エピソード2

ホテル

 もしも。

 もしもの話だ。


 今、ローレルが置かれている状況を、祖国にいる人たちが見れば驚くだろう。

 何せ見知らぬ……いや、実際は知っているのだが、それでも仲が良いわけでもない男と、同じホテルの一室で夜を過ごしているのだから。


「ふう、久しぶりに運動したな。なかなか面白かった」


 荷物を床に放り、ブレイドはベッドの上に座る。


「わ、悪いな。お金まで」


 ローレルには荷物も何もない。ゆえに宿泊代は全てブレイドが払った。ちなみにここまでたどり着いたのは、ブレイドの車に乗せさせてもらったためであった。


「構わねえよ」


 ブレイドは比較的落ち着いているが、ローレルはそうはいかなかった。


 異性と泊まる。


 家族である父親を除けば、そんなことはしたことがない。つまり未経験。つまり未体験。

 こういうときに、どう振る舞えばいいのかがわからない。異性と話す機会はさすがに何度もあるが、親しい間柄までいった異性はひとりほどしかいない。そのひとりでさえ、友達の仲で、こんなことはしていないのだ。


 わけもなく動悸がして、ひどく落ち着かなかった。異性と一夜を共にするなんて、自分には遠い世界の話のように思っていたから。


「アンタ、さっきからソワソワしてねえか」

「し、してないぞ」

「そうか?」

「そうだ」


 ブレイドには背を向け、ローレルは鼓動を落ち着かせるべく深呼吸をする。

 野宿するよりはマシだと、ブレイドの提案に甘えた。しかし、そのときはあまり意識をしていなかったのだ。いざ異性と泊まるとなれば、顔は熱くなり、早鐘が鳴る。


 確かにブレイドは命を助けてくれた。全く知らない人間よりは信頼ができる。それでも、気兼ねなく夜を過ごせるわけではない。知り合ったばかりの人間にそこまで心を許せるほど、ローレルはおめでたい女ではない。


「ふぅー」

「ひゃっ」


 突然、耳元で息を吹きかけられ、ローレルは普段では絶対に出さないような高い声をあげてしまう。


「いきなり何をするんだ」


 いつの間にかすぐそばまで来ていたブレイドに、ローレルは怒鳴る。ブレイドは楽しげに目を細めた。人差し指で、ローレルの鼻をつつく。


「緊張してるなアンタ」


 図星をつかれ、ローレルは黙ってしまう。


「もしかして、男慣れしてねえのか」

「あ、当たり前だろう! してるわけないじゃないか!」


 ボクシング。


 それがローレルがやっていた競技だ。ハンズで使っている技は全てボクシングで習った技である。ローレルは幼いころからずっとボクシングをやり、たった一つしかない腕をただひたすら振るってきた。自分が女であることや片腕しかないことに背を向けず、ひたむきに努力し続けた結果、男に勝てるようになった。


 そんなローレルが、男慣れしているはずがない。


「へえ」


 ブレイドは意地の悪そうな笑みを浮かべ、ローレルの背後に回る。ローレルが何事かと思う前に、ブレイドの指先が腰に触れてきた。


「うわっ」


 ゾワ、と。寒気に近いものが背中を走る。飛び跳ねそうな体を、ローレルは必死に押さえる。


「面白い反応するなアンタ」


 腰に触れている指は徐々に上に移動してくる。そして背中まで来ると、離れていった。


「それはそうと、だ」


 今度は右手を掴まれる。


「何を……冷たっ」


 手の甲に冷たいものが当てられ、ローレルは突然のことにびっくりしてしまう。何かと思い視線を巡らせれば、保冷剤だった。ブレイドが保冷剤を持って、ローレルの手の甲にそれを当てている。タオルに巻かれた保冷剤が、ローレルの手の甲を冷やしていた。


 氷のうの代用だろう。腫れにはアイシングといって冷やすことが大事だ。


「腫れがひどくなるといけないからな。冷やしとこうぜ。片腕しかねえんじゃ、持てないだろ」

「あ、あぁ」


 本気を出していなかったファウル。そのファウルとの闘いが終わった後、拳を無理に使ったためにローレルの手の甲は腫れていた。ローレル自身はもちろん、そのことを知っている。だが、ブレイドがローレルの怪我に気付いているのは意外だった。他人の体など、あまり観察しないだろう。見るならば、顔や後姿くらいだ。


「ま、立っててもしょうがねえだろ。ベッドに座れよ」


 ブレイドはローレルの隣に移動するとそう言った。ローレルはブレイドの言った通りに、ベッドに腰掛ける。隣にはブレイドが座った。ローレルの右手を持ち、保冷剤を手の甲にしっかりを当てている。


「よく、わかったな」

「人の体は隅々まで観察するようにしてんだよ」


 言いながら、ブレイドの視線はある場所に注がれる。


「隅々までな」


 視線の先は、ローレルの胸元だった。

 ローレルはうつむき、肩を震わせる。


「なあ、ブレイド」

「なんだよ」

「そろそろ殴っていいか」

「こんな拳で殴ったら、腫れが悪化しちまうぜ。やめとけよ」


 楽しげなブレイドを、ローレルは睨みつける。ブレイドはすました顔でローレルの鋭い視線を受け流した。


「少しは緊張ほぐれたか」


 ブレイドに質問され、ローレルは先ほどまでの緊張が薄れていることに気付いた。ただごまかしただけのような気もしなくはないが。


「お、おかげさまでな」

「そうか」


 会話が途切れる。

 ブレイドはローレルの拳を眺め、ローレルはどこに視線を向けたらいいかわからずに泳がせる。

 呼吸が、静かな時の中で唯一の音だった。手の甲に当てられた保冷剤の冷たさが、手に染み込んでいく。心地いい冷たさだった。


「なあ」


 しばらく続いた沈黙を破ったのは、ローレルだった。


「あん」

「なんで私を助けてくれたんだ」


 ブレイドは赤の他人であるローレルを助け、今はこうして部屋に泊めさせてもらっている。ローレルにはありがたいことだが、ブレイドがただの良心でやっているわけがない。ローレルはブレイドがここまでする理由を知りたかった。


「アンタを助けたほうが面白そうだったから」

「面白そうって、お前なぁ」

「言っただろ。俺は闘いが好きなんだって。アンタを助けたほうが面白い闘いが見れそうだから。だから、助けたんだ」


 それ以上でも、それ以下でもない……そう、ブレイドの瞳が語っていた。


「ボクシングってのも、見るのは初めてだったしな」


 ブレイドの口から、意外な言葉が出た。


「知ってるのか、ボクシング」


 思わず、ローレルは聞いてしまった。いくらボクシングが特徴的なスタイルで行われるからといって、見ただけでわかる人間などクライムにはいない……とローレルは思っていたからだ。


「まあな。詳しいことまでは知らねえけど」


 ブレイドは肩をすくめて答えた。


「それより、ある程度手を冷やして痛みがひいたならシャワー浴びちまえ。地面転がったりして汚れたんだ、綺麗にしたいだろ」


 確かに、闘ったときには汗をかいたし、このままでは気持ちが悪い。シャワーが浴びれるというならありがたい。

 そう思ってローレルは頷いた。

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