の陽光に晒されても絹のように真っ白だ。腰まで伸びた長い髪は、日差しを受けて黒曜石のように輝いている。

 強烈な日差しの下、満面の笑みで立つ六花は、悔しいがとても様になっている。六花は清廉な容姿とは対照的に、悪戯っぽく白い歯を見せる。



「そんで、寝ぼすけ明良は、まだ時間かかりそう? ならお茶の一杯でも奢って貰いたいなーって、私は思っちゃうんだけど」

「ちょっと待ってろ、五分で支度するから……ああもう、心臓バクバクする……!」

「ダッシュでよろしくねー。私が干物になる前に」



 最悪の寝起きだが、お陰でうだるような暑さが気にならなくなった。急いで汗を拭き、着替えて、学生鞄を引っ掴む。冷蔵庫からペットボトルのスポーツドリンクを二本手に、玄関へ。

 ドアを開けた先に、六花が待っていた。スラリと細くしなやかな立ち姿に、初夏の日差しが後光のように差し込んでいる。両腕を後ろに組んで立つ姿はいかにも清廉な出で立ちで、先ほど他人の家に蝉を投げ込んだ奴と同一人物かと、本気で疑ってしまう。



「おはよう、明良」

「白々しいな、お前は……ホイ」

「やふー! 気が利きますねぇ。んー冷たいっ」



 投げ渡したスポーツドリンクを頬に押し当てご満悦の六花。寝起きの頭には、コイツの明るい性格は太陽よりも尚眩しくてしょうがない。



「何度も言うけど、迎えに来なくていいんだよ。朝は限界まで寝てたいんだ」

「そんなこと言って、始業式三日後に早速寝坊したのは誰でしたっけ?」

「……今は起きてるよ、今は。ちゃんと習慣づいてる」



 痛いところを突かれた俺の渋面がそんなに面白いのか、六花は白い歯を見せて笑う。夏の青空によく似合う、とにかく眩しい笑顔だった。

 六花はこんな風に俺をからかいながら、ほとんど毎日のように俺の家へとやってくる。彼女の家から、学校とは反対方向にあるにも関わらず。徒歩二十分くらいの距離を、わざわざ早起きしてやってくる。

 普通の友人、という関係では無い。元々同じ都会住みで、示し合わせて同じ高校を受験し、この田舎にやって来た。小学校からの長い付き合いではあるが、毎日のように朝起こしに来られるのは、なんだか男として気恥ずかしい物がある。

 迎えに来なくていいと再三告げているのだが、六花は「いいじゃん別に」とどこ吹く風だ。



「あっつーい日差しの中、田んぼの傍をえっちらおっちら歩いて、バスにガタガタ揺られるのも、まあ風情があるけどさ」



 まるでゼンマイ仕掛けの人形のように、大袈裟に足を上げ、えっちらおっちらクヌギの木陰の外周を回ると、門の傍に停めてある原付をぽんぽん叩いて笑う。



「せっかく、送迎してくれる都合のいい友人がいるんだもん。活用しなきゃ損でしょ……うわ、座席あっつ!」

「まあ、お前が乗りたいっていうなら、拒否はしないけどさ」

「ふふ、嬉しいくせに気取っちゃって」

「重くなる分燃費が悪くなるんだからな、今度ガス代請求するぞ」

「もー、すぐそんなこと言うーっ」



 ぷぅ、とふざけて頬をむくれさせながら、六花は慣れた様子で原付の後部に跨り、俺の差し出したヘルメットを被る。



「落ちないよう、しっかり掴まってろよ」

「抱き着かせる言い訳、りょーかいです。役得ですねぇ、明良」

「ったく……後悔しても知らねえぞッ」



 意気込み、アクセルを一気にひねる。エンジンがわんと唸りを上げて、楽しげな六花の悲鳴を置き去りに走り出す。

 抜けるような青空だった。宇宙まで見通せるような深い青色を背景に、地上に広がるのは一面の水田。背の高く伸びた稲が、未だ若く萌える穂を温かい風にそよがせる。風の動きをなぞるように波打つ稲穂は、まるで地上に海ができたかのようだ。

