エピソード6

雨の中の死闘

 久々の甘いデザート、チョコバナナパフェを堪能し、ローレルはバーを後にした。


 良い店だった、また機会があれば行こう……なんてことを考えながらローレルはスラム街の道を進んでいた。


 月の光一つ漏れない闇の中、黒雨が合羽越しに激しく打ち付けてくる。闇に慣れた瞳でも、視界が悪いのに変わりはなかった。衣服や手が、合羽で防ぎきれなかった雨で濡れているのか、それともじっとりとした暑さのせいで噴き出した汗で濡れているのかよくわからない。この雨のせいなのか、道にはローレル以外の人間は誰一人としていなかった。

 雨に打たれながら、ローレルはふと思い出す。


 死の雨。


 あの髑髏の仮面をつけた者は、雨の日に現れる。なら、今この瞬間現れても不思議はないのだろうか。

 この道はローレルが男に因縁をつけられ殴り飛ばした場所だ。そして、今朝、死体を三つ確認した場所だ。もしかすれば、三つの死体を作り上げたのは……

 ローレルはふと、マンションを見上げた。壁にヒビがいくつも入っている、ぼろぼろのマンションを。

 悪魔のことを話すと悪魔が現れる、とはこのことなのだろうか。

 四階ほどあるマンションの二階辺り、そのベランダにソレはいた。ベランダの古びた手すりの上に座り、双眸をこちらに向けている。

 黒いローブ、髑髏の仮面……濃密な殺気。

 ソレは黒雨の中でもぼんやり姿を確認できた。赤く淡い光が、ソレを包み込んでいる。


「ウェイブ……?」


 ウェイブだ。

 ブレイドと同じレッドウェイブだ。ソレはウェイブを使っている。

 ローレルがそれを確認し、理解する前に……ソレは飛んだ。

 マンションから、真っ直ぐローレルのところへ。まるでバリスタのように一直線に、ソレは突進してきたのだ。


「なっ!」


 ローレルは反射的に後方へ飛びのく。瞬間、ローレルがいた地点にソレが突き刺さった。両膝を折り、地面を踏みしめ、ソレは間髪入れずにローレルに襲いかかる。


 間合いを詰められ、鋭い手刀がローレルへ放たれる。ローレルは上体をそらし、手刀をギリギリのところで避ける。


 応戦するためにはこちらもウェイブを引き出さなければならない。ウェイブを一呼吸も置かずに起こし、拳を構える。上体をそらした体を元に戻す勢いを利用し、拳を振り下ろす。


 ソレは勢いよく地面を蹴り、横へ跳んだ。拳はもちろん虚空を殴ってしまう。ローレルは拳を素早く引き戻し、ソレがいるであろう方向に体をひねり、構えた。ソレとの距離は数メートル離れていた。


「何なんだ、お前は」


 濃密な殺気に息苦しさを感じながらも、ローレルは逃げようとはしない。ローレルはボクサーだ。ゆえに闘うことに慣れている。逃げるほうが難しいと感じてしまうほどに、ローレルの体には闘い方が刻み込まれている。

 ファウルに誘拐されたときは、拳を痛めていたが、今はそうではない。疲労は溜まっているが、動けないほどではない。闘えないほどではない。

 だから、どれほど相手が強大であろうと、立ち向かおうとしてしまうのだ。体が、拳が、立ち向かうべく動く。


 それに。


 これだけ濃密な殺気をぶつけてくる相手に、己を襲う恐怖に打ち勝ちたい気持ちが、ローレルの体の内にふつふつと湧き上がってきていた。ゾクゾクと背筋を走るモノが、何も恐怖によるものだけとは限らない。早まる鼓動が、ローレルに逃げろと叫んでいるわけではない。


 闘え。


 ソレは少しの間、道の上でトン、トン、とリズミカルに飛び跳ねていたが、一気に腰を屈めて前傾姿勢になり、右足だけを地面に叩きつけて跳躍した。ソレの跳躍は高く、鋭く、重圧を感じるモノだった。空中で回転をしながら、ソレは真っ直ぐに黒い右脚を上げた。降り注ぐ雨を弾きながら、ソレが落ちてくる。

 踵落としが、ローレルを叩き潰そうと迫る。

 ローレルは完全に体を沈ませ、跳んだ。ひねっていた体を戻すとともに、拳を振るう。

 落ちてくる者と、飛び上がる者。

 ソレの踵落としはローレルの左肩に叩きつけられ、ローレルのアッパーはソレの側頭部を拳打した。

 ソレは地面を転がっていき、ローレルは左半身から倒れる。


「ぐっ」


 痛みに眉をひそめる。ローレルは右手で左肩を掴みながら、何とか立ち上がる。


 直撃はしていない。攻撃はいくらか受け流すことができた。ただ、攻撃自体が凄まじい威力なので、左肩の痛みはなかなかなくなりそうになかった。


 だが、闘える。どうやら道で倒れているソレは人知を超えた怪奇ではないらしい。殺気や闘い方は異常だといえるが、それだけだ。動きは読めるし、拳は当たる。そうなればもうこちらのものだ。


