第5話 廃ホテル
六月五日
東京都 戸科下市
ホテル
レイドの一団が最初の根城に選んだのは市内中心部にある廃墟だった。ホテル陽世が廃業したのは三年ほど前で、不整備の駐車場には雑草が生い茂り外壁は酷く廃れて見えたが、施設内は比較的綺麗な状態を保っている。
廃墟とは言え、建築技術の低い魔界の建物に比べれば新居にも等しい設備だった。壁に穴が無く、清潔なキッチンもある。魔物にとってかなり手狭なことにさえ目を瞑れば、これほどの優良物件は無い。
しかしあくまで仮の拠点であり、長居する予定は無い。ヴェスが人払い魔法をかけて人間が敷地内に侵入するのを防いではいたが、魔法と言っても無意識に働きかける程度の効力であり、例えば通報を受けた警察官などの強い意志を持って訪問する者には効かない。情報収集のため街中にある廃墟を選んだものの、ゆくゆくは先遣隊千体が人間界に来ることを考えれば、もっと安全且つ大きな拠点が必要になるだろう。
施設内には放置されたままの資材がかなり多くあった。宴会場には大量の椅子とテーブルが積み重ねられており、窓も無いことから集会所に最適だった。天井が他の部屋より高いことも、体格の大きなギミルやモルコに都合が良い。
レイドはテーブルに新聞とノートパソコンを広げていた。今日で人間界に来てから三日目。根城の整備と食料の調達は部下に任せ、日本文化に詳しいレイドが二日かけて情報を掻き集めた。レイドが知る日本からは二十年の月日が流れていたが、発達した情報媒体やコンピュータに順応するのはさほど苦では無かった。
「やっぱり間違いない」
レイドは睨みつけていた新聞から顔を上げた。タブレット端末で興味津々にテレビを観ていたヴェスとジェイがこちらを振り向く。レイドが散らかした新聞を整理していたルラウが、隣の椅子に腰かけた。
「何かわかったんですか?」
「うん。人間界では今、西暦二〇三〇年。どの媒体を見ても共通しているから、間違いない。私が死んだのは二〇一〇年。私は魔界に転生してから百年も過ごしたのに、こっちでは二十年しか経過していない」
ジェイが首を傾げる。
「どういうことっすか?」
「時間の流れが違うってことだよ。ざっくりした計算だけど、魔界の時間の流れは人間界より五倍くらい早いことになる。あっちで五年経っても、こっちでは一年しか経っていない」
「へー」
ジェイがヴェスに尋ねる。
「五倍って何?」
ヴェスは無視して話した。
「だとしたら侵攻作戦の猶予はかなり無くなりますね。次の勇者が生まれるまで、こっちの感覚では二十年しかない。二十年以内に全ての人間を滅ぼさないといけません」
「え? そうなの? なんで?」
「その通り。環境破壊でもすれば百年で絶滅に追い込めると思ってたけど……二十年じゃ無理だ。たった二十年で根絶やしにするには、私たちが直接手を下す必要がある」
「ルラウ、五倍って何だ」
ルラウは無視して話した。
「この世界の人間は八十億人でしたよね?」
「うん。八十億も虐殺するとなると骨が折れるね。でもこの世界は想定より技術力が発展してないから、私たちの有理は変わらないよ」
レイドは侵攻作戦の参謀会議において、生前に鑑賞した未来の地球を描いた映画やアニメなどを元に、想定される人間界の軍事力を挙げていた。レーザー兵器や巨大ロボットなんかも例に挙げていたのだが、蓋を開けてみるとどうだ。時の流れる速さが違うのは悪い想定外だったが、同時に二十年分しか技術が進んでいないのは都合の良い想定外でもあった。
「これが今の最新の戦闘機だよ」
レイドは携帯端末でアメリカ軍の戦闘機訓練の映像を見せた。魔界に存在しない鋼鉄の鳥の姿に、ヴェスとジェイは感嘆を漏らした。
「魔法も使わずにこのスピードで飛ぶんですか?」
「うん。ジェットエンジンてのを使ってる」
「すげぇ~」
「でも、せいぜいドラゴンよりちょっと速いくらいだよ。うちの飛行部隊ならもっと速く飛べる戦士も居るし、脅威にはならないかな」
「そうですね。これくらいなら私の魔法でも墜とせます。ジェイには無理だろうけど」
「あぁん? 俺は陸戦特化なんだよ」
「ジェイの相手はこっちかな。戦車って言うんだけど」
「何すかこれ! かっけぇ!」
「え? どこが?」
戦車の映像に目を輝かせるジェイを、ヴェスは理解できないといった顔で見た。
ジェイは近接戦のエキスパートだ。生身の人間はもちろん、戦車であっても彼の敵ではないだろう。彼は先の戦争で、人間側に付いたドワーフの軍団を単独で食い止めるという英雄的活躍を果たし、異例の出世を果たしたゴブリン族の星である。体じゅうにある傷痕は歴戦の証であり、ヴェスもああは言うがジェイの実力を大いに認めている。
「この、ドーンって発射するやつ! すげぇ!」
「全然わかんない……」
