第25話 蜂尾VSガルズⅤ

 二万年とはいかないまでも。

 一万と、数千年前。

 ある一匹の悪魔が世界に挑んだ。


 誰も本当の名を知らない。彼は自らを魔王と名乗った。


 それまでの世界は人間が支配していた。正確に表すならば、人間を挟んだ間接的な神による支配だった。

 無数の知的種族が存在するが故に、争いの絶えない世を神は嘆いていた。神はあらゆる策を講じて平和の実現を目指したが、全ての種族を余すことなく救うことはどうしても叶わなかった。とうとう救済を諦めた神は、ある苦渋の選択を下した。

 世界の全ての憎悪を背負う受け皿を決めたのだ。

 神の力を以てしても、多くの種族が持つ憎悪の念を拭い去ることはできない。しかしその憎悪の行く先を誘導することはできる。憎悪の行く先をごく少数の種族に限定させ、その他大多数の種族が互いに寄り添い平和を享受するマインドセットを行った。

 平和を象徴するために、神の加護を与える支配者に選ばれたのは、最も弱い人間族だった。そして代わりに憎悪の受け皿に選ばれたのは、強い力を持つ種族だった。神の命により、彼らは魔族と呼称された。

 その他全種族による魔族の迫害が始まると、何万年と続いていた争いはぱったりと止んだ。当然、国同士の戦争や個人間の諍いが消えることはなかったが、その程度の微々たる争いは、世界に憎悪を蔓延させた忌まわしい惨劇の記憶に比べれば、取るに足らない歴史の一ページに過ぎなかった。

 神は満足した。魔族の犠牲により、完璧とは言えないまでも、世界はほとんど平和になったのだ。魔族が迫害される限り、彼らが全ての憎悪を受け止める限り、二度とこの世が地獄になることは無いだろう。

 これで良かったのだ。

 いつしか血塗られた過去は忘れ去られ、神が決めた倫理に基づく平和な世界が続いた。長い間、続いた。

 彼が現れたのは、突然だった。

 純血の悪魔。彼の素性で明らかになっているのは、それだけだった。

 彼は傍若無人の荒くれ者だった。見境無く町を襲い、妖精が穏やかに暮らす森に火を放ち、神に祈りを捧げる教会を破壊して回り、奴隷として飼われる魔族を強奪した。

 彼を討つための戦士団が組織されたが、ことごとく返り討ちとなった。彼は類を見ないほど強い悪魔だった。

 やがて彼は、奴隷だった魔族を手下として従えるようになった。徒党を組んだ魔族はみるみる手がつけられなくなり、彼の蛮行はさらにエスカレートした。いくつもの国々が襲われ、数え切れない魔族が奴隷身分から解放されていった。

 彼が現れてから数百年が経ったある日。魔族の軍勢に最初に堕とされた大国の王宮前広場に彼は同胞を集めた。その国の王族を一人残らず手ずから斬首刑に処した彼は、同胞を前にこう述べた。

「儂こそが魔王。この世を統べる者。我々を虐げんとする者たちから全てを奪い、天から神を引きずり下ろす。真の自由を欲する者は儂に付いて来るがいい。ここに魔王軍の結成を宣言し、世界へ、神へ、宣戦布告する」

 彼の目的はシンプルだった。魔族以外の全ての種族を滅ぼす。完全なる世界征服だ。

 王宮を魔王城と改め、魔王軍は本格的な進軍を始める。

 彼らは加速度的に勢力を拡大した。他種族を利用した魔族の品種改良に積極的に努め、そのためにあらゆる種族のあらゆる国を襲い、略奪し、滅ぼした。魔王軍が広大な領地を得て世界の脅威となる頃には、魔族は元の何倍もの多種多様な種族に派生していた。

