逃げてきた理由(わけ)

「……疲れてしまったのよ。恋も、仕事も」


「頑張ったんだね」


 ようやく絞り出した言葉は自分でもみっともないくらいにかすれていた。


「ええ、頑張ったの。でもうまくいかなかった。何もかも」


「そっか……」


 言葉はそっけないけれども、向けられた柔らかな笑顔は私の疲れてひび割れた心を癒してくれる。


「運が悪かったんだわ」


「運?」


「そう。上司とも同僚とも相性が悪かったの。彼だって最初は優しかったから騙されちゃった」


「なるほど」


「だから全部忘れてやり直したいの。次こそうまくやれるはずだから」


「いやなことは全部忘れて?」


「ええ、何もかも忘れて新しい自分になるの」


「それで本当にうまくいくの?」


「もちろんよ。だって新しい私に生まれ変わるんですもの」


「……本当に?」


 柔らかな笑みはそのままに、声の温度がすぅっと低くなった気がする。かけられた言葉よりも、その冷たさにぎょっとして、思わず彼の顔をまじまじと見た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る