夜中
夜中。
深夜に、ローレルは目が覚めた。
別に、眠る前に試聴していたホラー映画が怖くてよく寝られないわけではない。怖すぎて記憶に残っていないのだから、怖がりようもない。
クライムに来てから上質なベッドを使わなかったせいだろう。横になっている分には気持ちが良いのだが、寝るとなると体がそわそわして上手く眠れないのだ。頭がすっかり冴えてしまって眠る気も起きない。
ローレルは上半身だけ起こし、しばらく呆けてからベッドを降りた。
「水、飲むか……」
背を伸ばし、小さく欠伸をしてから、ローレルは扉に向かって歩き出した。この部屋に置いた荷物に躓かないよう、気をつける。
目指すはリビングである。
扉を開けようとドアノブに手をかけて、ローレルは動きを止めた。
リビングのソファーでブレイドが寝ているはずだ。あまり音を立てては迷惑だろう。
そう思ったローレルはなるべく音がたたないよう、ゆっくりドアノブを回した。
僅かな音でさえ耳に届くほど、静かだった。ドアノブを回すときのかすかな音でさえ、気になってしまう。扉を開けるときにも音があまりでないようにローレルは気を配った。リビングに入り、慎重に扉を閉める。ローレルは意識が扉から外れた途端、部屋が明るいことに気付いた。
なぜ部屋の電気が点いているのか、その理由は簡単に想像できた。
ブレイドが電気を消し忘れたのか、それとも、
「よお、こんな真夜中にどうした?」
起きていたか、である。
ローレルは振り向き、ソファーに座っているブレイドへ視線を向けた。ブレイドは首をひねり、顔だけをローレルのほうへ向けている。ソファーの裏側にはたくましい腕が片方、だらんと垂れていた。
「別に」
「ホラー映画がトラウマになって、ビビっちまって寝れねえのか」
「そういうわけではないが」
「じゃあ……夜這い、とか」
「違うわっ」
全力で否定したローレルを見て、ブレイドは軽く笑う。
「前から思ってたが、お前、からかい甲斐あるよな」
「うるさい……起きてきたのは水を飲みにきただけだ」
「喉渇いたのか。何なら、コーヒーとか紅茶でも飲むか? 水も味気ないだろ」
ブレイドの問われ、ローレルは考える。眠気はないのだ。水を飲んでさっさと戻ってしまうよりはコーヒーや紅茶を味わって飲んだほうがいいかもしれない。無理に眠る必要はない。
「まあ……くれるのなら。ココアはあるか」
「おう。ソファーに座ってな。入れてやるから」
ブレイドは立ち上がり、台所に向かっていった。
ローレルはブレイドに言われた通り、ソファーに腰掛ける。
ブレイドがココアを入れるまでの間、ローレルはなんとなく辺りを見渡した。
テーブルの上には、コップらしきものがあった。
らしきもの、とはローレルが見たことがなかったからだ。
透明のグラスなどではなく、青っぽい色をした筒状で凹凸のあるコップだった。何か温かい飲み物をいれているらしくコップの口から湯気が立ち上っている。立ち上った湯気から漂う、にがいというか渋いというのか、とにかく風味のある匂いがした。
「ブレイド、これはなんだ」
「何って、湯飲みだ」
「湯飲み?」
「茶とか湯とか入れるんだよ。コーヒーカップみたいなもんだ」
「紅茶を入れるカップなのか」
「いや、紅茶じゃねえ」
頭に疑問符が浮かんでから、こういう入れ物を使うお茶があるのを思い出す。
「ぐりーんてぃー?」
「イェス、グリーンティー」
ブレイドが台所から戻ってきてカップをテーブルの上に置く。目の前に置かれたカップからほのかに甘い香りが漂ってきた。
「ほれよ」
「ありがとう」
ブレイドはローレルの隣に座る。片手で湯飲みとやらを持って口へ運ぶ。
ブレイドは湯飲みに口をつけ、お茶をすする。
湯飲みから口を離し、一息ついたブレイドは湯飲みをテーブルの上に戻す。
「変わったものを買うのだな」
「湯飲みは師からもらったやつだ。茶も師から教えてもらった」
「お前の師、か。きっと強いのだろうな」
「まあな。死んじまったけどな」
「それは……すまない。おかしな話題を振ってしまって」
「構わねえよ。何も気にしちゃいねえ。ただ、夜にレディと一緒だとな、饒舌になっちまうんだ」
ブレイドは全体重をソファーにかけ、くつろいだ。
「お前は何のために闘ってるんだ」
思い出したようにブレイドは尋ねてきた。ローレルはカップをテーブルにおいて、視線だけをブレイドに向ける。
「何のために、か」
「あぁ」
「……なぜそんなことを聞く」
「気になっただけだ。お前、クライムで育った人間じゃないだろ」
「そうだが」
クライムは人工島だ。複数の国が協力して作った島。クライムには法と呼べるものがほとんどない。殺人、強姦、窃盗、大麻……あらゆる犯罪行為も罪に問われない。狂った競技ハンズが認められているのもそのためだ。入島は簡単だが出ることはよほどの事情がなければ無理だ。入るだけならば、難民だろうが重犯罪者だろうが関係なく入れる。全ての悪を背負う場所、世界のゴミ箱……と、ローレルは祖国で教わった。
「わざわざクライムまで来て、何をしたいのかと思ってな」
だからブレイドは、ローレルが祖国を離れてまでクライムに来た理由を、ハンズをする理由を聞きたいらしい。出ることはほぼ不可能に近いクライムまで来て、ハンズをやる理由を。
「……倒したい人がいるんだ」
