覚悟

 一糸纏わず、ローレルは少し熱めのシャワーを浴びていた。髪をまとめていたゴムもはずし、今はポニーテールからストレートになっている。


 降り注ぐシャワーはローレルの髪を濡らす。しなやかで力強く、それでいて女性的な体のラインを水滴がなぞり、滑り落ちていく。


「ウェイブ、か」


 髪からポタポタと落ちる水滴のように、ローレルは呟いた。

 体を包み込む、不可解な光。あれを出したファウルに、ローレルは手も足も出なかった。それどころか誘拐され、ブレイドに助けられる有様だ。


 情けない。


 ローレルはため息をつかずにはいられなかった。クライムではまだ自分が弱いことを思い知らされたからだ。


 ローレルは女だ。しかも、おしゃれや遊び、恋愛を楽しむはずの年頃である。だが、それを捨ててもいいと思えるほど、果たさなければならない目的がある。人生をかけて、勝ちたい者がいる。恐らく今の実力では足元にも及ばない。


 鈍い痛みを気にせずに一つしかない拳を握る。


 闘いにおいて、信用できる唯一の拳。ローレルがもてる技も、強靭な脚も、全て相手に拳をぶつけるために鍛え、磨いてきた。魂と呼んでも過言ではない。


「強く、ならなければ」


 ローレルは歯を食いしばり、真っ直ぐに拳を見つめた。

 もっと、もっと強くなりたい。しかし、願望を満たすには何をすべきなのかはわからない。

 胸に残るわだかまりを、シャワーは洗い流してはくれない。むしろ、より大きくさせているようにも感じられた。


「あの人に、勝つために」


 顔をあげ、真正面から熱い雨を浴びる。均整の取れた顔の線をお湯が流れていく。

 どうすればいい。強くなるためにはどうすれば……


 ――ウェイブは人の姿のままで、人を超える技だ。生身で勝とうなんざ思わねえことだな。


 ブレイドの言葉を思い返す。ウェイブは、人を超えるための技。

 なら、ならば。

 目には目を。歯には歯を。ウェイブには、ウェイブを。


 ローレルもウェイブを使えるようにすれば、まずはファウルのような人間には対抗できるのではないだろうか。しかし問題はどうやって使えるようになるのか、どんなしくみの技なのか、だ。一人では一生かけても身につけられないだろう。祖国ではウェイブなんてものは見られなかった。クライムの情報はさほど外には出ない。ゆえにクライムをあまり知らないローレルに、クライムで初めてみたウェイブを理解することは困難だ。


「パーガトリ、ブレイド」


 ひとつひとつ確認するように、呟く。

 もしかしたら、ブレイドならば波動のことを詳しく教えてくれるのではないだろうか。頼んでみる価値はあるかもしれない。

 しばらくして、シャワーノズルから降り注ぐお湯はぴたりと止んだ。




  △▼




 ローレルがシャワーを浴び終わり、髪も乾かし、服も着てブレイドのいる部屋に戻った。ブレイドは二つあるベッドの間で膝をまげ、腰を落とし、両手を広げた状態でいた。ベッドに面している壁を見ており、ローレルには背を向けている。なぜか半裸であった。


 ローレルはブレイドを視界に入れ、首にかけたタオルを掴んで濡れた髪を拭く。

 男の上半身はいくらか見慣れている。ボクシングをやる男は半裸だ。男とボクシングをやる機会はあまりないが、試合は見ていたために体の筋肉のつき方によって攻撃パターンを読めたりできるようになった。最も、ボクシングのルール上の話であって、ルールのないハンズで攻撃パターンを見極めるのは無理だ。


 ローレルはブレイドの体を眺める。いや、魅入ってしまった……のほうが正しいのかもしれない。


 ブレイドの体は大柄ではない。だが、固く締まった筋肉がいっさいの無駄なくついている。無意味に体を鍛えてつくった見かけだけの筋肉ではない。より闘いに向いた、実践的な肉体であった。細身とも言える体から引き出される力はきっと尋常でもないであろう。


 そんな体をさらけ出したブレイドは、ただただ深呼吸を繰り返していた。ローレルにも、ブレイドの大きく深い呼吸音は耳に届いた。


 ブレイドがゆっくり息を吸うと共に、背中が膨らむ。

 ブレイドが深く息を吐くと共に、膨らんだ背中が縮む。

 近くにいるローレルから見て、まるでブレイドのいる場所が別世界のような、ピンと張り詰めた緊張感が漂っている。


「ふぅ」


 だから、見惚れていたのかもしれない。何か特別な動作をするわけでもない。構えて呼吸するだけの、たったそれだけのことに、こんなにも「重み」と「厚み」を感じてしまったから。


「そんな熱い視線を送られちゃ、困っちゃうぜ?」


 冗談めかしくブレイドは言い、腕を垂らして落としていた腰も上げる。腰に手をあて上半身を少し捻り、ローレルに顔を向けてきた。


「わ、悪い。初めてみたものでな」

「男の裸が?」


 訳の分からなそうな顔をして、首をかしげながらブレイドが言う。


「違うわ! 呼吸のほうだ!」


 思わず、声を荒げて即答してしまった。


「あぁ、特殊みたいだからなこれ……んなところ突っ立ってねえでくつろいだらどうだ?」

「そうだな」


 ブレイドに促され、ローレルはベッドまで歩み寄り腰掛ける。ブレイドは目の前に立っている。自然体だった。先ほどまでの張り詰めた気そのものは霧散し、残留のようなものがブレイドにある気がした。


