エピソード8

ブレイドの戦い

 ――少々時間は戻って、ブレイド宅にて。


「あ、あの、ご主人様」

「なんだよ、リベリア」


 入浴を済ませ、寝巻を着たばかりのリベリアが震える声でブレイドに話しかける。ブレイドはソファーで横になり寛いでいるところだった。


「て、テーブルの上にある……お、お酒は」

「カベルネ・トリガーハッピー」


 気軽に酒の名前を口にすれば、リベリアはぽかんとしたまま、動かなくなった。カベルネ・トリガーハッピーというのは赤ワインの名前だ。世界で育てられる高級葡萄をふんだんに使ったもので、クライムに住むある醸造家が一人で造り上げる、芸術品といっても過言ではない代物らしい。


「ラベルもちゃんとあるぜ、あーグレイプ・ヴィノなんたらの」

「グレイプ・ヴィノグラート・ウーヴァ・クリマタリヤ・ブ・ドウ、ですっ」


 ブレイドが長ったらしくて言うのをやめた醸造家の名前を、リベリアは一字一句間違えずに言い切る。

 ちなみにどの単語も「葡萄」という意味だ。くだらない名前で活動していると思ってしまうが、こういうのはわりと嫌いではなかった。


「あぁ、覚えてるさ。言うの面倒くせえんだよ長えんだよ」

「飲んで、よろしいのですか」


 恐る恐る、リベリアが問うてくる。ブレイドは大きなあくびをして、笑みを浮かべた。


「飲みたいか」

「飲みたいです」

「そうか、飲みたいか」

「はい」

「どうしようかな」

「い、いじわるしないでくださいっ」


 喉を鳴らし、物欲しそうな眼差しをカベルネ・トリガーハッピーに向けるリベリア。普段、あまり物に執着しないリベリアがこの有り様だった。それほどの魅力が、このカベルネ・トリガーハッピーにはあるのである。値段が高く、手の届かない人間が多い。さらには偽者も多く出回っているのだから本物を見つけるのは難しい。正直、ブレイドが買ってきたこれも偽者かもしれないのだ。

 だが、リベリアが陶酔してしまったときに飲んだカベルネ・トリガーハッピーの匂いと全く同じものを買ってきた。リベリアが満足すればそれでいいだろう。


「高かったんだよな、これ」

「知っています」

「見つけるの大変だったんだよな、これ」

「わかってます」

「俺は飲まないけどな」

「なら私にくれたっていいじゃないですかっ」

「えー」

「ご主人様、お願いします」


 潤んだ瞳でリベリアが頼んでくる。

 しかしブレイドは簡単にカベルネ・トリガーハッピーを渡すつもりはない。

 理由は至極単純。

 リベリアをからかいたいだけ。


「タダっつうのもな」

「な、何でもします」

「奴隷だから当たり前だろ」

「……そうでした」


 唇をきゅっと結び、どうするべきか悩んでいるリベリアを、ブレイドは観察して楽しむ。


「じゃあ、どうすればいいのですか」

「さあね」

「ご主人様、楽しいですか」

「あぁ、楽しい」

「…………もう、いいです」


 リベリアはため息を小さく吐き、キッチンへ向かっていく。その袖をブレイドは掴んだ。


「何ですか」


 頬をふくらませ、リベリアがすねた声で聞いてくる。


「つまみは自分で作れよ」

「……はい」


 リベリアは頬をふくらせたまま返事をし、キッチンのほうへ消えてった。少しして、鼻歌が聞こえてくる。

 素直なやつだ。


「さて、と。風呂入る前に汗をかくか」


 ブレイドは両の拳を閉じたり開いたりしながら、リビングの端へ行く。ソファーと脱衣部屋に通じる扉の間にある、空いたスペースまで来ると、倒立をした。


「ちょいと腕なまっちまってるからな」


 バランス良し、ぶれはなし。完璧な倒立をしてみせたが、それだけでは足りない。ブレイドは指を立てた。全体重が余さず、十本の指にかかる。

 指を立てて倒立をした状態で、ブレイドはゆっくり腕を曲げていく。

 徐々に、逆さまになったブレイドの体が沈んでいき、腕を九十度曲げた後、徐々に上げていく。前後左右、どこにも体が動かない。スライドさせたように真っ直ぐ体が上下するだけだ。