「あはは。砲弾ってやつだね」
唯一、この世界で脅威と呼べるのは核兵器だった。魔界で屈指のタフネスを誇るドラゴン族も、核兵器の威力には耐えられないだろう。なりふり構っていられないほど追い詰められた時、人間は間違いなく核兵器を撃つ。そのカードだけは何としても阻止しなければならない。
つまり、開戦前の破壊工作も先遣隊の重要な任務となるのだ。世界各地にある核兵器と発射設備、航空機の無力化が必須だった。
「核さえ何とかできれば、魔王軍は正面から堂々とやり合っても余裕で勝てる。課題は二十年で決着をつけられるかどうかだね。そのためにもやっぱり、私たち先遣隊の働きが鍵になる。作戦も根底から練り直さなきゃ」
「この戦車もかっけー!」
「こっちの方が良くない? シュッとしてて」
「話聞いてる?」
ルラウがレイドの腕を小突き、小声で言ってきた。
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「だって、二十年しか経ってないってことは……」
躊躇いがちにルラウは言った。
「レイド様の以前のご家族も、まだ生きている可能性が高いってことですよ?」
「……」
レイドは逡巡した。ルラウはその逡巡に気づかないふりをした。
「関係無いよ。今の私は魔王の娘で、先遣隊の隊長だ。私の家族は、イービル家と魔王軍の皆だけ。昔の家族なんて、どうでもいいよ」
「……あなたがいいなら、構いませんが……魔王様に言えば、ご家族数人だけでも……」
「いいや、駄目だ」
自らの迷いを振り払うように、レイドはぴしゃりと言った。
レイドは自分の手に目を落とした。灰色の肌。鋭い爪。今のレイドはこの手を一振りするだけで、この街に住む人間を何百人と蹂躙することができる。もう自分は人間ではない。今さら人間の頃の情を抱く資格など無い。
あってはならない。もう取り戻せないと思っていた過去が、すぐ手の届く所に降って来たからと言って……今の仲間を裏切ることなど、許されない。魔王軍の王女に、そんなことあってはならないのだ。
「全ての人間を根絶やしにしない限り、勇者は生まれる……特別も、例外も、あっちゃ駄目だ。お父様もきっと許さない。それでいい。もういいんだよ、ルラウ」
「……」
宴会場のドアが開け放たれ、マースとクルスがカートを押して入って来た。カートの上には肉料理がずらりと並んでいる。マースは快活な声で言った。
「皆様、お食事のご用意ができました。人間の若者、男女五名ずつ。生肉とレア、ミディアム、ウェルダン、それぞれご用意しております」
ジェイが手を叩いて喜んだ。
「待ってたぜ、二日ぶりの飯だ!」
マースは戦士でありながら、魔王城で料理係を務めていた経験を持つ優秀なシェフでもあった。マースとクルスはキッチンと宴会場を行き来し、カート十台分の料理をテーブルに運んだ。テーブルの中央には、デザートとして料理の犠牲となった人間の頭部が置かれた。頭蓋に切れ目が入っており、開いて脳を食べられるようになっている。
彼らは戸科下市民ではない。レイドはマースに食料調達を任せる際、地元民を攫わないよう言いつけていた。行方不明者が頻発すると警察の目が厳しくなり、この根城に捜査の手が及びかねないからだ。マースは指示通りに別の県の人間や、旅行客や登山客など行方不明になってもおかしくない人間を選んで調達していた。
「作戦会議は腹ごしらえの後だね。マース、見張りをしてるギミルとモルコにも運んであげて」
「承知しました」
テーブルに料理を並べるクルスに、ジェイが声をかける。
「なあクルス、五倍ってどういう意味だ?」
「ん? 五倍ってのはねぇ……」
マースがレイド用に丁寧な処理を施した男女の頭部を、テーブルに置いた。レイドは血色の無い彼らの顔や切り刻まれた肉を眺めて、心に全く同情の念が湧かないことを自覚した。
やはり私は魔物だ。悪魔の娘だ。人間を殺すことにも、喰らうことにも躊躇いは無い。
だから、かつての肉親を殺すことも何とも思わないはずだ。大丈夫だ、私ならできる。ルラウが案ずるようなことは何も無い。殺せるはずなのだ、あの頃のまま、あの家に、あの家族が生きていても――。
「へぇー、五倍ってそういうのなのか」
ジェイの声が、レイドの頭の中でぐるぐると渦巻く思考を断ち切った。
「じゃあ、十日後に来る予定だったガルズ副隊長たちは、二日後に来るのか」
「――」
レイドとルラウとヴェスが、一斉にジェイを振り向いた。注目されていることに気付き、ジェイはぎょっとした。
「え、何? なんすか?」
「……十日後……」
レイドは椅子を倒して立ち上がった。
「しまった……!」
