今までのこと

 知らぬ男に、だ。父と通って、父が死んでからも通っていたボクシングジムの生徒の一人だった。顔と練習している姿を偶然視界に入れたりしていただけの男に、なぜか止められた。

 その男いわく、「ボクシングだけで何ができる」だそう。


 許せなかった。努力してきた自分を否定された気分だった。

 そしてまんまと、男の「俺を倒せるまでクライムには行くなよ」という言葉に乗り、男に勝負を挑んだ。無視してクライムに行っても良かったのだが、無視をすれば男に負けを認めてしまうことだと思った。それは許せなかった。ボクシングを馬鹿にした分、痛い目にあわせてやろうと、ローレルは意気込んで男に挑んだ。


 結果、敗北した。

 ローキックを食らい、拳は避けられ、腕を掴まれ体を投げられて、倒れたところに首を絞めに来た。

 震える手で、男はローレルの首を絞めた。呼吸が苦しくなる前に、男はローレルから手を離した。


 こんなものはボクシングじゃない、卑怯だ。


 そう怒るローレルに、男は肩をすくめて言った。


「クライムでそんなものが通用するか」


 ルールなんてないクライムにまともな闘い方なんて通用しない。ボクシングなど、所詮攻撃手段が拳による殴打だけであるから、蹴りなどに対処しきれるわけではないし、拳を掴まれたらそれでおしまいだ。

 約束事に縛られているうちは絶対にクライムで生きていけない。

 男に言われて、ローレルは悔しかった。


 正しかったからだ。ボクシングだけで何ができると言い、震える手でローレルの首を絞めてきた男が正しかったのだ。クライムであったなら、ローレルは首を絞められたまま、窒息死していた。

 自分の考えが甘かった。ただボクシングができるだけの小娘に、クライムで何かしようと思うのが、馬鹿らしいことだったのだ。


 だが。

 だが、それでも、諦めたくはなかった。ボクシング以外でやるつもりもなかった。クライムに行くことをあきらめるつもりもなかった。


 自分にはそれしかないと信じて。

 ローレルはひたすら練習した。練習量なら世界の誰にも負けないほどに。

 必死に、練習を毎日続けた。

 いつの間にか、ローレルは夢中になっていた。寂しさなど感じなくなっていた。父を失った悲しみを、孤独でどうしようもない現実に対する歯がゆさによる憤りを拳にのせることもなくなった。


 全ては男を打倒し、クライムに行くために。


 そしてロイヤー・ハーメルンに、父の代わりのリベンジを挑むために。

 汗を大量に流して、拳が砕けそうになっても、ローレルは練習を続けた。右も左も制すだけでは、ボクシングの世界を制すだけでは、足りないのだと。

 汗を大量に流し、全身の痛みに歯を食いしばり、目を血走らせるローレルはおおよそ年頃の娘のような可憐さは微塵もなかっただろう。

 ボクシングジムがやっている時間はただひたすらサンドバックなどを使って練習をし、家に帰ればレスリングやキックボクシングといったローレルとはあまり縁のない試合の映像を視聴しながらシャドーボクシングをした。

 ボクシングの練習を重ねに重ねて、敗北から一ヵ月後に男に再戦を挑んだ。

 今度は、勝つことができた。

 食らったローキックも構わず殴り、掴み技をかわして拳を叩きつけ、殴り合いで意地でも膝をつかなかったローレルに、男が負けを認めた。

 互いにボロボロで、月が雲に隠された夜の道、二人で倒れて荒い呼吸を繰り返したのを、ローレルは覚えている。


「……怖かったんだ」


 しばらくの沈黙を破って、男が語り始めた。

 男は、毎日努力しているローレルの姿を見ていたらしい。男は真面目に練習をしていたが、ローレルほど熱意を持って練習したことはなかったのだそうだ。だから、必死に練習を続けるローレルを見て「良いな」と思ったらしかった。羨ましかったらしかった。


 男はどうしても、熱意を持って何かをすることができなかったから。


 クライムでは努力は否定されるだろう。ボクシングに注いできた情熱も、磨き上げた技も、きっと全部否定される。それでローレルがどうなってしまうのか……自分とは無関係だと知っていながら、それでも「もしも」の話をするとどうしようもなく怖かったのだという。

 男の独白を、ローレルは黙って聞いていた。男は何も、邪魔をしたいからローレルを止めたわけではない。ローレルのことを、多少なりとも想って止めてくれたのだった。


 嬉しかった。


 男とは友人でいたい、そう思った。男に勝てたということは、ローレルはクライムに行くのだ。男と友人関係でいて、何か変わるわけではない。関わりはクライムに行けば一切なくなるのだ。

 入る者拒まず、出る者逃がさず。クライムとはそういう場所だ。クライムに行けば、ローレルは祖国に帰って来れない。覚悟などとっくにできていた。

 しかし、ローレルを想って立ち塞がってくれた男がいることを、ローレルは忘れたくなかったし、男とただの顔見知りの関係で終わらせるのは憚られた。

 だから。


「友達になってくれないか」


 と、初めて言葉にした。友人がなろうと思ってなれるものではないのはわかっているが、今まで上手く人間関係を築いたことのないローレルにとっては精一杯の行動だった。

 男は、


「もちろん」


 と、笑って答えてくれた。同時に、クライムでリベンジを果たすことを、祖国で応援してくれる、と。

 最初は嫌なやつだと思っていた男に、ローレルは出会えてよかったとしみじみ心で感じた。


 そして。


 ローレルはクライムに来た。

 ハンズで敵になる男たちを打ち倒し、ウェイブを使うファウルに誘拐され、ブレイドに助けられ……

 たった四ヶ月ほど。それだけの期間で、様々なことがあった。

 無力を知り、ウェイブを得て。

 ローレルは……

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