二度目の朝
事故で母は死んだ。
たった一度の、突拍子のない事故で。
一緒にいたローレルをかばったせいで。
母を失い、同時に自身の右腕も失った。
ローレルは当時幼かった。ゆえに幸いというべきなのか経験した事故の記憶はない。
左腕を失ったときの痛みも、母の死も。母に関しての記憶もほぼない。ただとても優しくて温かい存在だったことは覚えている。
……いや、母の記憶がないというには語弊があるのかもしれない。
覚えていないのではなく、記憶に留めようとしなかったのだろう。母が死んだのではなく、自分には母がいなかった。左腕も最初からなかった。そう思い込んで、記憶が作り出す痛みから逃げようとしたのだろう。
そうしていつしか。
過去の自分は、父のボクシングを教わるようになった。強くなりたいわけじゃない、ただ忌まわしい記憶を思い出さないために、苦しまずに済むために……そんな理由から始めたのかもしれない。今ではもちろん、強くなりたい。だが、過去の自分は苦しみを誤魔化すために始めたのかもしれないというだけだ。
父は優しく強かった。妻を失った父は、ボクシングをやめ、ローレルを一心に育てた。
一番悲しかったのは父だったのだろうに。愛する妻には先立たれ、娘は左腕がない。父が優しかったから、ボクシングをやめたから、ローレルは自暴自棄にならずに済んだ。自分に誇りを持てた。
父がいたから、である。
その父も、病気で死んだ。
ローレルにはボクシングしかなかった。左腕も、優しい母も、愛する父も失った。
いずれ、失うもの。しかし、早くに失ったもの。残ったのは父から教わったボクシング。
だから。
父が成せなかったことを、ローレルは成したかった。それが、自分を守ってくれた母のために、自分を愛してくれた父のためにできる、唯一のことのように思えたから。
だからローレルは――
△▼
ローレルは朝の目覚めが良かった。あれだけ体を酷使したというのに、目覚めが良いのはリベリアのおかげであろうか。ただ、それでも体を無理に使ったために不都合なことが起こった。
「さすがに、な」
全身を焼け付くような痛みが走る。耐えられないほどではない。痛みとしては些細な部類。単なる、筋肉痛だ。
ローレルは上体を起こしてベッドを降り、着替えを済ませてから部屋を出る。リビングにはブレイドがソファに座っていた。
「おう、ローレル。おはよう」
ブレイドが屈託のない表情であいさつをしてくる。
「お、おはよう」
声が若干上擦るのを感じながら、ローレルはあいさつを返した。
「お前、朝は早起きなのか」
唐突なブレイドの問いかけに、ローレルは首をかしげる。
「いや、違うが」
ローレルは寝起きが悪いというわけではないが、起きる時間は決まって六時や七時だ。クライムに来る前、なるべく規則正しい生活は心がけていたため、起きる時間は体が覚えている。
「五時起きなんて、滅多にないだろ」
「今、五時なのか」
「正確には五時二十二分。まあ、普通より早いことに変わりはねえさ」
肩をすくめて、ブレイドが返答する。映画やドラマの類は見ていないようで、テレビは電源がついていなかった。
クライムはインターネット、電話はできないし、テレビ番組も見ることができない。少なくともローレルはできる場所を知らない。テレビを使うのは映画やドラマを視聴するときだけ。だからもちろん、ニュースも天気予報もない。
ブレイドはテレビを点けていない代わりに、片手にハードカバーの本を持っていた。今読み始めたばかりらしい。最初のほうのページが開かれていた。
「そういうお前も、私より早いじゃないか」
「俺? 俺は今起きたんだよ。お前がドアノブに手をかけてこっちに入ろうとしたところでな」
「まるで私に合わせて起きたみたいじゃないか」
「警戒心が強いんだよ。どんだけ深く眠っていようが、人が近寄ってくれば起きる」
「何だか、機械みたいだな」
「ま、そんなもんさ。体は正真正銘人間で、サイボーグなんてSFみたいな存在じゃねえがな」
ブレイドは珍しく自嘲気味な笑みを浮かべた。このことにはあまり触れないほうが良いのかもしれない。早々に話題転換してしまおう。
「早く起きられたのはリベリアのおかげかもしれないな……隣、座って良いか」
「ああ、気にせず座れ。そんで、リベリアのおかげって何でだ」
「マッサージをしてくれた。あれは、気持ち良いな」
いいながら、ブレイドとは距離をとってソファーに座る。
「リベリアのやつ、お前にマッサージしてたのか」
「ブレイドのほうが上手いんだそうだが、本当か」
「何だその疑わしそうな目は。あいつにマッサージ教えたのは俺だぜ」
意外な事実に、ローレルは瞬きをした。
「まあ、教えたのは正しいマッサージじゃなくて、俺がやってほしいマッサージだけどな」
「かなり気持ちよかったぞ」
「あいつもお前とは違う方向で、努力を怠らないタイプの人間だからな。教えてもらったからって鵜呑みにしねえんだよ、自分で改良しちまう。料理なんざ、金で稼げるレベルまでいってるさ。下手なレストランの料理より美味い……最初はド下手だったのによ」
きっと、自分の実力を理解し、妥協もせずにひたすら努力したのだろう。恐らく、自分一人のためなら努力はさほどしなかったかもしれない。リベリアの場合は、主人であるブレイドがいたからこそしたのだろう、とローレルは思った。
ローレルは少し羨ましかった。ブレイドとリベリアは、まるで家族のようだからだ。確かに主人と奴隷だ。主従関係である。だが、それでもリベリアはブレイドを信じているし、ブレイドはリベリアをただ奴隷として扱っているわけではない。ローレルにはもう、親しい家族はいない。疎遠な祖父と祖母しかいなかった。だからこそ、クライムに来れたわけなのだが。
一旦、会話が途切れる。
ブレイドは大きなあくびをし、ローレルは背伸びをした。
ふと視線をブレイドの手元にあった本へ向ける。最初のほうのページをめくっていたはずの手は、最後のほうのページをめくっていた。
「読むの、早いな」
「あん? 全然読んでねえよ。俺はプロローグとエピローグ先に読むんだよ。おかげで最初と最後を読めば、大抵の展開はわかるようになっちまった」
「つまらなくならないのか、それで」
「いや。展開を読ませておきながら、隅から隅まで読みたくなっちまうのが面白い本ってもんよ。予想を裏切られたときなんてチョーサイコー」
ローレルにはそういった娯楽の楽しみ方はない。だからブレイドの言うことにはあまり共感できなかった。娯楽の楽しみ方は人によりけり。ブレイドが楽しいのならば、いいのだろう。
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