「いつもやってるのか」

「いつもじゃないな。気が向いたときにちょいとやる程度よ」


 ブレイドは右手で頭の後ろをかき、ベッドに置いていたバスタオルを左手で持って肩にかける。


「じゃ、次は俺がシャワー浴びさせてもらうぜ」

「あ、待ってくれ」


 シャワー室に向かおうとするブレイドを呼び止める。

 なぜならウェイブを教えてもらえるよう、頼むためだ。ブレイドにシャワーを浴びてもらってからでもいいが、思いついたことはさっさと終わらせてしまいたい。それほど時間のかかることでもないのだ。


「あんだよ」

「その……頼みがあるんだ」

「聞くだけ聞いてやる」


 それでもいい。聞いてもらえるだけでも十分だ。


「ウェイブとやらを、教えてほしいんだ。どんなものなのか……できれば、使えるようにもしてほしいんだが」


 これは賭けだ。

 ブレイドが了承しなければローレルはウェイブを使えるようになる日が遠ざかり、下手をすればそのまま終わることもありえる。しかし、ブレイドが了承すれば、ローレルは力を手に入れることが出来る。


 力だけで、何か出来るわけではない。それでも、力がなければ始まらないのだ。だから、ローレルには力が、ウェイブが必要だった。

 しばしの沈黙の後、


「報酬は?」


 試すように、ブレイドが訊いた。


「え」

「俺のメリット。つまり、アンタの頼みを受けた俺への報酬は」


 何も、言えない。

 金はそれほど持っていないし、ブレイドにはおそらく不要だろう。ローレルの宿泊代まで出してくれたのだ。金に余裕がなければそこまではしない。

 ローレルが持っているものはごくわずか。服や髪留めなど、必要最低限の物ばかり。

 そもそも、ブレイドにとって何がメリットになりうるのか、ローレルには想像もつかない。


「……なら」


 目標にたどり着けなくなるくらいならば、いっそのこと全てを捧げてしまえ。

 よぎった考えはローレルの行動を決めるものとなった。とうに覚悟はできている。ブレイドがいなければ自分はファウルやサイファーに殺されていたかもしれないのだ。

 震える拳を胸の前に置き、深呼吸をする。

 そして、ローレルは言葉を発した。


「お前が望むことなら何だってする。体だろうが心だろうが捧げてやる。だから、ウェイブを教えてくれ。私を、強くしてくれ」

「身体はともかく心も、か。本当にか?」


 低い声音でブレイドが訊ねる。ローレルはごくりと唾を飲み込み、戸惑いがちに頷いた。

 ローレルはブレイドに肩を掴まれ、一気に押し倒された。ローレルはベッドに体を埋め、ブレイドを見上げる。


「ブレ、イド」

「言葉には気をつけろよ。自分が可愛いならな……」


 手が頬に触れてくる。顔が近付く、漆黒の瞳が大きくなる。

 ローレルは思わず身を震わせたが、目はそらさずに真っ直ぐに言う。


「ウェイブを教えてくれるなら、構わない」

「わりと尻が軽いんだな。『お前』」


 舌なめずりをしながら、ブレイドはローレルを見下す。


「どうしても力がいるんだ。どうしても」


 肩が脚が、体が。

 恐怖でがくがく震え、止まる気配がない。それでも、拳を握り締め、ローレルはブレイドに言う。


「わ、私は、正気ではないかもしれない。だが、本気だ。だから、逃げも隠れもしない。ウェイブを教えてくれるのら、私はお前に何もかもくれてやる」


 沈黙が続く。ブレイドの刃ような鋭い視線がローレルに向けられる。張りつめた緊張感に、ローレルの胸がさらに大きな早鐘を鳴らす。


「……なら、教えてやるよ。報酬は前払いだ」


 やっと、答えを聞くことができた。

 ブレイドの手が、頬から首に移動する。


「んっ」


 ローレルは目を瞑り、これから起こるであろう出来事を覚悟する。

 しかし、いつまで経ってもそれは訪れなかった。首筋をなぞっていた指先が離れ、代わりに頭を撫でてくる。

 そっと、ため息を吐く音が聞こえた。


「こんなに震えておいて、よく言うぜ」


 優しい声音だった。


 恐る恐る瞳を開ければ、ブレイドは穏やかな表情を浮かべていた。こんなにも優しい表情ができるのか、と。ローレルは少しだけ驚いた。

 ブレイドは立ち上がり、ローレルから離れる。そしてシャワー室に向かって歩いていった。ローレルは慌てて上体を起こす。


「ま、待てブレイド。ウェイブはっ」

「無条件で教えてやるよ。どうせ暇だからな」


 声の下から、ブレイドは答えた。

 そしてシャワー室への扉が開き、音を立てて閉じられた。


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