コークスクリュー
そして。
ついにこのときがやってきた。マスターと闘うときが。
『入場』
アナウンスに従い、リングに上がる。眼前にはマスターがいた。その眼光は人を射るように、ローレルに向けられている。
リングは六角形でロープに囲まれている。闘いの最中、リング外には普通出ることはないだろう。
「加減はしませんよ。本気で貴女を壊します」
「わかっている。私も本気で行くさ」
『レディ』
ローレルは即座にウェイブを発動させて、構える。それは、マスターも同様だ。
『ファイト!』
緑の閃光が駆ける。
マスターが一気にローレルとの間合いを詰めてきた。
右の回し蹴りが襲い掛かってくる。ローレルは上体を後ろに反らすスウェーイングで、マスターの蹴りをかわす。回し蹴りはかわされたことなど関係なしに振り切られる。
そして、右の足が床についた瞬間に、左の後ろ回し蹴りが放たれた。今度は顔を狙ったものでなく、低く、膝関節を横から叩きに来ている。
ボクサーにとって脚は弾丸を打ち出すために必要な火薬のようなものだ。壊されては堪らない。
ローレルは上体を逸らしたまま、足を引いた。自重で下がる体を利用してバックステップを行う。そして、蹴りを避けきった。
続けてステップイン。踏み込んで、拳を放つ。
ローレルのストレートはマスターの顔面を捉えようとしたが、マスターの肘打ちがローレルの腕を横から叩き落した。前腕部分に鋭い痛みと痺れが襲う。
「ちぃっ」
相手は一瞬の隙を見逃さない。
マスターは右脚を放ってきた。ローレルの左膝を狙った、アウトローだ。避けるのは間に合わない。脚の間合いは広い。ステップを踏んでも当たってしまうだろう。
ならば当たりにいってしまえ。
再びステップイン。膝を曲げ、右足で左足を引っ張るように踏み込んだ。膝打ちの衝撃を受け流すため、左に傾けていた体を、右に傾ける。間合いを詰めたことでマスターの膝が、ローレルの膝ではなく、大腿を側面から叩く。
「ぐっ……!」
その痛みに耐えながら、ローレルは脇を締めて準備させていた拳を振るった。下から上へ、ゆるやかに孤を描くように振るわれた拳は、マスターの腹部を叩いた。
「なっ?」
マスターが驚きに目を見開く。
ローレルは大腿の痛みを無視してしゃがみこみ、拳を引いて、跳躍。右の拳がマスターの顎に当たる直前、拳を突き上げた。アッパーはマスターの顎を殴り抜く。しかし十分な手応えはなかった。恐らく、衝撃を受け流された。わざと抵抗せずに、上半身を反らしたのだ。マスターは後退しながらも、反れた上体を戻す。
深追いは良くない。ローレルは距離のあいた状態を保った。
「正直、驚きました。ここまでボクシングで闘えるなんて」
独り言のようにマスターが呟く。
「ウェイブの色で、蹴り技主体で来るだろうとは思っていたさ」
グリーンウェイブは特に脚力を強化するものだと、ローレルは記憶している。だから、脚を使った攻撃がこなければおかしいのだ。
「さすがにあからさま過ぎましたかね。じゃあ、今度は違う方式で」
マスターは身を屈めて跳躍し、ローレルとの間合いをすぐに無くした。マスターは猪突猛進などするタイプではないだろう、こちらも仕掛けようとするのは軽率だ。まずは、牽制しなければ。
ジャブを打つ。左に避けられた。
肘打ちがくる。
身を前に屈めて、肘打ちを避ける。移動したローレルの視界に左拳が映った。
間に合わ――
「っ!」
喉を、殴られた。呼吸が止まる。
マスターの拳が引いていき、膝蹴りで顎を叩かれる。
やられる。
なんとか踏みとどまろうとするローレルをローキックが襲う。左膝を内側から叩く、インローだ。膝に衝撃が走り、バランスが更に崩れる。そこへ、今度はアウトローが叩き込まれる。
ローレルは耐え切れず、膝を付き、倒れそうになる体を腕で支えた。
「ぐぇっ」
喉の痛みと気持ち悪さで嘔吐しそうになる。咳き込みながらも呼吸を整えようとしたら、わき腹に蹴りは入ってきた。
「がっ……」
全身に力を入れる。吐き気が増したが、耐える。
肘打ちが背中を襲った。たまらず、ローレルは床に倒れる。
何が起こったのか、よく把握できない。こんな短時間で喉と背中とわき腹と左膝を攻撃された。喉を狙えるあたり、マスターは格闘技の知識をかじった程度じゃない。経験を積み、より壊しやすい技を吟味している。
怖い。
震える拳を握り締める。
後頭部などを蹴られたら終わりだ。息もできず吐き出したい気持ちがあるが、耐えて起き上がって距離を取れ。
ローレルは拳で床を叩き、足で床を蹴り、立ち上がって後方へ跳んだ。ぼんやりとした視界の中に、ローレルがついさっきまで頭を落ち着けていた場所を蹴りが通り過ぎる。もたもたしていれば、後頭部に蹴りを入れられていた。
「かはぁっ! はぁ……はぁ……」