 田んぼの間をまっすぐ突っ切る、車が二台ギリギリ通るようなアスファルトの道。他に車もない真っ平な大地を、原付をふかして走る。

 腰に回されていた手が肩に乗せられ、立香が立ち上がる。頭上から、背伸びする猫のような歓声が降ってきた。



「ん~~~~……! やっぱり気持ちいいなあ。空に雲はなくて、地面には影もない。この時だけは、夏が一番好き!」

「後部座席に立つなって。危ないぞ」

「これが一番、風を感じられるの~」



 俺の苦言もまさしくどこ吹く風で、六花は俺の肩を掴んで、風を浴びる。腰まで伸びる黒髪が、鯉のぼりのように中空にはためいている。



「ねえ、明良!」

「ん?」



 吹き付ける風に負けないくらいに声を張って、六花が俺を呼ぶ。



「さっきはごめんね! 怒ってる?」

「……今更、あんなので怒ったりしねえよ!」



 同じように声を張り上げる。両肩がぎゅっと握られる。くひひっと、頭上で六花が笑った。



「よかった! 次はミンミンゼミ持ってくるね! 一番元気いい奴!」

「やっていいとは言ってねえからな!!」



 思わず後ろを振り返り、見上げる。六花は真夏の日差しを一身に浴びて、太陽にも負けない輝く笑顔を浮かべていた。

 真夏の青空に、白い制服と黒曜石のような長髪が躍る。その姿はとても綺麗で、次の瞬間にはその姿を透き通らせて、青空に溶けて消えてしまうのではないかという程に、非現実的だった。



 その表現は、決して誇張ではない。実際に六花は、俺なんかは住む世界の違う、手の届かない存在だ。

 ため息が出るような美貌を持つにも関わらず、男も狼狽えるほど活発な性格。声は琴を爪弾くように綺麗なのに、口を開けばJポップ顔負けに賑やかだ。

 幼少期の教育がおかげで、文武共にトップレベルに優れている。

そんな彼女は、当然のように人気者で、いつも誰かのグループに混ざっている。

 田畑と、海と、海岸沿いに群生する松林だけが取り柄の田舎町。クラスも二つしかなく、小中からの顔見知りばかり。そんな中にいきなり現れた六花は、まさしく都会から来たお姫様だった。日焼けの目立つクラスの中に咲く、真っ白な一輪の花。現実離れした美貌と人を魅了してやまない明るい性格で、代わり映えのない田舎の日々に彩りを添えている。。



 そんな訳で六花は大変に注目を集めるため、対する俺は『彼女と一緒に都会から来た』という要素も早々に忘れ去られ、遠巻きに会話に華を咲かせる六花を眺めるばかりだ。

 例えば、体育。

この時期、夏のうだるような暑さは体育館という閉鎖された空間で更に熟成され、もはや殺人級に達している。足元の換気口から吹き込む潮混じりの風は、気休めにもなりはしない。

 シューズのキュッキュッと床を滑る音に、バスケットボールが弾む重たい音が重なる。俺はその音を小耳に挟みながら、体育館の隅、人目が付きにくい場所で本を開いている。



「月宮くん、何読んでるの?」



 目ざとく見つけた磯川が、俺の横から本を覗き込んできた。広い六花の交友関係でも、よく遊んでいる友人の一人だ。



「臨床心理学の、特殊事例のプロファイリング」

「うげぇ、難しそう。頭入るの? こんな暑い中で」

「いや、全く」

「……何してんのさ、君は」

「何となくだよ。読む癖を習慣づけときたくてさ」



 湿気って柔らかくなった、大して面白くもない本から目を上げ、辺りを見回す。バスケに参加していない生徒は軒並みオットセイのように床に寝転がり、少しでも冷たいスペースを探してもぞもぞと動き回っている。人間を止めたような彼等よりかは、幾分マシな地獄の過ごし方をしていると思う。

 磯川はほへー、と分かったんだか興味がないんだかよく分からない鳴き声を上げて、そばかすの浮いた頬を掻いた。今さっき試合をしていたお陰で、ショートボブの髪の毛はしっとりと肌に張り付き、汗の粒が滴っている。ぐっしょりと濡れた体操服に薄桃色のラインがあるのを認めて、咄嗟に顔を本に戻した。幸い、気付かれてはいないらしい。