レイドたちが人間界入りしてから十日後に、ガルズが率いる魔物百体がこちらへ渡ることになっていた。十日おきに百体ずつ転移させ、その間に百体分の根城を都度用意する手筈になっていた。ガルズたちの根城は既にこの廃ホテルがあるので問題無いが、転移する際はヴェスがこちらからゲートを開ける約束になっていた。
「いま何時だ!?」
ただし、定刻を大きく過ぎた時には異常事態と見なし、あちらからゲートを開くことになっている。こちらの指定が無ければゲートはレイドたちと同じ黒緑山の廃神社に現れる。レイドたちの案内が無くては、ガルズたちは根城の場所がわからないうえ、最悪の場合、人間に見つかるかもしれない。
マースが、調理した人間から奪った上等な腕時計を確認した。
「午後三時五十分時でございます」
「クソ、たぶん約束の時間を過ぎてる!」
ヴェスが杖でジェイの頭を引っ叩いた。
「もっと早く言いなさいよこの馬鹿!」
「えぇ!? 俺が悪いの!?」
レイドはルラウが差し出したローブを奪うようにして受け取り、急いで袖を通した。
「私としたことがうっかりしてた」
ちらっと食卓の生首を見る。
(余計なことに気を取られていた所為でこんな凡ミスを……)
レイドは駆け足で出口に向かった。
「ヴェス、ガルズたちを迎えに行こう」
「はい」
ジェイが訊いた。
「俺たちも行きますかい?」
「私たちだけでいいよ。ヴェスが居ないあいだ人払い魔法が弱くなるから、見張りをしておいて」
ルラウがぺこりと一礼した。
「行ってらっしゃいませ」
「うん、行って来る」
レイドはヴェスとともにホテルの窓から飛び立った。最低限人目を避けつつ、スピードを優先した。急がなくては。ガルズたちが人間に見つかってしまっては、計画に支障をきたす。
黒緑山
鳥居の中に発生した稲妻からゲートが開き、先遣隊副隊長のガルズがぬうっと姿を現した。
凶暴なオーク族の中でも屈強な肉体を誇るガルズは、実に身長五メートルにも及ぶ。その巨躯から発揮される怪力は魔王軍内でも群を抜き、全盛期には四天王の一角を務めたほどの猛者である。
四天王の座を後世に譲り一線を退いた彼を先遣隊副隊長に任命したのは、魔王直々であった。長年魔王軍をその剛腕で支え続けた彼こそ、この度初めて大きな部隊の指揮を務めることとなったレイドの背中を預けるに相応しい戦士であると、魔王は判断したのだ。
その采配に異を唱える者は誰一人としていない。それどころか、彼が隊長だったとしても付き従う戦士は多いだろう。ガルズはそれほどに、魔王からも同胞からも厚い信頼を得る歴戦の老兵だった。
「……隊長殿はどこだ」
魔王に忠誠を誓う彼は、当然その娘であるレイドのことも心から敬愛していた。魔物にしては珍しく時間に正確な彼女が、一時間も定刻を過ぎるとは考え難い。何か予期せぬ事態が起きたと考えるべきだ。もしレイドの身に何かあれば、ガルズは怒りでこの大地を焼き払いかねなかった。
(まだだ、まだ逸るな。目立つなというご命令だ……まずは偵察からだ。レイド様の安否を確かめなければ)
ガルズは前方に続く山道を眺めた。ここが人間界か。背後を振り返り、ゲートを囲う鳥居と、その向こうにある錆びれた廃神社に目をやる。生き物の気配は無い。やはり、レイドたちは迎えに来ていないようだ。
ゲートが閉じる。境内は百体の魔物で溢れ返った。どいつも血に飢えた荒くれ者だが、ガルズが一喝すれば従順になる程度には分別がつく。魔王軍は力社会だ。上に立つ者が強ければ強いほどに忠誠は固くなる。任務の隠密性から、先遣隊の戦士は荒くれ者の中でも特に忠誠心のある者が選ばれていた。他の頭の足りていない魔物ならばゲートを越えた瞬間に街へ人を襲いに飛んで行ってもおかしくなかったが、ガルズが期待した通り、ここに居る戦士たちは理性的な振る舞いができた。
「皆の者、聞けい!」
魔物たちが静まり返り、ガルズを注目した。ガルズは鳥居の前に立ち、彼らを見回した。
「隊長殿が迎えに来ておられない。これより偵察に秀でた者に捜索を行ってもらう。その他の戦士はその場で待機だ。くれぐれも人間に見つかるな。何者かの気配を察知したらすぐに報せろ」
ガルズは部下を呼んだ。
「ルァカス、ミルィス」
ルァカスは二足歩行のケルベロスで、ミルィスは悪魔の血が入ったハーピー族である。
「ルァカス、隊長殿の臭いはわかるな?」
「ええ。隊長がここでゲートを抜けたのは間違いありません」
「よし、臭いを追え。ミルィスは空から状況確認」
ミルィスは翼の生えた手で敬礼した。
「はーい! お任せあれ!」
「隊長殿を見つけ次第、すぐに――」
頭上を何かの影が横切った。全身の肌が粟立つような感覚に襲われ、ガルズは反射的に空を仰いだ。
彼は目にした。鋼鉄の翼を携えた何かが、猛烈なスピードでこちらへ降下していた。
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