第32話 弟子

 一時間前

 戸科下市 ホテル陽世ひぜ


 ヴェスが魔界に渡るゲートを築いたのは廃ホテルの一階だった。ゲートの魔法陣を描くには広い面積が要るため、食堂と売店とエントランスの壁をぶち抜いて大広間を作っていた。

 レイドが魔界へ発った後、ゲートは一度閉じてあった。今使っているゲートは簡易的な魔法で、侵攻作戦が本格的に始まった際にはもっと大掛かりな持続型のゲートを開くことになる。

 魔王城には対になる魔法陣があり、次にあちら側でゲートを開けた時は出口がこの廃ホテルの魔法陣に現れるようになっている。この対の魔法陣が無ければ、出口は黒緑神社になってしまうのだ。

 ヴェスはゲートに不備が起こらないよう、不休で魔法陣を見守っていた。他のメンバーは見張り番を交代しながら、落ち着かない様子でレイドの帰りを待っている。一夜明けてもまだ、彼らの中にはガルズ戦死の衝撃が強く残っていた。

 見張り番を終えたジェイが大広間に足を運んだ。ヴェスはエントランスにあったソファを魔法陣の近くに置いて横になっていた。

「よう」

「ん」

 やはり一睡もしていないようで、じっと魔法陣を注視していた。

「おやつ食べるか?」

「今はいい」

「そうか」

 ジェイは人の眼球を団子のように重ねた小皿を、ソファの肘掛に置いた。背凭れに肘を置いて寄りかかり、眼球を一つつまんで口に運ぶ。

「レイド様、まだ帰って来ねぇなぁ」

「うん」

「どれくらい経った?」

「半日……まだギリ十一時間くらいかな。あっちでは二日は経ってるけど」

「二日か。じゃあ、そろそろかもな」

「どうだろう。魔王様に説明するのに時間かかってるのかも」

「ははっ、確かにありえるな。実は俺も、まだ宇宙とかエイリアンとかよくわかってねぇし」

「実はも何も、あんたがわかってないのは皆知ってるわよ」

「あぁん?」

 廃ホテルはやけに静かだった。元から静かではあったが、人間界の新鮮さに昂り、エイリアンに翻弄されるのに忙しかったジェイたちは、それに気づく余裕すら無かった。ここを根城にしてから四日経ち、ようやくこの廃墟のことを――人間界の景色を、しっかりと認識することができた。

 冷静になったのだ。現実を叩きつけられた、と言ってもいい。

 どこか、旅行のような気分だった。戦士の大半が、初の異世界を楽しみにしていた。大事な作戦だとは重々承知していたが、それでもワクワクは止まらなかった。魔法も無い人間界に苦戦するなど、ありえなかったからだ。勇者に苦戦させられた魔王軍にとって、人間界への侵攻は息抜きの戦争でもあった。

 ガルズ副隊長の死という、最悪の形でジェイたちは目を覚まされたのだ。人間界も、あっちの世界と変わらない。油断のならない領域だったのだと。未知へ踏み入ることは、決して易しくはなかったのだと。

「大丈夫?」

「……ん?」

 あくまで魔法陣の方を向いたまま、ヴェスは言った。

「ガルズ副隊長のこと。弟子だったんでしょ、あんた」

「……そうだな。つってもうちの戦士の大半は、ガルズさんの稽古しごき受けてるけどな」

「もう平気?」

「平気ではねぇかな。正直、まだあのヒトが死んだなんて信じられねぇけど……還って来ねぇってことは、そうなんだよな」

 魔導士であるヴェスは大多数の肉体派の戦士とは所属が異なる。ガルズと関わったのは先遣隊に選ばれてからだった。ガルズのことはよく知らないが、彼の死に対する周囲の戦士たちの反応を見ると、おおよそ察することができた。ガルズは彼らの憧れだったのだ。