空気の通り道をこじ開け、ローレルは呼吸をする。目が痛くなり涙が出た。急いで涙を拭う。
目前に蹴りが迫っていた。
ローレルはバックステップを踏み、そしてロープに逃げ道を阻まれた。
「しまった!」
側頭部を蹴られる。頭が揺れる。
にぃ、と。
マスターは凶悪な笑みを浮かべていた。バーを経営しているときの優しげな表情など見る影もない。
ローレルは耐えられずに倒れ……
ない。
ローレルは体が左に反らされた勢いで大きく踏み込み、拳を振るった。右ストレートを打ち下ろすようにして放つチョッピングライトをマスターの額に当てる。ニ撃目の回し蹴りを放とうとしていたマスターは大きく後ろに倒れた。
しかし、ローレルの方も蓄積されたダメージで、己のパンチの勢いだけ倒れそうになる。
「このっ、起きてろっ!」
倒れそうになった自分を奮い立たせ、ローレルはボクシングの構えを取る。しかし、よろめき、ロープに背中を預けることになった。
蹴り技を積極的に使ってくる男は他にもいた。友人の「あいつ」だ。
あいつは強かった。蹴り技を上手く挟んでくるうえに掴み技までしてくる。
そして何より、死んでも倒れる気のなさそうな、強く輝く目をしていた。自分をハンズに行かせないために、唯一自分の前に立ちふさがり、必死に闘ったあいつを生涯忘れることはないだろう。
そのあいつに比べれば、マスターは弱い。暴力に溺れている。マスターの攻撃は痛い、痛いが重くはない。強い意思がない。だから、ローレルは負けない。
勝てる、いや勝つ。マスターが立ち上がった瞬間に決めに行く。
「強いですね、貴女は」
こめかみをおさえながら、マスターが立ち上がる。
「すぅ、はぁ……」
深呼吸する。
あのときのことを思い出せば、蹴り技ぐらいなんてことはない。
それに自分はイヤというほどブレイドの蹴りを見てきた。特訓と称して当てられることはなかったが、それでも知ることができた。
「ふっ」
軽い呼気と共に、ローレルはマスターに接近する。
マスターは右足を振り上げ、回し蹴りを放ってきた。体を前に屈める、ダッキングをして攻撃をかわす。マスターは蹴りを振り切り、ローレルに背中を向ける。
その先の動きは予測済みだ。
マスターは右足を踏みしめ、左の後ろ蹴りを放つ。ローレルは体を右に傾け、蹴りを避ける。
「ちっ」
間合いを詰めようと思ったローレルの右側面に、マスターは振り切った左脚を戻し、膝蹴りを叩きつけてくる。
ダッキングではかわせない。いや、かわす必要はない。
ローレルは左足で地を蹴った。
蹴りが十分に威力を発揮できないところまで肉薄する。
マスターの太腿がローレルの腕に叩きつけられた。当たっただけでは、ローレルはダメージを受けない。蹴りの威力が発揮されるのは、膝から足までだ。太腿で蹴っても威力は出ない。
そこまで間合いを詰めてしまえば、問題ない。
あいつなら至近距離でのつかみ技や投げがあった。マスターの場合は肘だ。
案の定、足を下げながらマスターは右の肘打ちを出してくる。横ではなく縦だ。ローレルの額を打ち抜かんとする、杭のような、鋭い肘打ち。
ローレルは屈んだ。伸びきり、後ろにあった右足だけをまげて前に出し、左足に近づける。そうして屈んだのだ。肘打ちは虚しく頭上を通り過ぎる。
腕を引き、アッパーが放てる体勢に入る。マスターは動けない。
そして、ローレルの放つものはただのアッパーではない。
通常よりもさらに腕を引き、脇を締め、肩と腕を引き絞り、跳躍を使って拳を打ち出す。弾丸は、マスターの顎を抉るべく飛ぶ。
マスターが顎の下で両腕を交差させ、パンチを受ける。
「ぐっ」
マスターは耐えた。耐えたが、それはローレルの一撃を受けることになった。
アッパーの衝撃で体が浮き、決定的な隙となったのだ。
拳を引く。やや左に踏み込む。
放つのは、ストレート。
ただのストレートではない。通常のストレートよりもやや外側に拳が突き出される。その拳を内側にひねり、拳に回転をかける。
コークスクリューブロー。
ローレルが思いついた、己の新しい
拳はマスターの顔面に叩き込まれた。
背中や肩の筋肉の収縮を
マスターの体は、吹き飛んだ。ロープに体が引っかかり、そのまま俯く。ロープは限界まで伸び、悲鳴をあげた。
「はあぁ」
ゆっくり息を吐く。突き出した拳を引き戻した。
マスターは動かなかった。目を開けたままだが、瞳の焦点が合っていない。気絶しているらしかった。
「彼は戦闘続行不可能だ。終わりにしてくれ」
ローレルの言葉から数秒後、アナウンスが響いた。
『一回戦勝者、カレジ・ローレル』
こうして闘いは終わりを告げた。
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