「ご主人様?」


 帰ってきたリベリアがブレイドに話しかけてくる。


「気にすんな。飲んでろ」

「珍しいですね、ご主人様がトレーニングなされるなんて」

「ちょっとな。久しぶりに使った技のキレが悪かったもんでよ。怠けすぎたかもしれねえ」

「そうですか」

「あぁ。風呂上がったら腕揉んでくれ」

「はい」


 何度も腕立てをするうちに、ブレイドは次第に会話する余裕がなくなってきた。リベリアはというとワインの香りを楽しんで、少しずつ飲んでいる。そう時間の経たないうちにリベリアが酒に酔うのは確実だ。

 ブレイドは自分を追い詰めるべく、目を閉じた。目を閉じると、バランスが取り辛くなる。代わりに耳がよく音を拾うようになった。かすかな音も、酔ってきたリベリアの吐息も。

 こう、トレーニングをしているとブレイドはなんとなく幼いころを思い出す。


 ――眼が使い物にならなければ耳を、耳が使えなければ鼻を、鼻が使えなければ肌を使う。


 そんな人とは思えないような、意識がなくなるまで代わりの機能が働く身体をブレイドはしていた。

 もちろん、代わりがきかないものもある。脳や心臓。急所を叩かれれば、ブレイドでも上手く動くことはできなくなる。

 だが、ブレイドが異常な身体をしているのは確かである。

 幼いころより、そうなるように鍛えられた。

 親は幼いブレイドを売った。人身売買をされ、買い取ったのはクライムでは有名な富豪の男だった。ハンズによって富豪に成り上がった男は、金で幼いブレイドを買うと躊躇もせず、人としての生活をやめさせた。

 無理やり身体を鍛えさせられ、休憩などは与えられず、休まる時間は全くといっていいほどなかった。食事も最低限の水とパン、スープのみ。栄養だけは足りていたが、味を楽しむことなどできなかった。

 怪我を負おうと、体力が尽き果てようと、1ミリも体が動かせなくなるまで鍛えさせられた。

 筋肉トレーニング。感覚の鋭利化。

 幼いブレイドにとってそれはどれほど辛いものだったか。


「……こんなもんでいいか」


 ブレイドは逆さまにしていた体を元に戻した。

 ストレッチをして、血の巡りを良くする。瞳を開き、視線だけをリベリアに向けた。リベリアの顔は上気していて、幸せそうにワインを飲んでいた。


「そいつで、合ってたか」

「はい。ありがとうございます、ご主人様」


 さっきまでのふくれっ面が嘘のようだった。


「あの、そういえば大会のほうは」

「トリーホールのやつか」

「はい」


 キング、ロイヤー・ハーメルンへの挑戦をかけたトーナメント……の参加権を得るために行われる三つの大会のうちの一つ。トリーホールで行われる大会にブレイドは参加していた。

 元々、ブレイドは何もせずともロイヤー・ハーメルンへの挑戦をかけたトーナメントの参加権を、本人から直々にもらっているのだが。かといって「大会に参加してはいけない」などブレイドは聞いてはいない。

 その場を引っ掻き回す目的でブレイドはトリーホールの大会に参加し、もう参加権をかけた決勝戦までたどり着いていた。

 相手は。


「サイファーぶちのめして終わりだ」


 サイファーである。


「あの人、ですか」


 リベリアは嫌なことを思い出したのか、声が弱々しくなる。同じ肌をした少女が拷問される映像。その中にいたサイファーを、リベリアも知っている。


「おう。お前は会ったことねえよな」

「会っていたら、生きてないかもしれません」

「大丈夫だ。逃げるくらいならお前にも出来る。手段は、俺が教えてやっただろ」

「そうですけど」

「まぁ、逃げられなくとも俺が地獄の底まで追っていって助けてやるよ」


 悪魔のような笑みを浮かべながら、ブレイドは脱衣所への扉を開けて中に入った。

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