 殴って倒せるのなら、倒してやる。


 黒雨の中、黄金の光と赤の光が道にぼんやりと浮かんでいる。


 ローレルはソレが立ち上がってきたときに備え、呼吸と体勢を整える。ソレはうずくまってから、ゆらりゆらり体を揺らしながらゆっくり立ち上がる。

 姿勢を低くしたソレは、手足を地に着けた。腕と足に力を入れ、自身の体を押し飛ばした。空中を滑るように、ソレはローレルに接近する。

 上から下へ。

 ソレは右腕を直角に曲げて振るう。命を刈り取る、鎌のような腕だった。


「ちぃ!」


 ローレルは上体を左へそらし、右足を後ろに移動させる。足首をひねり、体の向きを変えて、鎌を避けた。ソレは空振りした鎌と共にローレルの横を通過する。ソレの通過した勢いで風が吹き、合羽をはためかせる。

 急ぎ、後方に振り返る。


 と。


 唐突に視界がぼやけた。疲れが体にきているらしい。攻撃を受けていないのに、焦点が定まらない。黒雨のせいで、ただでさえ視界が悪いというのに。

 一度目をきつく閉じ、開く。定まった視界には、目前に迫った手があった。何かをわしづかみにするときのような形の手だった。

 一瞬の隙だ。一秒にも満たないわずかな隙で、ローレルはソレに肉薄された。

 額を凄まじい衝撃が襲う。

 視界は暗転し、次の瞬間には雨降る夜空を見上げていた。


「あ……」


 殺気がローレルを突き刺さる。

 ソレはローレルを見下し、振り上げた拳を叩きつけようとしていた。暗い双眸の奥に、ぼんやりと赤い光がある。慈悲も何もない、死神の瞳だった。


 拳が迫る。


 技術も何もない。やたら力任せの拳だ。しかし、その拳には言葉では言い表せないようなどす黒い感情の塊が宿っているように思えた。


 ――殺される。


 拳が迫る。

 感情に任せて放つ拳は重苦しく、この一撃を食らっただけでローレルの命は叩き潰されそうだ。


 怖い。


 怖いが、恐怖などで動けないなんてものはシャレにならない。腕を立てろ、体をそらして避けろ。頭の中で、自分に言い聞かせる。

 腕を立てる。腹と背中に思い切り力を入れ、ローレルは体を曲げた。

 頭のすぐ横を拳が通り過ぎ、地面に叩きこまれる。

 攻撃は避けた。問題はここからどう立ち上がるかだ。倒れた状態で放つ拳の威力などたかが知れている。立ち上がらなければ。立ち上がって拳を打たなければ。


 地を蹴る。


 ボクサーの足は人を蹴るためのものじゃない。攻撃するためのものじゃない。ボクサーの足は地を蹴り、拳を放つための足だ。

 合羽とコンクリートが擦れあい、水を弾き飛ばす。まずは相手から離れるための一歩。

 そして次は、立ち上がるための一歩だ。両足を地面に叩きつけ、宙返り。着地をした途端、構えを済ませる。

 ソレはもう、ローレルが着地する直前に間合いを詰めなおしていた。ローレルが着地した直後、ソレの拳が地面をかすめるかかすめないかのギリギリのラインで滑り、ローレルの顎先めがけて迫ってくる。

 超低空の左アッパーだ。力任せに、ただ命を潰すために放たれている。

 ローレルはバックステップを踏み、凶悪なアッパーをかわす。空振りをした拳は上へ飛んでいった。ソレは、体を伸ばしきり、一瞬隙ができる。

 それだけで十分だ。


「はぁッ!」


 ローレルはアッパーをかわしたときに出来た距離を、体を前に屈めるような姿勢を取り、ステップインをして詰める。脇を締め、肩と腕を引き絞り、屈めていた体を一気に伸び上げる。


 放たれるパンチは、孤を描くように横に振るわれるフックでもなく、下から上へ突き上げるアッパーでもなく、その中間。例えガードされても、そのガードを破壊してダメージを貫通させてしまうような強烈な威力を秘めた必殺の一撃。


 空気を裂き、雨を弾き飛ばしながら、飛んでいく。

 そのパンチはソレの隙だらけな顎辺りに当たり、殴り飛ばした。


 この拳の感触は、直撃させたときの感触だ。


 殴り飛ばされたソレは、放物線を描き、後頭部から地面に落ちる。


「やったか?」


 構えなおし、ふらつきながらもローレルは、ソレから目を離さない。ソレは仰向けに倒れたまま、動かなかった。しかし、気絶しているだとか、戦意が喪失しているだとかは、全く考えられなかった。


 殺気が、針のように鋭くローレルに突き刺さってくるからだ。

 しばらくして、ソレは立ち上がる。


 途端。


 仮面が砕け落ちた。髑髏の仮面が。ローレルの一撃でヒビ割れ、仰向けでいたおかげで形を保っていられたのだろう。だから、立ち上がった瞬間、崩れ落ちてしまった。

 ソレは両手で顔を覆う。顔を見られたくないのか、それともこちらの動揺を誘っているのか。


「アァ、ア……」


 初めて、ソレの声を聞いた。高い、女の声だった。ローレルの中で少しだけ、ソレに対する恐怖心が薄れる。


「ユルサ、ナイ。ユルサナイィッ」


 ソレは冷たい刃のような高い声で、憎悪の言葉を吐き出す。そして、顔を手でおさえたまま、逃げるようにその場を去っていく。


 闘いが終わった。


 そう、ローレルが気付くまでには少々時間を要することになった。

 殺気の残滓が消えるまで、ローレルは警戒を解くことができなかったからである。

 髑髏の仮面をつけた者がいなくなってから、しばらくもしないうちに黒雨の勢いはなくなり、雨が止んだ。

 まるで、雨が髑髏の仮面をつけた者を追いかけていくように。

 ローレルは警戒をやっと解いて、ふらふらと自分が使っている住居へ向かった。

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