雨の中
「女が、調子に乗るんじゃねえぞ」
合羽を着た女に向かって、男が怒鳴った。
雨が降り続く中、スラム街の無駄に広いコンクリートの道。ヒビをいくつも刻まれたマンションの前にあるその道で、男は合羽を着た女に因縁をつけてくる。道を通る人々は面倒はごめんだと、そくさく道を通り過ぎていく。
「テメエのせいで金がねえんだよ。俺の生活費をどうしてくれるんだ! エェ?」
眉間に深くシワを刻んだ男がズボンのポケットに手を入れ、合羽を着た女に歩み寄る。
合羽を着た女は、自分よりも背の高い男が迫ってくるのにも構わず、ふぅーっと長く息を吐くだけだった。合羽を着た女が少し身を揺らすだけで、合羽の左袖が揺れる。
「アァン? 少しは何か言ったらどうだこのアマ!」
男は雨で金髪や服などを濡らしているが、気にせず合羽を着た女を罵倒する。雨で衣服を濡らすとかどうとかは、このクライムでは些細なことだ。雨を気にするよりも、気にすべきものがある。
合羽を着た女の表情はフードのせいで窺えない。ただ、小さく口を開いたり、閉じかけたりしているだけだ。
「おいっ」
しびれを切らした男が、合羽を着た女に掴みかかろうとしたところで
「……そう言われても、私だって金が必要なんだ」
合羽を着た女が、ようやく、声を発した。凛とした、芯のある声だった。
「知らねえぇんだよテメエのことなんざよぉ」
「私も、お前のことなど知らないのだが」
表情ひとつ見えない合羽を着た女は、小首を傾げた。
合羽を着た女の言うことは至極当然、正しいものだった。そもそもクライムに正しいも間違いもないのだが、普通に考えれば、事情も知らぬ他人のことなど考えていられない。
「うるせえ黙れッ」
「何か言えといったのはお前だろう」
合羽を着た女は息を吐く。少々の困惑と憤りの混じった長い呼気だった。
「とにかくだ、テメエには金を払ってもらうぜ……もし払えないんだったらよぉ」
男の顔が下品に歪む。眉間のシワが刻まれたままのせいで、余計に笑みとは表現したくないような、醜いものだった。
「体で払ってもらわねえとなぁ、エェ?」
男の視線が、合羽を着ている女を舐めまわすように動く。
合羽の上から体のラインが十分女のものであるとわかるし、顔の上半分がフードで見えなくとも端整な顎のラインと小さな唇、凛とした声で若くそれなりに美人な女であると予想はできそうなものだ。
男は合羽を着た女の素顔を知っているのだが、もしも男が合羽を着た女の素顔を知らなくとも、同じ台詞を吐いたであろう。
「払う気はないぞ。金も、体もな」
合羽を着た女は恐怖を微塵も感じさせない堂々とした態度で言い返した。
「なら、無理やりにでも払わせてやるぜクソアマが」
男は叫ぶや否や、両腕を突き出して合羽を着た女を掴みに来る。
「ふっ」
合羽を着た女は軽く膝を曲げ、屈み込む。男の腕は虚空を通り過ぎるだけだった。
合羽を着た女は右足を前へ一歩踏み出し、つま先に力を入れて踵を浮かせ、地面を踏みしめた。腹の前で構えた拳を、合羽を着た女は内側から外側に振るう。裏拳に似た、変則的な軌道の拳が、男の顔面に突き刺さる。
「ふげっ」
上体をそらされ、男は空を見上げる。
合羽を着た女は、右拳を素早く引き戻し、拳を真っ直ぐに突き出した。上体をそらされ、上を向いている男の顎へ、ストレートが刺さった。男はたまらずダウンし、そのまま動かなくなった。
「加減は、したからな」
言い訳をするように呟き、合羽を着た女は未練もなくその場を立ち去った。
スラム街を歩き、小さな、窓さえまともにない家々がつくりだした複雑な道を通り抜け、そうしてたどり着いた扉も窓もない、ヒビだらけの建物に合羽を着た女は入っていった。完全に長方形の一室しかない建物だ。扉の代わりに、入り口には布があり、窓があるはずだった四角い穴には内側からビニールが張られて塞がれている。部屋の隅には一つだけバッグが置かれ、それ以外は何もなかった。
合羽を着た女はフードをはずし、合羽のボタンをはずし、チャックを下ろした。
「ふぅ」
長い茶髪をポニーテールにし、白いシャツとジーパンを着ている女だった。端整な顔立ちと力強い光を持つ瞳だけでも、女は目立つ。意思が強く、美しい姿はどこか人を惹き付ける魅力があった。しかしなにより目を引くのが、左腕がないことである。
隻腕の女……ローレルは合羽を畳みもせずに部屋の中心の床に置いた。
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