「クライムにか」
「多分、ハンズもしている。私はその人と闘って、勝ちたいんだ」
「名前は?」
「ハーメルン、ロイヤー・ハーメルンだ」
ロイヤー・ハーメルン。父、カレジ・レパードの、ボクシングでのライバルの名前だ。レパードが敗北を味わった最後の相手。ゆえに、ローレルは父の代わりにリベンジを果たしにここに来た。
その名を耳にして、ブレイドは一瞬目尻をあげたかに見えたが、すぐにいつもの態度に戻った。
「そりゃ難儀だな。わざわざ闘うためにここまできたのか。そいつがくたばってれば完全な無駄足だな」
「まあ、な」
痛いところを突かれ、ローレルは苦笑する。わかっている、会えるかどうか確証がないことは。会えない確率が高いのもわかる。だが、ローレルは会えると信じてクライムに来た。父のカレジ・レパードを倒した男ならば死ぬはずがない、と。
「お前はクライムの生まれなのか?」
「恐らくは、な」
「曖昧だな」
「親を知らなけりゃわからんだろ。親が戦争の難民だったのか、島流しにされた重犯罪者だったのか、その他なのか……全くわからねえ」
何でもないことのようにいうブレイドにローレルは言葉に詰まった。
親を知らない。つまり親に育てられていないのだろう。
「ま、どうでもいいさ。クライムで親がいないやつは珍しかねえ。人身売買だろうがやってもいい場所だからな」
ブレイドは湯飲みを持ち、お茶をすする。それから、黙ったままでいるローレルに向かって問いかけた。
「ココア、冷めちまうぜ。それとも猫舌なのか」
「あ、いや……飲む」
ローレルは慌ててカップを取ってココアを飲む。温かさが喉を通り、腹から全身に広がっていく。
親がいない。
クライムでは珍しくなくとも、ローレルの祖国ではあまりないことだ。親がいなければ「不幸な子」だと、「可愛そうな子」だと、同情されるぐらいである。クライムにはそれがない。むしろその「不幸」や「可愛そう」が当たり前でさえあるのかもしれない。ローレルは改めてここの異常さを実感した気がした。
「お前には親がいたのか」
「いた。今はいない」
「死んだのか」
「……母は私が幼い頃に事故で、父は私が十五歳のときに病気で死んだ」
母が死んだ事故が起こったとき、ローレルはその場にいた。そしてそのとき、ローレル自身の左腕も失ってしまった。
「そうか……なあ、親がいるっつうのはどんな感じなんだ」
ブレイドに訊かれ、ローレルは答えに戸惑う。
「親がどんなものって言われてもな」
ローレルはしばらく考えたが、さほどいい言葉は思いつかなかった。
「大切、としか」
「もういないんだろ」
「いない。だがもらったものはある。価値観や心のあり方などな。それは、両親が私に残してくれた財産だ。私のボクシングだって、父から教えてもらったものだし」
ローレルの答えが意外だったのか、ブレイドはきょとんとした表情でローレルを見た。
だがやがて自分の中で勝手に納得させたらしい。ブレイドはゆっくり目蓋を閉じ、ほほえみを浮かべた。
「いい親だったらしいな」
まるで独り言のように。いや、実際独り言だったのかもしれない。ブレイドはひどく優しげな声音で呟いた。今までのようなふざけた態度ではなく、落ち着いた雰囲気をしていた。
「あぁ」
戸惑いがちにローレルは頷いた。
いつの間にか、ココアはなくなっていた。ローレルの舌からは、ココアの濃い甘さが薄れている。
ブレイドのほうも、お茶を飲み終わっているらしかった。湯飲みからは湯気はでていない。中身も何もない。
ブレイドはゆっくり目蓋を開けた。黒曜石のような冷たい光を帯びた瞳が、静かにローレルを見据えている。
吸い込まれそうなほど透き通る黒、訪れる静寂。色付いていた空気から、透明になっていくような感覚。耳には二つ分の呼吸音。鼻にはココアの甘い香り。なんとも言いがたい夜気の冷たさを、肌が伝えてくる。
「な、なんだ」
そんな状況に耐えられず、ローレルはたまらず聞いた。だが、ブレイドは答えずにただじっとローレルを見つめている。
しばらくして。
「お前、綺麗だよな」
息の詰まりそうな沈黙を破ったのはブレイドのそんな言葉だった。
普段のローレルなら、即座に否定していたかもしれない。ローレルは男慣れしておらず、褒められるのも慣れていない。女らしく振舞ったり、男と付き合ったことがないからだ。だから、女としての褒め言葉をもらうのはむずかゆくなってしまって否定する。
だが。
ブレイドの眼差しがあまりにも真剣で。声音が低く、優しげで。
おだてる、褒めるといった類ではなく、心の底から思ったことを呟いた……そんなように見えた。
結局、ローレルは何も言葉が返せずに、ただ黙ってブレイドを見つめるしかなかった。ブレイドの黒い瞳に、吸い込まれそうだった。
上手く声が出ない。どうすればいいかわからない。顔が熱くなって、考えが及ばない。
「お前の純粋さは、いつか自分を殺すことになるぞ」
「……え」
「さて。暇だし、映画でも見るか……久しぶりにアレをっと」
ローレルから離れ、ブレイドはプレーヤーにディスクを1枚入れた。態度が数秒前とまるっきり違った。先ほどまでのことが嘘のように。
軽快な音楽と共に、テレビは映画の予告を映し始めた。
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