 事態を深刻と捉えた神は、異世界から勇者と呼ばれる救世主を召喚するようになる。魔王はこの勇者さえも、返り討ちにした。一定の期間ごとに召喚される勇者に魔王軍の侵攻は停滞したものの、魔王は神への当てつけのように、己が力を誇示するかのように、勇者を何人も何人も惨殺し続けた。そして隙あらば、世界征服を推し進めた。

 こうして、一万年を超える魔王軍と勇者との戦いが始まり、現在に至る。

 今や異世界から転生者を召喚する術すらも見出した魔王は、神に限りなく近い存在となっている。

「オークにしては随分と小さいのう。奴隷にゃあ、ろくな飯もくれんのか」

 いや……神に近い存在、ではない。

「腹いっぱい食うにはどうしたらいいか、知りたいか小僧」

 魔族にとっては、彼は既に神そのものだった。

「奪え。お前を飼っている人間を殺し、そいつから飯を奪え。そいつの肉すら食らい、血を啜れ。簡単なことだ」

 特に、彼の手で奴隷の身から解放された者たちにとっては。自由を与え、自由を得る方法を教えられた者たちにとっては。彼こそが選ばれし救世主だった。

「何故、お前がそんな様なのか。それは奪われたからだ。先に奪われちまったからだよ。弱い所為だ。それじゃあ駄目だ。いいか、小僧」

 世界征服など、荒唐無稽な夢物語に過ぎないと誰もが思った。しかし彼は本気だった。本気で世界を滅ぼすつもりだった。そして半信半疑で彼の背を追ううちに、誰もが、本当に成し遂げてしまうのではないかと期待を抱いた。

「奪われる前に奪え。奪われたら負けだ。奪う側に回れ。儂らはどうやっても争い合うようにできている。だったら先に奪っちまえ。どうせ争うんだ、だったら相手を全部ぶっ殺しちまえばいい。そしたら、争う相手は身内だけで済む。名前も知らねぇ、どこの誰かも知らねぇ奴らに、意味も無く恨まれるよりは……ずっとマシだろ」

 魔王が書き換えようとしている世界の在り方を決めた神自身が、勇者の召喚という対抗策を講じていることこそ、何よりの証明だった。夢物語ではない。神は焦っている。

「名前が無ぇのか、そいつぁ不便だな。じゃあ~……ガルズってのはどうだ」

 本当に、魔王は世界を覆そうとしているのだ。

「よし決めた、お前はガルズだ。ガルズよ、奪われる前に奪う、その手本を見せてやろう。手始めに、お前のご主人様をぶっ殺して嫁と娘をブチ犯してやる。お前とお前の死んだ兄弟にやってきたことを考えりゃあ、当然のことよ」

 彼は神すらできなかったことをしようとしていた。

 憎悪を消すこと。憎悪の根源そのものを滅ぼすこと。

「奪われるのは、今日で終わりだ。儂に付いて来い」

 我儘は言わない。

 ただ。

 ただ、手で掬える限りの者でいい。この手が、届く場所に居る者だけでいい。

「儂か? 儂は魔王だ。ん? 名前? だから魔王だと言っておろうが。儂は魔王! 魔族の王だ。まぁ、好きに呼ぶがよい」

 誰も本当の名を知らない。

「行くぞ、ガルズ。奪い、食らい、デカくなれ。儂の背中を守れるほど、強くなってみせよ」

 彼は自らを魔王と名乗った。



 人間界

 東京都 戸科下市


 立体駐車場の屋上を突き破ったガルズは、階下の車の列をぺちゃんこにして倒れていた。

 一、二秒ほど意識を失っていたらしい。力みが緩んだ所為で腹から腸がはみ出し、体じゅうの傷から夥しく出血していた。

「がはっ……げほっ、ゲェエエ」

 喉に詰まっていた血を盛大に吐き出す。左の肺が潰され呼吸に苦労したが、ガルズは構わず起き上がった。まだ戦える。せめて奴を倒すまでは、死ねない。

「隊長殿ために……魔王様の、ために……魔王親父……」

 霆哮剣が手から放れていないのは幸いだった。柄に手がぴったりくっつき、もはや一心同体と言ってもいい。霆哮剣に寄りかかって立ち上がると、傷から派手に出血した。

「もう、すぐだ……もうすぐなんだよ……ここ、を……滅ぼせば……魔界が、手に入る……」

 治療魔法を使うことが頭を過ぎったが、ガルズは霆哮剣に魔力を込め稲妻を纏った。そんなことは、後でいい。魔力も血肉も全て、死力を尽くして奴を殺す。それが、魔王軍の戦士の務めなのだ。