「医者になりたいんだっけ、月宮君。こんなド田舎で殊勝だねぇ」

「まあ……今のところは」

「この辺り、別段医大とか何にもないんだけど。月宮君はどうしてここに?」



 暇を潰す世間話、それ以上に意味のない質問だったが、瞬間的に体育館の音が遠くなったような気がした。

 スリーポイントシュートを狙ったボールがフレームに当たって跳ね上がり、足元に昏い影を落とす。

 文庫本の端っこを指でくしゃりと潰して、俺は答えた。



「広い景色が見たかったから、かなぁ……それ以上聞きたい?」

「ううん。無理に言わせたくもないから、この話はここでおーしまい」

「あ、おい」



 緩く首を振ると、磯川はさっと手を伸ばし、俺から文庫本をかすめ取った。見開きのそれを団扇がわりにパタパタと仰ぎながら、得意げにほほ笑む。



「ウチとしては、興味ない読書に時間潰すより、素直に彼女に見惚れとく方が吉だと思うよ?」

「アイツはそういうのじゃねえよ」

「まったまた……ま、それでもさ。面白いから見ときなよ」



 意味深に頬を持ち上げる磯川につられて、俺は体育館中央のコートに視線を向ける。

 男女混合のトーナメント試合の、決勝戦。残り時間も僅かな中、試合は一進一退の苛烈な戦況を展開している。

 学校側がカリキュラム通り開催した、クソ暑い中で激しく動くバスケットボール。何が悲しくて、という悲壮が一周回ってヤケクソになり、こうなりゃお互い意地でも負けられないと激しくパスを回す。そのボールを、六花が受け取った。

 ボールを胸の前に持った六花は、こちらにチラリと視線を寄越し、不敵に唇の端を持ち上げる。ダムとドリブルを一つ、暑さも気にしない涼やかな声で「よーし!」とかけ声。

 それが合図だったのだろう。傍に立っていた磯川が素早く動き、壁に備え付けてあるスイッチを押した。

 瞬間、フッと照明が搔き消える。

 体育館が、天窓から陽光が差し込むだけの仄暗い影に包まれる。

 その中で六花は一歩、二歩と踏み出し──



「てぇ──りゃああ!」



 ──灰色に陰る空を、飛んだ。

 踏み込んだ勢いのままに、六花の身体は床に別れを告げ、斜め上へと舞い上がる。

 さながら、ハリウッド映画のワイヤーアクションのようだ。しかしながら、種も仕掛けもそこにはない。

 誰もが呆然と見上げる中、六花は灰色の虚空を泳ぐ。ゴールポストまで浮遊すると、くるりと上体を回転。ウルトラCのダンクシュートを叩き込んだ。

 同時に、電子タイマーの、試合終了を告げるアラーム音。ダンクシュートの余波でぐるぐる回転しながら、六花は太陽のような顔で笑った。



「よっしゃーー! 大、逆、転!」



 明かりが点くと、六花は重力を取り戻した。ひらりと着地し、体操選手さながらに両手を振り上げたY字の姿勢で笑う。突然の非現実的な曲芸に、共犯者の磯川を初め、皆がおーと声を上げて拍手を捧げる。

 と、その喝采に水を刺すように、ピピーとホイッスルが鳴る。コートの中央で審判をしていた先生が、冷ややかな調子で六花を指さした。



「小日向、ファウル」

「えーーーー! 何の!?」

「えっと……トラベリング的な」

「歩いてないよぉ先生! ちゃんと見てた? 浮いてたじゃん私!」

「じゃあアレだ、バルーンだ。とにかくズルはダメ、B組の勝利~」

「ちょっとぉぉ!」



 無情にもホイッスルが鳴り、六花の素っ頓狂な悲鳴とクラス中の笑い声が、蒸し暑い体育館の中に響く。

 昔、あんな風な中国のサッカー映画が流行ったな──とぽつりと思って、俺は六花から逃げるように、つまらない話ばかりの文庫本に目を落とした。




 小日向六花は、特別な存在だ。

 それは彼女が美女だとか、都会育ちだとか、変わった家の生まれとか、それだけではない。

 彼女の影は、"くろぬろ"が奪ってしまったのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る