美禄

 ローレルはマスターのバーに来ていた。闘いが終わった後、走って宿に戻ろうとしたローレルをマスターが呼び止めた。なんでも話があるらしい。


「何か飲みますか? サービスしますよ」

「気持ちは嬉しいが今は大丈夫だ」

「そうですか」


 マスターは作業をしながら、ローレルと話をする。ローレルはカウンター席の真ん中に座っていた。他に客はいない。

 マスターは拭いていたグラスを仕舞い、あちこちをいじりだす。


「それで話ってなんだ」

 作業しながらでも話はできるだろう、ローレルは会話を継続させることにした。


「話、ですね。実はお願いがありまして」


 寂しげな表情をして、マスターはため息を吐き出した。


「次のハンズ、棄権していただけませんか」

「断る」


 今回の大会で棄権はいつでもできる。だから棄権はできる。だが、ローレルにする気があるかどうかとなれば別だ。


「即答ですか」

「当たり前だ」


 ローレルはマスターを睨んだ。


「棄権して欲しいワケをお話してもよろしいですか」

「別に構わない。ただ、私が心変わりするとは思うな」


 闘って負けるなら本望だ。しかし闘わずに負けるなどローレルには耐えられないことだ。我慢がならない。


「迷路の中を歩いているとき、話しましたよね。私のことを」

「あぁ」


 人を殴ることが快感。それはローレルにも言えることだ。上手くパンチを当てられたときの気持ちのよさは癖になる。

 ただ、マスターの快感はローレルのものとは質が異なるはずだ。


「暴力を振るうのが大好きなんですよ、私は。普段は静かにこのバーを経営しておりますが、ときどき人を壊したくてたまらない衝動が心の奥底から噴き出してくるのです。本当なら、人を殴らずにいたいのですが」


 衝動を抑えられない。気持ちをコントロールできない。

 マスターの物寂しげな表情が、それを嘆いているようだった。中途半端に優しい人間なのかもしれない。


「闘いになると加減も自制もできなくなるのです。徹底的に人を壊したくなる……人に見られているというのが身近に感じられれば、少しはコントロールできるのですが、それでも人を殺して島流しにされました。罪を犯した……けれど、罪悪感がないのですよ。むしろもっと人の体を壊す感触や殺したときの高揚感を得たいなんて考えてしまうのです。この欲求をかなえるのに、ハンズは最適でした」


 寂しさと嬉しさの入り混じった表情でマスターは言葉を続ける。


「けれど私だって人です。壊しても良い人と、壊したくない人がいる。女性は特に殺したくはない、貴女の体を壊してしまいたくない。闘いで自制が効かなくなるのなら、闘いをなくしてしまえばいいのです。だから、貴女に棄権してもらいたい」


 マスターの真剣な眼差しがローレルに向けられる。

 ローレルの返す言葉は同じだ。


「断る」

「なら仕方がありません。私が棄権します」

「それもダメだ」


 マスター自ら棄権する。それさえ許さないローレルに、マスターは驚きを禁じえないようだった。


「気にするな、全力で私の体を壊しに来て良い」

「したくないから、今こうして話をしているのではないですか」

「闘いになれば関係ないのだろう? なら今も気にしなくて良い」

「なぜですか」

「ただ勝つだけじゃ意味がないからだ。私は勝てば良いなんていう人間じゃない」


 闘って勝ちたい。ボクシングで勝ちたい。

 それ以外は勝ちではない。ローレルにとって、闘わない敗北も闘わない勝利もいらない。いるのは闘いだ。相手が何を使ってこようが、自分はボクシングで勝利を掴む。そのための拳だ。


「マスターは私を殺せるのか」

「闘いになれば」

「なら殺しに来てくれ。私は……」


 拳を顔の前に持ってきて、握り締める。


「情けをかけてほしいわけじゃない」


 マスターは目を丸くしていたが、すぐに目つきが鋭くなった。

 眼光人を射るように。

 ローレルの知っている優しげな表情とは無縁の、彼の本当の顔だった。闘いで人を痛めつけていたときの目つきと同じだ。


「後悔しても知りませんよ」

「しないさ。私がした選択だ。負けても、殺されても文句は言わないさ。負けてやるつもりも殺されてやるつもりもないがな」


 不敵な笑みを浮かべる。負けなど、かけらも心配していなかった。


「わかりました。棄権はやめましょう。遠慮なんてしません」

「それでいい。正面から立ち向かってやる」


 マスターはワインが入っているらしきビンを出してくる。ビンの口はコルク栓が塞いでいた。飲むにはもちろん、コルク栓を抜かなければならない。

 T字型の栓抜きを持ち、マスターはコルク栓を抜こうとする。コルク栓の中心を、栓抜きが面と垂直になるように刺す。栓抜きを回しながら、少しずつ入れていく。

 ポンっ。

 音を立てて、コルク栓が引き抜かれた。マスターはコルク抜きを置いて、布でビンのふちをふき取り、ワイングラスにワインを注ぐ。グラスに注がれた色はまさにワインレッド。


「不快にさせたお詫びです。どうぞ」

「ワインか?」

「脱アルコールというアルコールを抜いたワインです。一応お酒ですが、まぁ、酔いませんし、お酒飲めない方でも飲めるので。仕事が終わったら飲む予定だったものなので、残りは私が飲みますが」


 ローレルの前にワイングラスが置かれる。しかしローレルの視線はワインではなく、今マスターがコルク栓から引き抜こうとしている栓抜きにあった。


 ワイングラスのボウル部分を持ち、ローレルはワインを飲む。上質な味と品の良い香りが口いっぱいに広がった。アルコールが入っているわけではないが、ワインは大人の味という感じがした。


 ワインを一口飲み、ローレルはマスターの扱うコルク抜きを眺める。

 ボクシングの知識とブレイドに教えてもらったパンチがフラッシュバックした。


 そして、頭の中で描かれるひとつのパンチ。


「酒の美禄、か」

「それをいうなら天の美禄では」

「いや。こっちの話だ。気にしないでくれ」


 口の端を吊り上げる。これはいけるかもしれない。

 ローレルはワインを飲み終わらせ、マスターに礼を言って外に出た。そして、はしゃぎだしそうになる気持ちを抑えながら、宿まで走って帰った。

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