「奪う……奪われる前に、奪う」

 ガルズはぼやけた視野で、天井に空いた穴を睨みつけた。感じる。奴は上に居る。

「俺、たちの……邪魔はさせん……誰にも……親父の邪魔は、させん……もう……奪わせない……」

 足元にばしゃばしゃと血溜まりが広がる。激しく血を吐きながら、ガルズはうわ言のように叫んでいた。

「奪う……奪われる前に、俺たちが奪うッ……もう、二度と……もう二度とッ、誰にもッ……俺たちから奪わせはしないッ!」

 魔王に、神の座を。

 レイドに、安息を。

 同胞に、栄光を。

 そのためならば。

「この命、惜しくはないッ! 全て……俺たちが奪い尽くすッ!!」

 天井を破壊し落下して来た蜂尾が、ガルズに液状ソードを叩き込んだ。ガルズは反射的に霆哮剣で液状ソードを受けたが、床が耐え切れずに崩落した。フロアを二つぶち抜き、三枚目の床に叩きつけられる前に、ガルズが『雷霆の断頭ムーン・ケラウノス』で蜂尾を振り払った。

 ガルズは車を踏み潰して着地し、蜂尾は身を翻して支柱に掴まった。足のスパイクを支柱に刺して張り付き、蜂尾はこちらをギロリと睨んだ。

 ガルズは呆れて言った。

「はぁ……はぁ……まだ元気があるようだな」

 蜂尾も生きているのが不思議なほどの有様だったが、それを感じさせない身のこなしだった。タフネスと言えば聞こえは良いが、回復を惜しんで決着を急いでいるようにも見えた。

 ガルズは血でべっとりと濡れた口を歪め、冷酷に微笑ほほえんだ。

「ふっ……貴様も焦っているのか? エイリアン」



「……」

 事実、ガルズとは違う意味で蜂尾には時間が無かった。雷撃のダメージから通信機能が復帰すると、すぐに土方ひじかたから着信があった。珍しく慌てふためく土方の声が聞こえた。

『蜂尾、状況は!?』

 蜂尾は声に出さず、頭の中だけで通信に応じた。

(取り込み中だ)

『だろうな。まずいぞ、被害がデカ過ぎる』

(知ってる)

『消防やレスキューどころか、既に自衛隊まで出動の準備をしてるぞ、とてもじゃないが隠し切れない。保護官が総出で対処してるが、何にしてもまず元凶の異世界人インベーダーを始末しないことには、どうにもできん』

(言われなくてもわかってるよ)

 ガルズは垂れ流しの血と臓物を全く気にする素振りを見せず、構えを取っている。彼は勝利の条件に、己の生存を含んでいないらしい。蜂尾はスパイクで支柱をガリガリと掻いた。

「……強いわけだ」

『蜂尾、聞いてるか?』

 土方は早口で話した。

『とにかく、さっさとそいつを片付けてくれ。これ以上被害を増やすな』

(……対艦武器庫開けていいか?)