「ガルズ副隊長、よくあなたのこと褒めてたよ」

「え?」

「腕が良いって。魔法はまだまだだけど、戦闘技術はピカイチだって。ドワーフの軍団を抑えたこと、自分のことみたいに自慢してた」

「……本当に?」

 ジェイは目を剥いてヴェスを見た。

「私にね、魔法の手解きをしてやってくれないかって……頼んでたのよ」

「ガルズさんが?」

「自分は魔法を教えるのはあまり上手くないからってね。先遣隊に選ばれた時に。魔法を身に付ければ化けるって、期待してたよ。もっと体が大きければ、霆哮剣ケラウノス・スクリウムを継承させたいくらいだって」

「おいおい、それは流石に嘘だろ」

「って思うでしょ。本当にべた褒めだったんだから」

 ヴェスはソファの上で体を起こし、背凭れに寄りかかるジェイを見上げた。何本もの傷痕がある彼の顔に手を伸ばす。傷痕をなぞるように頬に触れ、半分に切られた耳を撫でた。

「あんたは『雷戮さつりくのガルズ』に認められた戦士なんだから。自信持ちなさい。魔法は私が教えるから。この、王都史上最悪の魔導士様がね」

 ヴェスはジェイの目を、じっと見つめた。

「あんたを霆哮剣が似合う戦士にしてあげる。ジェイ」

 耳をつまみ、ヴェスはジェイの顔を引き寄せた。視界にジェイが満ち、ヴェスは瞼を閉じた。

 魔法陣の中心に紫色の稲妻が走ったのは、その時だった。稲妻は瞬く間に膨張し、空間に穴を空けた。ゲートが開いたのだ。

「ふぉうわぁああああッ!?」

「痛ッてぇ!」

 ヴェスに思い切り突き飛ばされたジェイは、ソファのすぐ隣にあった柱に顔面をもろにぶつけた。

「はぁ……はぁ……」

「目がぁぁぁぁぁ!」

「ゲート……はっ! ゲートが開いた!」

「角に……っ……角に目がぁぁぁ……」

 肘掛に立て掛けていた杖を取り、ヴェスは急いで魔法陣の中心に走った。ローブの中に入れていた共鳴コウモリを起こし、他の皆にゲートが開いたことを報せる。

 稲妻に囲まれたゲートの暗闇から、誰かが歩いて来る気配がする。おそらくレイドとルラウだろう。

(やっと帰って来た……!)

 顔が熱い。じきに皆も集まって来る。顔色の変化がわかりづらいゴブリンの容姿を、ヴェスは初めて羨ましいと思った。

 林檎のように赤くなった顔にどう言い訳をつけたものかヴェスは考えていたが、すぐに杞憂となった。数秒後には、彼女の顔は青ざめていたからだ。

「……え」

 ゲートをくぐり、現れたのはダークエルフ族の女だった。

 長い白髪を三つ編みに結び、お世辞にも戦地に赴く装いとは言えない下着同然の軽装。申し訳程度に羽織っているローブはむしろ薄着の頼りなさを際立たせている。二メートルを超える長弓を背負い、腰には剣を帯びていた。

「あっ……」ヴェスは思わず声を裏返らせた。「アッズ様!?」

 アッズはヴェスを魔王軍に引き入れた張本人であり、魔王軍式魔法の師でもあった。しかしヴェスが驚いたのは、現れたのが師だったからというより、そのアッズの肩書きがただの戦士ではないからだった。

「アッズ様が……え? アッズ様が何故、ここに……?」

 狼狽するヴェスを手で制すと、アッズは呪文の詠唱に抜群の適性を持つ美声を発した。

「ヴェス、挨拶は後にしよう。場所を空けてくれ」

「え?」

「私の他にも来る」

「他にも?」

「ああ」アッズは言った。「全員だ」

 アッズはヴェスとともにゲートの前から退けた。マースやクルスなど、他のメンバーがちょうど大広間に駆けつけた頃、三人の魔物が続々とゲートをくぐり抜けた。

 魔法陣の上に降り立った彼らを見た一同は――悶絶していたジェイすらも痛みを忘れて――悲鳴と歓喜が絡み合った叫び声を上げた。

「うわああああああああッ!?」

「ぎゃああああああああッ!?」

 ヴェスは口をぱくぱくとさせてアッズの横顔を仰いだ。このほんの数秒の間に汗だくになっていた彼女は、三度ほど喉を鳴らしてなんとか声を絞り出した。

「ど、どうして……の皆さんが……ここに?」

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