エピソード5

ローレルの過去

 少し長くなるかもしれないが、過去の話をしよう。


「左を制する者は世界を制す」


 通常、右利きが多いボクシングでは、本命の右拳を当てるために左のジャブが重要となる。ジャブはひとつではない、牽制のための、こちらに向かってくる相手を止めるための、相手を翻弄するためのもの、本命を当てるための誘導、腕をしならせて放つフリッカー、ジャブだけでも使いこなせる者は非常に少ない。

 左のジャブを使いこなし、必殺の一撃を当てることができれば、敗北はない。

 これをローレルはボクシングを始めてすぐに教えられた。他でもない、ボクサーであった父カレジ・レパードに、である。当時幼かったローレルにその正確な意味など理解できるはずもなかった。ただ、わかるのは「左が重要」ということである。


 そして知ったのだ、「自分には左がないこと」を。


 重要も何もない。ローレルには左腕がないのだ。


 腕がないものでも攻撃を打ち込める人はいる。肘から先がない場合だ。その場合、肘を拳と見立て、攻撃するのである。もし左腕がない人でも、左肘があれば拳と見立てて、ジャブを放つことも可能かもしれなかった。

 だが、ローレルには肩から先がないのである。肘もない。何かを拳と見立てることはできない。

 完全に、右だけで闘わなければならない。


 左を制すことができない。


 だからこそ、父はローレルに教えたのかもしれなかった。ローレルにはつねに敗北が付きまとい、つねに油断が許されず、右だけで闘わなければならないことを実感してほしかったのだろう、と。今のローレルは思っている。

 毎日、父の友人が経営しているボクシングジムに、父と通った。


 父は決して、ローレルにボクシングを続けろとは言わなかった。むしろ、いつでもやめていい、そう言っていた。


 公式の試合には出られない。練習の試合に出られても、五体満足の相手と闘う機会のほうが多い。障害があって、ボクシングをやっている者などほんの一握りだ。

 試合になるたび、父に背中をぽんっと大きな手で押され、リングに送り出されたのをローレルはなんとなく覚えている。


 そして当然だが、試合で負けた。勝てない。勝てるはずがない。最初は何度も敗北を経験した。その度に、父はやめてもいいんだ、とローレルに諭した。


 だが、ローレルはやめなかった。やめたくなかった。

 好きだったのだ、ボクシングが。父の教えてくれるボクシングが。父のしていたボクシングが。

 ローレルを育てるためにボクシングをやめた父の代わりでも、何でもない。ローレルにとって、ボクシングはなくてはならないものだったのだ。

 始めた理由は、母を、左腕を失った悲しみからの逃避だったのかもしれない。しかし、好きなものは好きなのだ。体を酷使して全身に痛みを感じても、何度も鉄の味を体験しても、何度も敗北しても。

 それでも、絶対に。ローレルはやめなかった。


 左を制する者は世界を制す、ならば、ローレルは右拳だけで左も右も制してやろうと。


 右拳だけでジャブを使いこなし、本命を叩きつけてやると。

 ローレルはただひたすら努力した。拳が血塗れても、足が震えても、止まらず、努力し続けた。


 そうして、ある日。敗北のみを味わっていたローレルが、勝ったのだ。


 年上の女ボクサーを相手に、右拳だけのワンツーを叩き込み、KO勝ちをした。十三歳にして、初めての勝利だった。

 無論、公式の試合ではない。だが、勝ったのだ。

 試合を見ていた父は、涙をこらえながら「よくがんばったな」と。ローレルの頭を優しく撫でながら、言った。


 嬉しかった。好きだったボクシングで勝てたこと、大好きな父に褒められたこと、何もかもが。

 勝った。

 勝てた。

 勝利というものを得るだけでこれだけ気持ちが良いのかと驚愕するほどに、嬉しかった。


 それからも努力は怠らなかった。


 敗北を味わい続けていたローレルはいつの間にか、敗北を忘れるほどに勝利を重ねるようになった。

 世界が変わったようだった。楽しくて幸せで、満たされていた。

 しかし、それも長くは続かなかった。


 ……父が、病に倒れたのだ。

 そして病魔と長く闘い、ローレルが十五のとき、死んだ。


 独りになった。


 母はローレルを庇って事故で死に、父は病で死に、兄弟いないローレルには、疎遠な祖父母ぐらいしか血縁関係があるものはいない。


 ローレルは初めて孤独というものを知った。

 孤独を感じないために、一人でもボクシングを続け、拳を振るった。父を失ってから、どうにも拳を憤りにまかせて振るっているようで、少しも楽しくはなかった。

 家に帰っても誰一人いない。ボクシングで「よくがんばったな」といってくれた父はもういない。寂しさで、死にたくなった。けれど、死んでしまえば母や父に顔向けができない、だから意地でも死にたくなかった。

 矛盾した感情と葛藤し、孤独に湧き上がる複雑な感情から逃避する中、ローレルは偶然見つけたのだ。


 父宛てのロイヤー・ハーメルンの手紙を。


 クライムに行くゆえに、もう一度闘うことも決着をつけることもできない。自分はクライムで、ハンズをやって生きていく、といった内容の手紙を。


 それを読んだ途端、ローレルの心の中の何かに火がついた。

 自分がやらなければ。死んだ父の代わりに、自分がハーメルンとハンズで決着をつけなければならない。そのためにクライムにいかなければならない、と。


 勝手な決めつけだ。


 公式の試合にも出られないローレルの、このままでは普通に就職を目指すしかないという未来を否定するための、勝手な決めつけだ。

 しかし、あまり親しい人間のいないローレルを止める者はいない。

 いや、その表現には語弊があるのかもしれない。


 なぜなら、クライム行きを決心したローレルを止める者が現れたからである。

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