『それは駄目だ、話聞いてたか!? 街ごと消し飛ばす気か!』

(……本当に面倒だな、保護対象惑星内の戦闘は)

 蜂尾は忌々しそうにぼやいた。

「“石ころ”に気ぃ遣って戦ってる所為で死にかけるとは……悪い冗談だ」

 霆哮剣の呪文が煌めき、ガルズが稲妻を纏う。蜂尾は支柱に垂直に立ってガルズを仰ぎ、ジェットエンジンを唸らせた。

『目撃者が増える前に処理したい……そうだな、あと一分以内に倒してくれ。長くても二分だ』

「わかった。十秒で終わらせる」

 ガルズが雷光と化して駆け出す。蜂尾は一方的に通信を切り、ジェットエンジンから火を噴いて飛び立った。

 蜂尾の飛行スピードより遥かに速く迫ったガルズが、支柱を真っ二つに切った。蜂尾は顎を床に擦りながら彼の股の間を通り抜け、左のアキレス腱を切った。

「ぬぅぅえぁぁああッ!」

 左へ倒れかかりながらも腰の捻りで体を反転させると、ガルズは床を抉りながら霆哮剣を振り上げた。蜂尾は液状ソードで防いだが、衝撃を殺し切れずに屋上まで打ち上げられた。

「おぉおおおおおッ!」

 ガルズは床に這いつくばると、全身のバネを利用して片足で跳躍した。立体駐車場の天井に新たな穴を空け、すぐさま屋上に上がった。

「――」

「――」

 コンクリートの破片が飛び散るなか、蜂尾とガルズは目を合わせた。

「ぅぉぁああッ!」

「――ッ!」

 蜂尾はジェットエンジンの逆噴射で素早く後退し、ガルズの斬撃を躱した。が、ガルズは霆哮剣を空振りした姿勢から前へ踏み出し、蜂尾の胸の中にある球体に肘打ちを見舞った。

「……ッッ」

 頭の中が痺れるような感覚がし、蜂尾の視界が一瞬だけ赤い砂嵐に覆われた。蜂尾の動きが鈍る瞬間を、ガルズは見逃さなかった。雷を溜めた霆哮剣を薙ぎ払う。

「液状ソードⅢ、展開」

「むッ!?」

 蜂尾が霆哮剣を蹴り上げた。強い衝撃。見ると、蜂尾の右脚が液状ソードに変形していた。

猪口才ちょこざいィィッ!」

 負けじと霆哮剣を雷速で振り下ろし、蜂尾の右腿を根元から切り落とす。蜂尾は体勢を崩されつつ、ガルズの腹から垂れた腸を左足で絡め取った。脚の羽から火を噴射し、分厚い肉の内側にある内臓をずるりと引きずり出す。

「フゥゥゥゥゥッ!」

 ガルズは鬼の形相で、己の内臓もろとも蜂尾の左脚を切り落とした。蜂尾は背中の羽の噴射で飛行を保ち、液状ソードを振りかぶった。ガルズは霆哮剣にありったけの魔力を注ぎ込み、刃を白い雷で包んだ。

「『雷霆の一突きケラウノス・ストライク』ッッ!!」

 雷そのものと化した霆哮剣の刃は、蜂尾の胸の球体の表面を薄く削り、右胸から腋を貫いた。蜂尾の液状ソードは、柄を握るガルズの手の甲に食い込み、ピンと伸びた腕を肘にかけて真っ二つに割った。

 互いにすれ違い、両者は背を向け合った。蜂尾とガルズは即座に互いを振り向いて対峙し、得物を構えた。が、その時には既に、切り裂かれたガルズの手に霆哮剣は無かった。

「まっ――」

 鋼色の刃が迫る。ガルズは力の限り絶叫した。

「魔王軍万歳ッッ!!」

 蜂尾は残された全ての羽で推力を生み出し、ガルズを脳天から一刀両断した。

「……ッ……」

 腋の傷が広がり、右肩が外れた。蜂尾は受け身を取れずに顔から床に落ちた。

 うつ伏せに倒れた彼女は床に顔を擦って横を向き、ガルズが倒れるのを見届けた。

 蜂尾は辟易した声を漏らした。

「……一秒……オーバーしたか」

 二つに分かれた巨体からは、意外なほど血が流れなかった。彼の中には、流すほどの血も残されていなかった。

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